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『かわいそうなおひめさま』


 そうして おひめさまはおうじさまと いつまでもしあわせにくらしました


 めでたし めでたし


 』



   *****




 広い窓から差し込む光は、カーテンもないのに、どこか陰っているようでした。今は真昼のはずです。なのに部屋を照らす光は月のように、冷たく、しんしんと刺すようでした。

 部屋には化粧台がありました。本棚がありました。箪笥たんすがありました。どれもこれも象牙色で、まるで雪でできているようでした。

 その雪の国の中、ひときわ輝くような白がありました。雪のように――いえ、氷のように白い肌の少女が、寝台に座っていました。金の糸で刺繍された花畑の中を戯れるように、柔らかい笑みを浮かべています。雪の国の中、その笑みだけが春の日差しをたたえていました。

「――ねぇ」

 淡い桜色の唇から、鈴のような声が零れ落ちました。もしそれが本当の鈴であったなら、ころころと転がるそれを誰もが欲しがったでしょう。冷たく、甘やかで、耳の奥をくすぐっては消えていくのです。

「今日も、うたが聞きたいわ」

 彼女はうっそりと笑み、少女を見つめました。

 部屋には人がいました。彼女の他に、もう一人の少女がいたのです。

 もう一人の少女は、まるで壁のようでした。そこにあるのが当然すぎて探そうとも思わない、表情のない少女。彼女は、召使でした。

 召使はその声に触れてもやはり表情を変えないまま、では、と小さな声で応えます。

 うた、といっても、召使は器楽や声楽の心得があるわけではありません。この部屋の主のように、耳を澄ませるような声というわけでもありません。

 召使はやはり凡庸な声で、しかし先ほどまでよりも少しばかり大きな声で、言葉を呟きました。

 そこには旋律メロディ拍子リズムもありません。

 それは、物語うたでした。

 砂漠の熱風が髪を揺らしました。奥深い森の木々の露を嗅ぎました。祭りの出店で売られる蜜飴を舐めました。荘厳な儀式の始まりの沈黙を聴きました。空に手向けられた産声に触れました。しとやかに眠る、部屋の主が描かれました。

 目を開ければ、そこは変わりない象牙色の部屋です。ですが少女は、まるで世界中を旅したかのようにまぶたの奥で見たのです。

 彼女はこの召使をとても気に入っていました。部屋を出歩くことを嫌う彼女ですが、外の世界への興味がないわけではありません。むしろ触れたことのないそれを、星を眺めるように好いていました。きらきらと輝くそれを手中に欲しいわけではないのです。ただそのきらめく音に耳を傾けていたいだけで。


 ――彼女の足は、彼女の思うようには動いてくれない。




 むかし あるところに あしのわるいかわいそうなおひめさまがいました

 うんとちいさなころにけがをして はしれなくなってしまったのです

 おひめさまは はしるのがすきでした

 だから ゆっくりとあるくことしかできなくて とてもかなしくなりました


 おひめさまには いじわるな3にんのあにがいました

 あにたちは おひめさまがへやからでると きまってこうはやしたてるのです


「おうい、うすのろひめ! どんくさ かめのこ! くやしかったら はしってみろよ!」


 おひめさまはかなしくて かなしくて へやからでなくなりました


 あるひ (ひと)りのめしつかいがおひめさまにいいました


「ひめさま わたしがそとのせかいを つれてきてあげましょう」


 めしつかいがうたをうたうと へやのなかはうつくしいけしきでいっぱいになりました

 めしつかいは まほうのこえをもっていたのです


 』



 彼女は、不幸だと思ったことはありません。

 他人が自分を何と呼んでいるのかは知っています。可哀かわいそうな子。足の不自由な子。役に立たない子。家族ですら、屋敷の隅に彼女を押し込めていないものとして扱っています。

 しかし少女には召使がいました。何を考えているのかも分からない無表情、ですが誰よりも優しい人でした。少女に寄り添い、生まれたての雛を包み込むように、そっと手を差し伸べました。

 家族にも見放された少女を、他の召使たちは嫌がっていました。いちいち歩くのにも支えを必要とする彼女の世話を、面倒だと思っていたのです。

 しかしその召使はいつも傍にいました。服を着替え、化粧をし、用を足し、身体を拭き。一人でうまくできないことをするときは、いつだって助けてくれました。

 あるとき、少女は召使に常々(つねづね)思っていたことを聞きました。

「なぜ貴女はわたしに優しくしてくれるの? 他の召使は貴女ほど熱心でもないし、親身でもないわ」

 召使はその質問に、その時だけは狼狽ろうばいを見せました。そしてしばらくの沈黙の後に、いつも通りの無表情でこう応えました。

 私は貴女を愛しておりますので。


 ――羽根の折れた小鳥を、愛してしまった。



   *****




 その日、部屋の外に出たのは全くの偶然でした。読みたい本があり、屋敷の二階にある書庫に取りに行きました。いつもなら召使がとってきてくれるのですが、彼女は身体を壊してしばらく休みを取っていたのです。

「……何をしている」

 急に背後からかけられた低い声に、驚きで手すりを離してしまいそうになりました。少女は汗ばんだ手で手すりを掴みなおし、ゆっくりと振り向きました。少女からすると、兄にあたる人が立っていました。

