後編
リリアが屋敷を去った後―――
王城での仕事を終え、いつも通り屋敷へ戻ったアルベルトは
外套の裾についた冬の冷気を払うように玄関をくぐった。
――違和感。
リリアの出迎えが、無い。
いつも寸分の狂いもなく
「おかえりなさいませ」
と一礼する凛とした背中。
それが、ない。
続いて出迎えた執事の表情は今まで見たことがないほど硬かった。
「旦那様。……奥様が、本日――」
「先に夕食を用意してくれ」
遮るように言ってしまった。
あの人の話題はいつも胸の奥がざわつく。
―――ざわつく理由はこの3年間、ずっと考えないようにしてきた。
食堂へ向かう。
長いテーブルの向かいは、リリアの席。
いつもなら、そちらにも温かな皿が運ばれるはずだ。
――何も、置かれない。
「……?」
足が止まる。
料理どころか、花瓶の花まで替えられていない。
この屋敷でそれが起こることは、あり得なかった。
アルベルトは廊下を進み、リリアの部屋の前へ立った。
ノックしても返事がない。
扉を開ける。
生活の匂いがなくなっていた。
リリアという人間が、そこに存在していた痕跡だけが、丁寧に消されている。
「……リリアは?」
背後で、執事が息を呑むのがわかった。
「奥様は……本日、屋敷を出られました」
言葉の意味が頭に届くまで一拍かかった。
――出た? リリアが? この屋敷を?
「……何を言っている」
声が低くなる。
怒りではない、脳が、情報処理を拒んでいる。
胸の奥に、冷たいものが落ちた感覚。
「こちらを……」
執事が差し出したのは、一枚の紙だった。
アルベルトが受け取り、目を落とす。
離縁届だった。
紙切れ一枚。その重さが、指先から腕を伝って、胸の中心まで冷やしていく。
署名欄にある文字は、端正で――感情のないほど丁寧だ。
「……ふざけるな」
吐き捨てるような声がでた。
感情がぐちゃぐちゃになって、両の拳を握りしめることしかできない。
「奥様は、昨夜高熱で倒れられました。医師は心労だと……」
「高熱?・・・心労?」
昨日の記憶が、遅れてよみがえる。
倒れたと聞いて帰ってみれば、寝台ではなく椅子に座っていたリリア。
弱い妻に見えたくない、とでも言うように精一杯背筋を伸ばして―――
あの時、自分は何と言った?
―――「今日は、必要ない。では」
目の前が暗くなる。
自分の言葉が、あまりにも――。
そのとき、喉の奥から何かがせり上がった。
呼び慣れない、名前。
「……リリア」
名前を口にした瞬間、胸がキリキリと痛んだ。
名前を呼ぶという行為が、こんなにも怖いなんて。
――拒まれて当然だと、自分が一番よくわかっている。
「……探さないと」
アルベルトは外套を鷲掴みにし、踵を返した。
執事が慌てて声を上げる。
「旦那様、どちらへ」
「……妻を」
口にした瞬間、胸がさらに締まる。
「リリアを、探しに行く」
今までなるべく接しないようにしてきた、いまさら都合よく呼び戻したいのか。
それでも、行かなければならなかった。
行かなければ――本当に、失ってしまう。
◇ ◇ ◇
まず向かったのは、リリアの実家――イシューシク伯爵家だ。
門前で名乗ると、取り次ぎは早かった。伯爵は困惑した顔で出てくる。
「侯爵。どうされたのです。……まさか、リリアが何か?」
「こちらには来ていないだろうか」
伯爵は目を見開き、首を横に振った。
「リリアですか?ええ、ここにはおりませんが・・・?」
「そうですか、夜分遅くに失礼しました」
アルベルトはそう答えて、伯爵家を出た。
次に、仕立て屋、花屋、図書商……
王都でリリアがよく足を運んでいるとメイドから聞いた店を回った。
どこも答えは同じ。
ただ――どの店でも、リリアの名が出ると表情が柔らかくなる。
「奥様は本当にお優しくて」
「こちらが恐縮してしまうくらいいつも御贔屓にしてくださいました」
「いつも笑顔で、ちゃんと人を見てくださる方で。お店の相談にものっていただきました」
胸の奥が沈んでいく。
自分は妻が外で向けていた温度を知らない。
知らないまま、三年を過ごした。
いや、自分で突き放したのだ。
―――夕暮れが落ちる頃、宿屋の主人からようやく手がかりが出た。
「銀髪の若いご婦人なら、今朝ここに。南の川沿いの町へ向かわれました。
荷物は少なめで……凛としておられましたが、ずいぶん疲れた顔をしておいででしたよ」
疲れた、顔。
胃の奥が冷えた。
あのリリアが、他人に疲れを見せるほど追い詰められていたということだ。
(それに俺は、気づけなかった・・・)
馬を走らせながら、アルベルトの頭の中で、ずっと押し込めてきたものが浮かび上がる。
――なぜ自分は、リリアに冷たくしたのか。
無関心だからではなかった、冷たく「する」と決めて、そうしてきた。
(……守るため、だった)
言い訳のように聞こえる言葉が、喉の奥で転がる。
