~2014年 5月5日~ その④
「……あ」
電子カルテの記載を終えて、医局に戻ろうとした時だった。雨宮は一人の患者の回診が終わっていないことを思い出していた。三階病棟の特別個室。患者の名前は、柊未羽。
ため息をつきながら、仕方なく踵を返す。回診に行っても、彼女は同じことしか言わない。だったら、行かなくても良さそうなものだが、そうもいかない。
特別個室に向かっている時に、初老の男性をすれ違った。柊未羽の祖父、柊葉蔵だった。雨宮は葉蔵に会釈をするが、むこうは鼻を鳴らして通り過ぎていく。どうやら、雨宮のことなど信用していないらしい。だが、別に落胆する必要はない。患者や家族の言うことにいちいち目くじらなど立てていたら、医者など続けてはいられない。雨宮はいつものように淡々とした表情で、特別個室を目指して歩を進めていった。
「失礼します」
数回ノックして、扉を少しだけ開ける。
「循環器内科の雨宮です。回診の続きに来ました」
雨宮は部屋に入らず、患者の反応を待つ。
しかし、返事はなかった。
「入りますよ?」
雨宮は了解を得ず、部屋の中へと入った。眠っていることも考えられるが、この時に怖いのが容態の急変だ。特別個室は広いため、ナースコールが押せない場合がある。
「……っ」
その光景を見て、雨宮は言葉を失くしていた。
部屋の中は真っ赤だった。夕陽に染まった室内で、未羽はベッドの上で蹲っていた。声をかけようと近づくと、足元に何か落ちていることに気がつく。ピラミッドが表紙に描かれた分厚い本。世界の風景を切り取った写真集であった。
「大丈夫ですか?」
雨宮が声をかける。だが、彼女は何も答えない。背中を丸めて、顔を両足に埋めている。時折、肩を揺らして、嗚咽のような声を漏らしている。
柊未羽は泣いていた。
「……」
雨宮は黙ったまま頭をかく。こんな時には、どうしたらいいのかわからない。とりあえず床に落ちてある写真集を手にとって、彼女へと差し出す。
「大事なものなのでしょう?」
そんなことしか言えない自分が憂鬱だった。我ながら不憫とさえ思えた。
未羽は膝に顔を埋めたまま、首を横に振る。
「……いらない。もう、何もいらない」
彼女の答えに雨宮は手を下ろす。そして、電話帳ほどのハードカバーの写真集をベッドに置いた。
この少女が何に悲しんで、何を嘆いているのか。雨宮には検討もつかなかった。
それでも、もう少しの間だけでも側にいようと。
そう、思うのだった。
「……ねぇ、雨宮先生」
未羽が膝から顔を上げて、雨宮のことを見つめる。
瞳から涙が溢れ、目尻は泣き腫らしたように赤く染まっている。
「先生、教えてください」
「何をですか?」
「私、退院できないのですか?」
彼女の問いに、雨宮は少しの間だけ黙った。
そして、いつものように淡々と答えた。
「現状では退院はできません。内服薬の調節や、定期的な血液検査をしなくてはいけませんので」
雨宮の答えに、未羽の目が悲しげに揺れた。
「……先生も、同じ事を言うんですね」
涙を溜めた目で、雨宮のことを捕らえている。
「さっき、おじいちゃんにも同じことを言われました。退院できないんだから、言うとおりにしなさいって」
目尻から涙が零れ落ちる。涙は少女の膝に落ち、小さな染みとなっていく。
祖父ではなく、おじいちゃんと言っているあたり、彼女の本音が零れているのだろう、と雨宮は思った。
「……もう、いやだ」
未羽は俯きながら肩を震わせる。
「こんな生活、もういや。病院なんか嫌い。おじいちゃんも嫌い。先生のことも、嫌い」
「……」
雨宮は黙って、彼女のことを見つめる。
「こんなんじゃ、生きている意味なんてないよ。自由にしていいなんて言われても、病院の中で何をすればいいの。何もできないじゃない」
背中を丸めて、顔を膝に埋める。
まるで、自分の殻に閉じこもるように。
「もう、何もかもいやだ。何も見たくない。何もしたくないよ」
雨宮は無表情のまま、彼女のことを見下ろしていた。その乾いた視線が、冷静であることを証明するように。
だが、いつもと違う点がひとつだけあった。
ぶらんと垂れ下がった右手を強く握っていた。少しだけ赤く腫れている右手を握り締め、閉じられた奥歯を噛み締める。
……このまま看取ろう。
……死亡確認は、僕がやるよ。
ふいに、昼間の患者のことが脳裏をよぎる。
助けられたはずなのに。
まだ、救えたかもしれない命なのに。
どんなに必死になっても、目の前で零れていく命には手が届かないのだ。
それなのに、この少女は何を言っているのか。
今もこうして生きているのに、なぜベッドの上で丸くなっているのか。
雨宮は冷静な男だった。
患者の急変にも、顔色すら変えない強い精神力を持っている。
だが、この時ばかりは違った。
たったひとつの感情に心が激しく揺さぶられていた。
……それは、苛立ち。
同情などという温い感情ではない。激昂するような衝動が、怒り狂うような感情が、雨宮の奥底からこみ上げてきていた。
雨宮は目の前の少女を見つめる。
背中を丸め、現実から目を逸らし、自分の殻にこもっている未羽のことを見つめる。
もう、耐えられなかった。
「自分が不幸だとでも思っているのか?」
ぽつり、と雨宮が呟く。
その声は尖った刃物のように鋭かった。
「えっ」
