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~2014年 5月5日~ その③

「助かったよ、雨宮君」

 背中越しに、北部長が声をかけてくる。

「雨宮君が見つけてくれなかったら、大変なことになっていたよ」

「いえ、大丈夫です」

「本当は、僕が見つけなくてはいけなかったんだ。これからは気をつけないと」

「あの場合は仕方ないでしょう」

 カテーテル治療の間、モニター画面をずっと見ているわけにはいかない。まして、新人の教育中ではガイドワイヤーの穿孔を見分けることなど困難を極める。実際、画面しか見ていなかった雨宮も、しばらく気づくことができなかったほどだ。

「とりあえず、今後のことは家族と相談してからかな。……なんだか連絡がとれないみたいだけど」

「わかりました。しばらくICUにいるので、何かあったら連絡をください」

「うん、頼りにしているよ」

 北部長は雨宮の肩を叩くと、ICUから出ていった。

「……」

 雨宮は無言のまま、電子カルテにこれまでの経過を記載していく。その表情は硬く、患者の窮地を救った達成感からはほど遠かった。

 八番ベッドの側には、先ほどの若い二人の医者が立っていた。何をしたらいいのかわからず、右往左往としている。

 雨宮は彼らから視線を外すと、じんわりと目頭を押さえる。

 暗闇の中、雨宮の思考はぐるぐると同じところを回っていた。

 もっと、早く気づくことができなかったのか。

 もっと、良い方法があったのではないか。

 雨宮は閉じた視界の中で、先ほどまでの自分の手技を反芻させる。改善するべきことはいくらでもあった。それに気づかされるたびに、自己の甘さと未熟が身を打ち付ける。わずかばかりの医者としての自信が、足元から崩れそうになっていく。

「……はぁ」

 電子カルテを書き終えた雨宮は、ゆっくりと長い息をついたときだった。

 突然、八番ベッドからアラーム音が鳴り響いた。

「っ!」

 イスから立ち上がり、状況を確認しようとモニターを見る。

 患者の心電図が、真っ直ぐの一本線になっていた。

「雨宮先生、心停止です!」

 誰かが叫んだ。

 その瞬間、雨宮は余計な考えを全て吹き払った。

「誰か除細動を持ってきて! それから北先生に連絡。このままカテーテル室に戻すぞ!」

 雨宮がベッドに上がり、患者の胸部に両手を当てる。

 心臓マッサージを行いながら、頭の中では治療方法を組み立てていく。患者のバイタル、心臓の状態、心停止していた時間。……大丈夫だ、まだ助けられる。

 だが、その時だった。

 背中越しに、戸惑ったような声が聞こえた。

「あ、あの、雨宮先生?」

「何をしている。早く患者の移動を―」

 そこまで言って、ようやく雨宮は違和感に気づいた。

 患者が急変しているのに、誰も動こうとはしない。ICUにいるスタッフが全員立ち止まって、心臓マッサージを続ける雨宮のことを見ていた。

「雨宮君」

 ICUの奥から、北部長が近寄ってきた。申し訳なさそうな顔で首を横に振っている。

「家族と連絡がとれた。これ以上の治療は望まないそうだ」

「えっ?」

 雨宮の両手から力が抜ける。

「この患者は、施設に入居している生活保護者だよ。家族とは絶縁状態で身寄りもいない。遠い親戚に連絡をとってはみたが、治療を望む声は聞けなかった」

「それじゃあ」

「このまま静かに看取ろう。雨宮君、ベッドから降りて」

「……わかりました」

 雨宮は両手を患者から離してベッドから降りる。無言のまま、無表情のまま、モニターを見つめる。心電図は相変わらず平坦なままだった。 

「死亡確認は僕がするよ。雨宮君は記録をまとめて」

「はい」

 雨宮はわずかに頷いてから、その場から離れた。そして、静かにナースステーションの電子カルテに向かっていく。

 がたんっ!

 その時。突然、何か大きな音がICUに響いた。

 何事かと辺りを見渡すと、誰もが雨宮のことを見ていた。

 そこで、雨宮は自分の手を見る。

 カウンターに置かれている自分の右手が赤くなっていた。その手は、自分でも信じられないくらい強く握りしめられている。このときになって、初めて八つ当たりをしたのだとわかった。

「……頭を冷やしてきます」

 誰に言うわけでもなく呟いてから、雨宮はICUから出て行った。


 午後六時。

 五月の夕日が病院を赤く染める。

 雨宮が病棟のナースステーションで電子カルテを記載していると、背中から声をかけてくる人がいた。

「よう、調子はどうだ?」

 榊誠士郎であった。

 髪を茶色の染めた心臓血管外科医は、いつものように人当たりの良い笑顔を浮かべている。

「何か用か?」

「そんなつれないことをいうなよ。用がないと声をかけちゃいけないのか?」

 榊は近くにあったイスに手をのばすと、雨宮の隣に座る。

「今日のこと聞いたぜ。なんというか、災難だったな」

 雨宮は答えない。黙ったまま、キーボートを打ち込んでいく。

 八番ベッドに入った患者は、昼過ぎにはICUを退室していた。死亡退院の御見送りには雨宮も付き添ったが、家族とは絶縁状態のため、迎えにくる人はいない。仕方なく、患者本人と霊柩車の運転手に向かって頭を下げた。このまま焼き場に直行して、無縁仏として葬られるのだろう。

 現在、ICUの八番ベッドには別の患者が入っている。経過は良好で、数日中には一般病棟に移れるだろう。幸いなことだ。

「榊、仕事がないなら家に帰れ。宿直室はお前の部屋じゃないぞ」

「あぁ、そうだった。俺にも借りているアパートがあったんだったな。一ヶ月も病院で寝泊りをしていると、そんなことも忘れてしまいそうになるぜ」

 榊は声を出して笑いだす。

 ICUのすぐ側には、医者が寝泊りできるような宿直室があった。だが、普段から榊が使っているため、その部屋を使おうとする医者はいない。

「まぁ、俺のことはいいんだよ。それよりお前だ。仕事が終わったなら休めるときに休め。じゃないと、急患に対応できなくなるぞ」

「わかっている。だから、こうしてカルテ整理をしているんだ。患者の様子を一通り見たら帰るさ」

 電子カルテを睨みつけながら淡々と答える。

 そんな雨宮を見て、榊はにやりと笑った。

「大丈夫そうだな」

「何が?」

「落ち込んでいるじゃないか、と思ってな」

「俺が?」

 雨宮は電子カルテから目を離して、怪訝そうな顔を浮かべる。

「そんなふうに思われるのは不愉快だ。それにお前も言っていただろう。同情なら、患者だけにしておけと」

「ははっ。それもそうだな」

 榊は笑いながら腰を上げると、そのままナースステーションから出ていった。

 雨宮は再び電子カルテと向かい合う。

 沈黙と、キーボードを叩く音だけが響く。

 ……落ち込んでいないといえば嘘になる。

 だが、仕事に差し支えるわけではない。自分が無能であることも、無力であることも。自分自身がよくわかっていた。

 だからこそ、目の前にその現実を突きつけられると、どうしようもなく惨めになる。

 自分はこの場にいるべきではない、と心の中で悟ってしまう。

 医者とは、榊のような人間にこそ相応しいのだ。貪欲なまでの向上心、揺るがない強固な精神、風邪もひかない丈夫な体。

 そのどれ一つをとっても、自分は満足に持っていない。

 向いていないのだ。医者に。

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