第八話 雲間の月
(この人が・・・)
扉は、玄関の扉だった。ここからすぐ外に出られるのかと、こっそり記憶に刻む。
ロシルは、一言で言えば鷹の様な雰囲気を纏っていた。短い髪や目の色が焦げ茶だったし、羽織っていた黒い外套や、鋭い目つきがそう思わせたのかも知れない。
「・・・・・・」
ロシルは入ってくるなりレイリアに目を留め、じっと眺めてくる。
(な、何・・・?)
戸惑っている間にすたすたと歩み寄り、横から、後ろから、また横から眺められる。
(な・・・何・・・?)
困りきってロシルを見ていると、すっと顔を首元に寄せられた。
(ななな何!?)
「・・・やっぱり、良い匂いがする。」
「え!?」
驚くレイリアを無視して今度はリリィの耳元に顔を寄せた。リリィは完全に無視だ。
「・・・・・・」
何も言わずにまたレイリアのところへ戻ってきた。身を強ばらせるレイリアを眺め、不思議そうに首を傾げてレイリアの隣に腰をおろした。
(ええっ!?何!?)
思わず助けを求めてセーヴィアスに視線を移すと、笑っていた。
「あ、あの・・・」
笑ってないで助けて欲しい。
「ロシル。まずは外套を脱いでかけなさい。それから、妙齢の女性にそう近づくものじゃないよ。」
「・・・そうか。」
分かったような分かっていない様な。ロシルは頷いて、言われた通りに外套を脱いでハンガーにかけた。そして改めてレイリアの隣に座り、もくもくと食べ始めた。
その様子を唖然と見ていたレイリアに、セーヴィアスは苦笑して言った。
「不躾ですまないね。彼は獣族で、人と関わりを持つ事にあまり興味がないんだ。だから、いくら教えても紳士には程遠い。」
「獣族・・・!?」
驚いて言葉が零れた。それに、セーヴィアスは特に反応せずに答える。
「そう。バルクス家にも獣族がいるんだってね?ロシルが言っていたよ。」
あまりの事に、何も言えずにロシルを見つめてしまった。気付いたロシルが目を合わせる。無言で見つめてくる様子が、寝起きのガイアスを思わせた。
(そう言えば・・・私を連れて来たのはロシルだって、リリィが言ってた・・・。じゃあ、あの時現れたのはロシルだったんだ。)
「・・・貴方は、どうして彼を・・・?」
問いかけると、セーヴィアスは少し悲しそうに笑った。
「・・・三年前に獣族殲滅の命があったのは知っているよね。」
「はい・・・」
「彼は死にかけてた。命からがら逃げたんだろう。僕は幸運にも彼と出会って、彼は一命を取り留めた。以来、一緒にいるんだよ。」
「・・・・・・」
(じゃあこの人は・・・ヴィトの仲間なんだ・・・)
生き残りはヴィトだけだと聞いていた。けれど、ここにもう一人いたのだ。感慨深くロシルを見ていると、また視線に気付いたロシルと目が合った。ロシルは少し視線を泳がせた後、おもむろにフォークに差した肉をレイリアの口に突っ込んだ。
「むっ!?」
慌てて顔を引いたものの、肉はフォークを滑り落ちて口に残った。そのままロシルは見つめてくる。
(も、もしかして・・・欲しがってると思われた・・・?)
一向に咀嚼しないレイリアを見て、ロシルは首を傾げた。
「食べないのか。」
「・・・・・・」
(は、恥ずかしい・・・!)
この歳になって人から食べさせてもらうだなんて、恥ずかし過ぎる。
「要らないなら・・・」
言いながら動きかけたロシルを、セーヴィアスが制した。
「待ったロシル。レイリアは食べるから、その必要はないよ。」
(えっ、何・・・?)
「そうなのか?」
再びじっと見られる。よく分からずに動けないでいるレイリアに、セーヴィアスは真剣な顔で言った。
「レイリア。食べないと“口で”取られるよ。」
(口で・・・・・・?・・・どうやっ・・・あ!)
理解した途端、かあぁっと体中が熱くなった。
(なっ・・・!?な、なんでそうなるの!?)
慌ててもぐもぐと咀嚼する。ごくんと呑み込むまで見届けて、ロシルは自分の食事を再開した。
(怖過ぎる・・・!)
赤くなった次は青くなったレイリアを見て、セーヴィアスはくすくす笑っていた。
夕食を食べ終わり、レイリアは食器を片付けるセーヴィアスを見て手伝いそうになったが、抑えて部屋へ引っ込ませてもらった。
身なりを整えて、部屋の扉がしっかり閉まっているのを確認した。
(よしっ!)
気合いを入れてそっと窓を開く。窓のすぐ外はもう、街の通りだ。
(絶対に心配してる・・・・。それに、今はあんまり怖い事はされてないけど、これから先されないとも限らないもの。)
イルアは不安になっているだろう。自分に何かあれば、己を責めるに違いない。
(イルア様のために、出来る事はやってみなくちゃ。)
もう一度扉の方を確認して、そっと足を窓枠の外へ滑らせた。音を立てないように細心の注意を払って外へ降り立つ。忘れずに窓をそうっと閉めて、通りを振り返った。
(・・・よしっ!)
一歩、踏み出した。
その時だった。
(——っ!?)
ひゅっと音がしたかと思うと銀色の線が目の前を走った。何事かと身を強ばらせる間に、糸のようなものが身体に巻き付き、締め上げられる。
(な、なに・・・?)
それは首にも巻き付いて、もう少し強く締められたら、確実に呼吸が出来なくなりそうだ。
ぞっと、身体が震えた。
「戻って。」
(!?)
