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3年間、無視され続けた妻ですが、離縁届を出したら溺愛されそうです  作者: あけはる


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前編

 グラシア侯爵邸の朝はいつも、静かに始まる。

 絹のカーテン越しの淡い光が床を撫で、廊下の先で小さな足音が整っていく。


「奥様、起きていらっしゃいますか」


 メイドのマリアが控えめに声をかける。私はすでに身支度を整えていた。

 鏡の中の自分に、微笑みをひとつ添える。

 ――グラシア侯爵夫人は、いつだって整っていなければならない。


「ええ。朝食の支度は?」

「整っております。旦那様は……本日も、早めにお出になられるようです」


 マリアはそう言って一礼した。

 気遣いの間が、私の胸を小さく刺す。痛みは鋭くない。もう慣れている。


 結婚して三年。

 私リリア・グラシアの夫、アルベルト・グラシア侯爵は、今日も私と目を合わせない。


 リリアとアルベルトは政略結婚だ。

 イシューシク伯爵家当主である父が、伯爵家の領地を守るために差し出した駒が私で、

 王都で最も勢いのある侯爵家が彼の家だった。

 

 リリアは「高位貴族の妻」となることを望まれ、幼いころから相応しい教育を受けてきたから侯爵夫人としての社交を果たせるだろう。

 たとえ政略結婚だとしてもアルベルトは、「夫」としての責務を果たしてくれると父から聞いていた。


 最初は、その言葉を信じていた。


 初夜。

 私は緊張で手が冷たくなり、唇を噛みしめながらアルベルトを待った。

 夜遅く、部屋に入ってきた彼は、立ったまま、淡々と言った。


「……この結婚に期待はしていない」


 それだけ。冬の水のように冷たい言葉に。

 私は懸命に涙をこらえ笑顔を作った。


「はい。……承知しました」


 それが、私たちの結婚の始まり。

 それから三年間。


 私は彼に名前を呼ばれたことがない。


◇ ◇ ◇

 朝食の席。

 長いテーブルの端と端。置かれた料理は温かいのに、空気は冷え切っている。


 彼は持ち込んだ書類に目を落としたまま、食事を運ぶ手だけが動く。

 私は、その日の彼の予定を把握し、

 彼の好みに合わせた献立を毎日考え、味を確認し、合わせた食器を選ぶ。

 ――この人知れない努力は、三年間、一度も報われたことはない。


「本日の予定ですが、午後に商会の――」


 私が話しかけると、彼は「うむ」とだけ返す。

 それだけで、一日の主な会話は終わりだ。


 言葉を足すと、かえって邪魔になるのではないか。

 私も、余計なことを言わない妻になった。


 食事が終わり、彼は立ちあがる。


「行ってくる、見送りはいい」


 それだけ。

 背中が遠ざかり、扉が閉まる音が屋敷を満たす。


「いってらっしゃいませ」


 私は遠ざかる背中に一礼し、ふっと一息つく。


 今日も、泣かなかった。

 もう泣く力を、三年の間に失ってしまった。


◇ ◇ ◇


 午後、私は庭の花の手入れをしていた。

 指先に土の匂いが残るのが好きだ。

 ”侯爵家の奥様”になってもも、土は決して嘘をつかない。――触れれば、そこにある。

 嫁いできたころはそれはもう庭師に全力で止めらたものだが、

 もう3年もたつと家臣たちも慣れっこになって、放置されている。


 いつも通り土いじりをしていたのだが、その日は指先がこわばりうまく動かなかった。

 気づくと視界が滲み、息が浅い。


「奥様……?!」


 マリアが駆け寄ってくる。私は笑おうとしたが、頬もうまく動かない。


「少し、目眩が……」


 言った瞬間、がくりと膝が折れた。

 地面に落ちる寸前に、マリアと慌てて駆け寄って庭師が見えた―――


「医師を!」


 屋敷の中が慌ただしくなって、私は意識朦朧になりながら寝台に運ばれた。

 直ぐに駆けつけた医師が熱を測り、喉を見て、脈を取り、顔を曇らせた。


「疲労ですな。……かなり溜め込んでおられるようですな。旦那様に相談してみては?」


 心配そうな表情に、私は少し笑ってしまった。

 こんなになるまで気づかないほど、自分の状態管理もできないなんて。


 夕方。

 アルベルトが帰宅したのは、いつも通りの時間だった。


 私は起き上がり、部屋の椅子に座る。寝台にいると「弱い妻」に見える気がした。

 扉が開き、彼が入ってくる。


「……どうした」


 その一言に、胸が小さく跳ねた。

 心配の言葉だろうか。ようやく――。


 けれど彼は視線を合わせない。

 言葉を発しないアルベルトにしびれを切らし、私が説明をする。

 

「熱が出まして。……ご迷惑をおかけしました」


「医師は呼んだのか」


「はい」


「そうか」

 

 彼は短く頷いただけで、次の言葉を探す様子もなかった。

 沈黙が落ちる。私は手を膝の上で組み、きちんとした微笑みを作る。


「夕食は、私の代わりにマリアが――」


「今日は、必要ない。では」


 アルベルトはそれだけ言って、出ていった。

 扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。


 しばらく、動けなかった。

 医師の言葉が、遅れて胸に沁みてくる。


 ――旦那様に相談してみては?


 溜め込んだのは疲労だけじゃない。

 言葉も、期待も、願いも。

 この3年で、何も望まなくなってしまった。


(もう、潮時ね・・)



 夜、熱が少し下ががった私、は机に向かった。

 白い紙を一枚置き、ペンを取る。


 離縁届。


 書き進める間も涙は出なかった。

 今日のことで一抹の期待も消え失せた。


 署名を終えると、胸の奥が静かになった。

 嵐が去ったあとみたいに、空気が澄んでいく。


(……あの人は、私を必要としていなかった、この3年間ずっと)


 それなら私は、彼の視界から消えるべきだ。

 それこそ誰にも迷惑をかけずに――静かに終えるべきだ。


◇ ◇ ◇


 翌朝。

 私はいつもより早くベッドから抜け出した。

 熱はまだ残っていたが、身体は軽い。


 覚悟が固まると、人はこんなに静かになれるらしい。


 最低限の荷物をまとめる。

 ドレスは二着。下着。小さな薬袋。

 それと、母の形見の指輪。結婚後には外すように言われ、ずっと引き出しの奥に眠っていたものだ。


 アルベルトの書斎の前で足を止める。

 扉をノックするべきか迷って、結局、音を立てずに入った。


 もちろんアルベルトはいない。

 机の上に、整然とした書類の山。

 その端に、署名した離縁届をそっと置いた。


 一枚の紙切れに3年分の重みが乗っている。


 

 「奥様……本当に……」


 振り返ると、マリアが立っていた。

 目が赤い。

 私は、彼女の手をそっと握る。

 

 旦那様のかわりに、「侯爵夫人」として扱ってくれたのは、マリアやこの屋敷の使用人達だ。


「ありがとう。……3年間、支えてくれて」


「旦那様に、お話を――」


「いいのよ。……これ以上、困らせたくない」


 それは半分は自分を守る言い訳で、半分は本心だった。

 私は私なりに侯爵夫人としているように努めたつもりだったが、

 アルベルトにとって、”対応するに足らない存在”、”困る存在”であることが、何よりも辛かった。

 


 正面玄関から屋敷の外に出る。

 大きな玄関門の前で振り返った。3年間”我が家”だった大きな屋敷が、朝の光に白く浮かぶ。

 私は深く息を吸って、微笑んだ。


「――さようなら」


 声は震えなかった。

 それが、私に残された最後の誇りだった。

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