アルベルトは侯爵家を継いだ直後、一度「痛い目」をみた。
父の急死、跡目争い、派閥の思惑。
その渦の中で――“アルベルトにとって大切なもの”は、真っ先に狙われた。
そして失った。
人の形をした「弱点」、その人をそうしてしまったのは、アルベルトのせいだ。
かつて婚約が内々に進みかけた相手がいた。
だが、親しくなり始めた頃、事故に遭った。
事後調査で、馬車の車輪に細工が見つかった。
命は助かったが、相手の家は恐怖で手を引いた。
そのとき、父の側近に言われた。
『情を見せるな。情を見せた瞬間、そこが斬られる』
アルベルトは理解した。
侯爵という立場は、守るものを増やせば増やすほど、奪われるものが増える。
それでも再度、政略結婚の話が来た。
イシューシク伯爵家は誇り高い家柄。現在は少し財政が傾いているが・・・
リリアは「高位貴族の妻」となるべく幼いころから教育された優秀な娘だ。
もはや年齢的にもこれ以上結婚を先延ばしにできないと、婚約を結んだ帰り際、
――偶然、耳にしてしまった。
扉越しに響いた伯爵の声。
『……お前が耐えれば、領地は守れる。リリア、駒になってくれ。』
アルベルトはその瞬間、息が止まった。
そうだ。
“望んで”、来るのではないのだ。
ならば、自分が情を見せれば。
リリアは「斬られる」。
また、”失う”ことになる
だから、距離を取ろう。
そう思って、屋敷でも、リリアが近づいてこないようにふるまった。
自分が冷たくすれば、リリアは心を置かない。
心を置かなければ、弱点にならない。
弱点にならなければ――狙われない。
そう信じて、三年。
だが現実はどうだ。
リリアは、屋敷の中で静かに疲労していたのだ。
(……守っていたつもりで、俺は……)
拳が震える。
馬の手綱を握る指に力が入る。
守るために冷たくした?
いや、そうじゃない、もっと醜い理由。
俺は――怖かったのだ。
リリアが自分に何かを求めたとき、自分は応えられない。
応えたくても、応える言葉を知らない。
また、あの時のように傷つけられ、離れられたら
俺は失望されて、また、彼女に見捨てられる。
だから先に“期待を断つ”言葉を言った。
「この結婚に期待はしていない」
リリアのためだと、自分に言い聞かせて。
本当は、自分の弱さのためだった。
危険も全て引き受けて、彼女と向き合う勇気を持てない自分の。
その結果が、離縁届。
浅いどころか、致命傷になってしまった。
◇ ◇ ◇
店主に教えてもらった後も、行く先で、聞きまわりながら、リリアの足跡をたどった。
辿り着いたのは川沿いの小さな町。
湿った風が頬を撫で、冬の名残が水面に薄く漂う。
そこでも宿屋をいくつか回り、最後に辿り着いたのは、花屋だった。
――――小さな店先で、花を選んでいる・・・
薄い外套。まとめた美しい銀髪。
長いまつ毛に覆われたアーモンド形の青い瞳は伏せられ、ツンと上を向いた鼻先を花近づけている。
その横顔は、屋敷にいた頃よりも少しだけ細く見えた。
自分の足音が、妙に大きく響いた気がした。
「……リリア」
名を呼ぶと、リリアの肩がぴくりと揺れた。
振り返った顔には驚きが浮かび――すぐに、感情のない、屋敷でよく見た微笑みが見えた。
「旦那様……どうしてこちらに」
旦那様。
その呼び方が、胸を抉る。
自分はこの3年、彼女の名を一度も呼ばなかった。
その結果、彼女も自分の名をよばない。当然の帰結だ。
「……探した」
「そう、ですか」
淡々と怒りも涙もない、何も期待していない目。
アルベルトは初めて、理解した。
リリアは“怒る段階”をとうに過ぎていたのだ。
この3年間はそれほどの時間だったのだ。
怒りは、期待があるから生まれる。
リリアは、自分にもう期待していない。
「戻って、くれないか」
「……戻る理由がありません」
言葉は丁寧だが、はっきりした拒絶。
アルベルトの喉が詰まる。
だが、ここで言わなければ本当に終わってしまう。
(終わりにしたくない・・・)
「俺は、お前に嫌われていると思っていた」
リリアの眉がわずかに寄った。
「それは……私の方では」
リリアは完璧すぎた。
礼儀正しく、社交も抜かりなく、屋敷を完璧に回し、いつも微笑んでいる。
その微笑みが、アルベルトには“壁”に見えた。
何もなかった初夜のあと。
一度だけ、アルベルトはリリアに声をかけようとしたことがある。
――「リリア」と。
だが言葉を出す直前、リリアが小さく身を強張らせたのを見てしまった。
怯えたのか、驚いただけなのか。
それを確かめる勇気が、アルベルトにはなかった。
アルベルトの態度を決定的にしたのは。
夜更けに廊下を通りかかったとき、リリアの部屋から微かな嗚咽が聞こえたことだ。
ドアの向こうで、マリアが必死に宥めていた。
『奥様、大丈夫です。奥様は何も悪くありません……旦那様もきっと』