聞き覚えのある、愛らしい声。いつの間にか目の前に、リリィの姿があった。
「まだ帰せない。戻って。」
「リリィ・・・」
この糸はリリィの仕業なのだろうか。 動けずにいると、リリィの背後で大きな闇が身じろぎした。
(なに・・・?)
目が逸らせないレイリアに見せつけるように、闇は瞼を開いた。
(!・・・まさか、ランセル・・・?)
巨大な闇は深緑あの瞳でレイリアを見つめている。その瞳には黄金の三日月が映って、その生物の凶悪さをちらつかせていた。
「レイリア、戻って。」
もう一度言われ、レイリアは逃走を諦めた。リリィに、ランセル。どうあがいても、抵抗すら難しい。
(・・・どうすればいいの・・・?)
少しは鍛えてもらっていたとはいえ、レイリアはやはり、無力だと痛感させられたのだった。
恐怖と不安に震える夜が明け、朝を迎えて、レイリアはベッドの上でぼんやりと窓の外を眺めた。
(・・・イルア様・・・)
くよくよしていても仕方がないのは分かっているが、何も出来ない自分がもどかしい。しばらくそのままでいると、こんこん、と軽いノックの音がした。思わずびくりと身体が跳ねた。
(リリィ・・・?)
だとしたら、今は会いたくなかった。
「レイリア、起きてる?」
(やっぱりリリィだ・・・)
途端に昨夜の事を思い出して、そっと喉へ指を滑らせた。糸が巻き付いたそこは、触れるとぴりっと痛みが走る。
(怖い・・・)
リリィも、ランセルも。リリィに指示をしたであろうセーヴィアスも。
(開けたくない・・・)
「起きていたら、食事を。」
レイリアは身じろぎ一つせずにじっと待った。扉に近寄るのも怖いし、扉を開けてしまうのも怖かった。
(何も出来ないんだもの・・・)
怖い。
しばらく経つと、小さな足音が遠ざかって行った。
知らず強ばっていた身体から急に力が抜けた。ほっと、わずかに息を吐く。そのまま、もそりとベッドに潜り込んだ。
(どうしよう・・・逃げられないとしても、あの人達と話す気なんて起きないよ・・・)
リュミエルが恋しい。いつでもレイリアを温かく見つめてくれるあの目が、恋しい。あの温もりが。
(リュミー・・・ごめんね、側にいられなくて・・・)
寂しくて不安な気持ちのまま、レイリアは無理矢理に目を閉じた。
「セティエス様、夕食の仕度が整いましたよ。」
「ああ、ありがとう。」
セティエスはぼんやりと座っていた長椅子から立ち上がった。レイリアの居所を調べるのには、まず自分が動けばいいのだが・・・イルアが落ち着かない今、屋敷をヴィト一人にするわけにはいかなかった。
ガイアスに調べてもらっていたのだが、夜遅くなってもイルアが戻らない為、今はイルアを探してもらっている。
「ヴィトも食べるといい。我々が力不足になっては、いざという時に役に立たなくなってしまうだろう?」
「・・・・・・・・・はい。そうですね・・・」
幾分しっかりしたものの、力無く笑って、ヴィトも食卓へついた。
「遅いですね・・・」
ヴィトの目が不安気に揺れた。それを見て、思わず溜息が出る。
「・・・そうだな・・・」
窓から空を見上げると、雲が月を隠そうとしていた。
ガイアスはもう、二時間程走り回っていた。いや、その前は情報収集のために走り回っていたから、かれこれ五時間近くなる。これだけ動き詰めになったのは軍にいた時以来だ。無茶な訓練の様で、懐かしくも感じた。
(まったく、あいつは・・・)
月明かりが弱々しく照らす。それが今のイルアのようで、ガイアスは仕方なくその姿を探す。家出した猫を探しているような心境だ。
心当たりをしらみつぶしに回って、ここが最後というところだった。
(いた・・・)
木の陰に、座り込んだイルアの姿があった。
がさっ、と草を踏み分ける音がして、イルアは顔を上げた。ガイアスが近づいているのは分かっていた。間違える筈もない、慣れ親しんだ気配だ。
「・・・・・・ガイアス・・・」
それしか言えず、イルアは黙り込んでしまった。と、呆れた声が降ってきた。
「何やってんだお前は。」
「・・・・・・」
相変わらずかちんとくる男だ。イルアは思わず苦笑した。
「・・・だって、レリィが攫われたのよ。大人しくいられる筈ないじゃないの。」
座り込んだまま、地面を見つめてそういうイルアに、ガイアスはさらに言葉を落とした。
「なら、何にもならない事はやめろ。」
「何にもならないって何よ!その通りだけど!」
「分かってるならさっさと戻るぞ。」
そう言って面倒くさそうに手を差し出された。その手を見つめて、イルアは力が抜けてしまった。
「・・・あんたってほんとに可愛くないわね・・・」
「気色悪い。」
「・・・・・・」
遠慮無く手を引っ張って立ち上がった。ついでとばかりに外套をばさりとかけられる。
「主人に対して横暴よ。もっと丁寧に扱いなさい。」
「はいはい。」
ひょい、と抱き上げられる。
「・・・寝るわ。」
「・・・・・・」
なんて自己中心的な主人だろうか。
(あいつがいなくなっただけで、こんなに取り乱すのか。)
イルアはもう瞼を閉じてしまっていた。それを少し見つめ、そっと歩き出す。
(リュミエルも気が立ってるしな・・・)
空を見上げると、月が頑張って雲間から顔を出していた。