未羽は驚いたように顔を上げた。そして、身を強張らせる。
雨宮の苛立ちに満ちた視線が、彼女を貫いていた。
「お前は、自分はなんて不幸なんだ、と言ってもらいたいだけなんだろう。病院から出られず、家族の言いなりになっている自分が、可哀想だと思っているだけなんだろう?」
「……そんな」
「そうやって小さくなって、自分の殻に閉じこもって、無様に泣いて。そうしていれば、誰かが助けてくれるとでも思っているのか?」
未羽の声を遮るように、雨宮はいつになく大きな声を出していた。
「そうだよな。可哀想だよな。生まれた時から心臓が弱くて、入退院を繰り返してさ。学校もろくに行けないで休んでばかり。高校なんて入学しただけで、出席日数が足りずに自主退学。そりゃ俺だって可哀想だと思うさ。正直言うと、同情したくらいだ」
雨宮の言葉に、未羽は驚愕する。
なぜ、目の前の人がそんなことまで知っているのか、と恐怖した。
「な、なんで、知ってるの」
「俺はお前の担当医だぞ。それくらいの患者情報は把握している」
なんでもないことのように、雨宮は答えた。
「でもな、柊未羽。それくらいの不幸なんて、ここではいくらでもあるんだよ」
雨宮の顔に苦渋の色が濃くなる。
「ここは急性期の病院だ。毎日のように患者は死んでいく。ついさっきも、俺の目の前で患者が死んだ。俺が担当した患者だった。それに比べれば、お前はいくらか幸せだ。泣いて、喚いて、自分が不幸だと勘違いするくらいの時間があるんだからな」
「か、勘違い」
未羽の目が急に険しいものになる。
今まで涙をこぼしていた瞳に、怒りが灯っていた。
「勘違いって、どういう意味ですか?」
「そのままの意味だよ。自分が可哀想だと思い込んで、みっともなく喚いて人生を無駄にしている、お前みたいな奴のことだよ」
雨宮の言葉は、鋭い刃物のようになって未羽の心を突き刺す。
そして、次の瞬間には。彼女は歯を食いしばりながら、激しい怒りを浮かべていた。
「あなたに何がわかるの!」
雨宮の白衣を握り締めて、未羽が大声で叫んだ。
これまでに聞いたことのない、とても大きな声だった。
「私だって、やりたいことなんてたくさんあるよ! 普通に学校に行ったり、休みの日には友達と買い物したり。そんな普通の生活がしたかったよ!」
小さな喉を鳴らして、慟哭のように泣き叫ぶ。
「でも、そんなことさえ、私にはできなかった! 普通の生活さえ、私には許さなかった! 何でこんな体で生まれてきたのよ! 私が何をしたっていうの!」
精一杯の力で白衣を握り締める。
雨宮はそんな彼女の手首を掴むと、乱暴に振りほどいた。
「じゃあ、なんで何も言わないんだよ!」
未羽の肩が、ぴくりと揺れる。
「なんでいつも黙ってるんだよ! なんでいつも下を向いているんだよ! 黙っていたら何もわからないだろうが!」
雨宮の目つきも鋭いものとなっていく。
「結局、一人で泣いているだけじゃないか。泣いて、喚いて、それで満足なのか!」
「じゃあ、どうしろって言うの!」
彼女の問いに、雨宮の苛立ちは増す。
そんなこともわからないのか、と怒り狂いそうになる。
「お前は何がしたいんだよ! 言ってくれないと、何もわからないんだよ!」
雨宮は叫んでいた。
雨宮自身、自分がこんなに大きな声を出せることに驚いたほどだった。
「そんな死んだように泣くのは止めて、自分の言葉で我がままのひとつくらい言ってみろよ。お前はここに生きているんだろう!」
ひっ、と未羽が喉を鳴らす。
目に涙を浮かべながら、視線をそらして顔を俯かせる。
「か、簡単に言わないで! あなたに何がわかるの! 家族から厄介者みたいに扱われて、影では生まれてこなければ良かったなんて言われて! 居場所なんてどこにもないのに、我が儘なんて言えるわけがないじゃない!」
彼女は脅えるように首を振る。
「じゃあ、このまま死ぬのかよ」
雨宮の声に、未羽の肩がぴくりと揺れる。
「この病室で、ただ死ぬのを待つつもりか? 俺はそんなことは認めない。ここは病院だ。今も患者たちは、退院することを目標に辛い治療と向かい合っている。お前のしていることは、彼らを侮辱することなんだぞ」
項垂れた少女の頭を見下ろしながら、雨宮は続けた。
「俺は医者だ。だから俺は患者のために全力を尽くす。だけど、お前だけは御免だ。お前のように生きる気のないやつの力になんかなれるか!」
雨宮は突き放すように、乱暴に言葉を吐き捨てる。
未羽は肩を震わせていた。
悔しそうに歯を食いしばり、手元にあった写真集を手に取る。
ハードカバーに装丁された、とても厚い本だった。
「……出ていって」
顔を上げて、雨宮ことを睨みつける。
そして、手に持った写真集を雨宮に向けて投げつけた。
ハードカバーの写真集は、雨宮の額にぶつかって床に落ちる。
めまいを起こしそうな衝撃と、鈍い痛みがじわじわと広がっていく。雨宮は額に血を滲ませながら、床の写真集を拾った。
「もう出ていって! 二度と来ないで!」
未羽の悲鳴のような叫びを聞きながら、雨宮は彼女の病室を後にした。部屋を出る寸前に、棚の上に写真集を置いていく。
もう、この病室を訪れることはないだろう。
夕陽は沈み、暗い夜が迫っている。
目を凝らしても病棟の廊下は薄暗く、ふらついた足元は底なし沼にはまったかのように動けなくなっていた。