その言葉に、アルベルトの背中は凍りついた。
(……俺のせい、だ)
そう思った瞬間、足が床に縫い付けられたように前に進めなくなってしまった。
扉を叩くこともできず、ただその場から逃げた。
その翌朝、リリアはいつも通り微笑んでいた。
何事もなかったように。
――泣いても、この人は俺に言うことはないのだ。
――俺は、そこまで拒まれている。
そして、政略結婚という現実。
伯爵家で聞いた、伯爵の言葉。
リリアは駒として、”望まずに”ここに来た。
ならば、この笑顔は彼女にとって仕事なのだ。
そう思い込めば、冷たくする言い訳ができた。
逃げの理由を彼女に押し付けて、俺は―――
アルベルトは、花屋の前で、唇を噛む。
「俺は……近づけば迷惑だと思っていた。お前が本当は望んでいない結婚だときいてしまったたから」
リリアの目が揺れる。
だが、揺れたのは怒りではない。
痛みだ。
「迷惑だなんて……私は」
言いかけて、リリアは言葉を飲み込んだ。
「……旦那様。私は疲れたのです」
静かな声が、アルベルトの胸を深く裂いた。
◇ ◇ ◇
小さな町の宿の一室。
アルベルトはリリアに話をする機会をもらった。
椅子に座って手を膝に置いたリリア。
指先がわずかに震えている。
それでも背筋は真っ直ぐだ。――弱さを見せまいとするけなげさ。
喉の奥がつまる。
「……やり直してほしい」
言葉にして、アルベルトはようやく息ができた気がした。
「お前がいない屋敷は空っぽだ。……俺はずっと、守るものがいることは、情を持つ相手がいることが、弱さだと思っていた。だが、違った。リリア、君は―――」
リリアは目を伏せた。
涙は落ちない。けれど睫毛が震える。
「……今さら、です」
「今さらでもいい。今からでいい」
アルベルトは立ち上がり、床に膝をついた。
誇りなどどうでもよかった。
失ってはいけないものが、目の前にある。
(今度は絶対に、失いたくない・・・!)
「頼む。やり直させてくれ」
沈黙が落ちる。重い沈黙。
リリアの呼吸だけが聞こえる。
「やり直すって……何を、ですか」
美しい青い瞳は悲し気に伏せられ、揺れている。
アルベルトは逃げずにリリアを見た。
初めて、真正面から向き合う。
「俺はお前のことを何も知らなかった。知ろうともしなかった。……守るつもりで、冷たくして、距離を取って。だがそれは、俺のための、逃げだった」
喉が痛い。
言葉にするほど、自分の卑怯さが浮き彫りになる。
「怖かったんだ。お前に期待されて、応えられない自分が露呈するのが。……だから、あの日、あんなことを言って君を傷つけた。・・・すまなかった。本当にすまなかった」
片膝をついたまま、頭を下げ、必死に言葉を紡ぐ。
リリアの指先がきゅっと握られる。
抑えていた感情が、そこに集まっているようだった。
「……ずるいです」
絞り出すような声。
それだけで、アルベルトの胸が潰れそうになる。
「ずっと……ずっと、聞きたかった。どうして、私は無視されるのか。
……どうして、ずっと私のことを見てくれないのか」
リリアは息を吸い、震える声で続けた。
「限界でした。……期待して、また裏切られる、それが怖くて」
アルベルトは頭を垂れた。
絶望が胸に広がる。
「条件があります」
リリアの凛とした声。
「三つ。守ってくださるのならば」
きれいな青い瞳がアルベルトを捉える。
「一つ。……私の名前を呼んでください」
「ああ、必ず」
「二つ。……気持ちを言葉にしてください、このようなすれ違いを繰り返さないために」
「言う。……言い訳をせずに誓おう」
「三つ」
リリアは少しだけ唇を噛んだ。
「私を一人にしないでください……何かあれば相談してください、声をかけてください。私は、あなたの」
瞳が震える。
「妻、なのですから」
「……誓う。この命にかけて。二度と君を一人にしない・・・!」
アルベルトの答えに、リリアは小さく頷いた。
「……では」
何かを言いかけて、言葉を探すリリア。
その間を埋めるように、アルベルトはそっと手を差し出した。
「・・・リリア」
控えめに動いた、白く細い手。
「触れてもいいか」
リリアは目を伏せ、小さく頷いた。
壊さないように。今度こそ、守るべきものを守るために。
―――この時感じた小さな手の体温を、アルベルトは一生忘れないだろう。
◇ ◇ ◇
「……帰ろう」
「・・・さすがに、すぐには戻れません」
「そうだな」
アルベルトは、苦い笑みを落とす。
それでも、胸の奥は温かかった。
「時間をかける。……お前の速度でゆっくり帰ろう」
リリアは小さくうなずいた。
「……はい、アルベルト様」
まだ少し冷ややかな晩冬の風が、小さな花の蕾を揺らす。
しっかりと繋がれた二人の手は、あたたかな温度を保っていた。
侯爵領では、ゆっくりと、雪解けがはじまっていた。




