第10話「戻った日常」(終)
スイムトラベラー
第10話「戻った日常」(終)
東浦はゆっくりと目を覚ました。
いつもの天井。いつものカーテン。窓から差し込む朝の光は、青く揺れていない。普通の、柔らかな陽光だった。「……ん?」体を起こし、窓を開ける。
外は水浸しではなかった。道路は乾いたアスファルト。車が走り、歩行者が信号を待っている。女子高生たちは制服のスカートを翻して自転車を漕ぎ、誰も水着姿ではない。舟の音も、水しぶきもない。東浦はしばらく呆然と立ち尽くした。「戻った……のか」クローゼットを開けると、そこには制服があった。
久しぶりに着るブレザーとズボン。鏡に映る自分は、いつもの東浦だ。家を出て、学校へ向かう。
歩いて十分の道のり。信号を渡り、コンビニの前を通り、いつもの坂を上る。すべてが、元通りだった。学校の正門は普通の門。靴箱には上履きが並び、廊下は乾いている。
教室に入ると、クラスメイトたちは制服姿で席に着いていた。「おー、東浦! 遅いぞ!」石浜が笑顔で手を振ってきた。
ブレザーにリボン、いつもの幼馴染の姿。少しだけ大人びた制服姿が、妙に新鮮だった。「石浜……」東浦は一瞬、言葉を失った。
彼女は何も知らない。この笑顔の向こうに、水没した世界の記憶はない。舟で通学した日々も、竜宮城も、乙姫さんたちのことも。「どうしたの? ぼーっとして」石浜が首を傾げる。「いや……なんでもない。ちょっと、寝不足かな」東浦は笑ってごまかした。授業が始まる。
黒板にチョークの音。教科書は普通の紙。休み時間にはみんなで教室でおしゃべり。
水しぶきも、ライフジャケットも、防水ホワイトボードもない。放課後、石浜と一緒に帰ることにした。「ねえ、最近なんか変じゃない? 東浦、時々遠くを見てる感じ」石浜が心配そうに言った。「そうかな? 別に普通だよ」東浦は笑った。
でも、心の中では違う。時折、水着姿の女子を見ると、胸が締めつけられる。
夏のプール開きや、海水浴のニュースを見ると、遠い海底の宮殿を思い出す。
銀髪の女性の微笑み。光の中で消えていく姿。そして、新乙姫の涙。(ありがとう……乙姫さん)あの犠牲があって、今の平和がある。
自分の軽い一言が、誰かの命を奪い、誰かを救った。家に帰り、部屋で横になる。
窓の外は夕焼け。普通の、空が高い街。東浦は静かに目を閉じた。(もう、二度とあんなことは起こさない)でも、時々思う。
あの水没した世界は、悪いことばかりじゃなかった。
みんなが水着で笑い合い、舟で通学する日々。
少しだけ、懐かしい。石浜のビキニ姿。
乙姫さんの優しい笑顔。
亀崎の真剣な目。すべてが、夢だったかのようだ。でも、東浦だけは知っている。
それは夢じゃない。
本当の出来事だった。高校生活は続き、季節は巡る。
東浦は過去の記憶を抱えながら、静かに日常を生きていく。時折、水着の広告や海の写真を見ると、遠い海底で微笑んだ誰かを思い出す。(あなたのおかげで、平和なんだ)東浦は心の中で呟き、窓の外の空を見上げた。青い空の下、普通の街が広がっている。これが、みんなの望んだ世界。これが、乙姫さんが守りたかった世界。東浦は小さく微笑み、明日へ向かって歩き出した。――おしまい――
(第10話 終わり)