「お、にいさ」

「今日に限って部屋の外に出ているなど。今日は客が来ている、視界に入る前にさっさと部屋に戻り二度と出てくるな」

「……はい」

 どうしても読みたい本でした。前の巻があまりに面白くて、普段しない夜更かしをしてまで読み終わってしまったのです。召使がもう少しだけですよ、というものですから。

 だから続きが気になって、召使の手を借りずに一人で書庫へ取りに行こうとしていました。

「全く、いつもは出てこいと言っても聞かない癖に。都合の悪い時にばかり顔を出しやがって」

「ごめん、な」

「何を呆けている、早くしろ。ぐずぐずと突っ立ってるんじゃない」

「ご、め」

「足ばかりでなく頭も悪いのか。こんなのと血が繋がっているなどおぞましい」

 どうしても読みたかっただけだったのです。

 部屋から出ない少女にとって、読書は数少ない楽しみでした。召使の物語うたを聞き外の世界を夢見るように、本のページめくる度に少女は世界を駆け巡りました。

 ただそれだけ、だったのです。

 必死に、足を踏み出しました。先ほどまで一歩一歩胸を弾ませながら登っていた段を、吹雪の中を歩くように震えながら下りました。手を貸してもらおうにも、周りに召使はいません。兄は当の昔に、少女を見捨てて通り過ぎていました。

 少女はゆっくりと慎重に階段を下りました。しかし、緊張のあまり足をもつれさせてしまいました。あっ、と声を上げる間もなく、少女の細い体は階下へ投げ出されました。

 固く閉じた瞼の奥に、足を怪我したときを思い出しました。痛くて痛くて泣きました。怪我が治っても走れなくなると言われ、もっと泣きました。

 今度は手が動かなくなったらどうしよう、召使は助けてくれるかしら。そう思ったその時です。

 硬いものが少女の身体を受け止めました。それは冷たい床石ではなく、生きた温もりを持っていました。少女を受け止めたのは、とても美しい青年でした。




 あるひ おひめさまがへやからでると いじわるなあにがいました


「さっさとへやにもどれ うすのろひめ」


「でも わたし ほんがよみたいのです」


「おまえなんかに よませるほんはないぞ」


 いじわるなあには おひめさまをつきとばして いってしまいました

 でも ぐうぜんあそびにきていたおうじさまが おひめさまをたすけてくれたのです


 おうじさまは おひめさまに ひとめでこいにおちました


 』



 生まれて初めて触れる異性の温もりに、少女は顔を赤く染めました。兄に触れ合うほど近づいたこともないのです。なのにいきなり抱きしめられているなんて。

「……君は」

 青年は困惑と驚きで何度かまたたき、しかし少女をじっと見つめました。じろじろと足を見られることはあっても、顔を見つめられたことなどほとんどありません。少女はますます顔を赤くして、下を向きました。青年はその仕草に、笑ったようでした。

「ここの家の子だろう? 知らなかった、こんなに可愛らしい子がいたなんて」

 少女は耳を疑いました。可哀そう、と言われたことなら数えきれないくらいあります。でも可愛いだなんて。




 おうじさまは おひめさまのために あるきやすくなるつえをあげました

 ふたりでなんどもなんども ゆっくりとにわをあるきました

 おひめさまがつかれると おうじさまはわらってだきあげてくれました

 


 おうじさまのやさしいこころに おひめさまもおうじさまがだいすきになりました


 』



 夢のよう――いえ、夢以上でした。

 少女は望んだことすらないような煌めきの中にいました。

 青年は少女に会うために屋敷に何度も来てくれます。最初に松葉杖を手渡された時の驚きと歓喜と言ったら。あまりの嬉しさに、涙が溢れました。

 それ以来、彼が来る度に庭を歩くのが楽しみになりました。彼がいない日も、杖をついて部屋を出歩くようになりました。兄たちは面白くなさそうでしたが、少女に意地悪を言う事はなくなりました。後から聞いた話だと、青年が止めるように言ったのだそうです。

「なんて素敵なのかしら。彼はまるでお伽噺とぎばなしの王子様のようだと思わない?」

 ねぇ、と召使に声をかけました。召使はそうですね、と小さく返しました。

 不意に、少女は召使の物語うたを最近は聞いていないことに気付きました。青年と歩く庭には彼女がうたう宝石のような小道も星屑のような花もありません。それでもどうしてか煌めいて見えるのです。

 でもなんだか部屋に閉じこもっていた日々が懐かしく思えて、少女は召使に言いました。

「久しぶりに、貴女のうたを聞きたいわ」

 少女は召使の物語うたを聞くために、目を閉じました。以前のように美しい世界をそこに望みました。しかしいつまでたってもうたは聞こえません。代わりに、召使の乾いた声が聞こえました。

 私には貴女の恋よりも美しいうたはうたえないのです。


 ――ああ。小鳥はもう、どこにもいないのか。




   *****





 あるはるのひ おうじさまはおひめさまのてをとって こういいました


「うつくしいひと どうかぼくとけっこんしてください」


 おひめさまは よろこんでうなずきました

 そうして おひめさまはおうじさまと いつまでもしあわせにくらしました


 めでたし めでたし


 』



 少女が青年の元に嫁ぎに行く日がやってきました。

 屋敷の隅で小さく震えていた少女は、もうどこにもいません。杖を持ち、背筋を伸ばして堂々と歩く姿は立派な貴婦人でした。彼女は見違えるほどに美しく成長しました。

 兄たちももう何も言いません。自分たちよりも立派になった少女に、意地悪したくてもできないのです。少女もまた、たとえ言われたってもう何とも思いませんでした。青年が好きだと言ってくれた自分を、誇りに思ったからです。

 少女の生きる道は、いつか部屋で見た夢よりもずっと輝いていました。



   *****



 ――羽の折れた小鳥を、愛してしまった。

 私は単なる召使で、彼女は仕えるべき主だというのに。


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