迫り来る影
青い髪の少女の放った炎が、馬車と黒い“何か”を貫き、森の奥へと燃え移っていった。
ふわりと宙に浮いていた本が、まるで持ち主を見つけたようにティナの手の中へ収まる。
「ほら、立ちなさい。歩くわよ」
さっきまで可愛く眠っていた少女が、まるで別人のように冷静な声でクロエに手を差し伸べた。
「えっ……へ?」
そのギャップに、クロエの声は裏返った。
「……ぷっ! なによ、へ? って!」
青い髪の少女は思わず吹き出した。
「…」
彼女の言葉に恥ずかしさがこみ上がり、少女の炎の熱風で赤くなっていたクロエの顔はより一層赤くなった。
そして、揶揄われたことに無言で差し出された手を取らず、なんとか自分で立ち上がろうとした。
「あはは、ごめんって! 」
「助けてくれて…ありがとうございます…」
「別にいいわよ、自分のためでもあるし。
私、ティナって言うの、よろしくね」
ティナはそう言いながら、クロエの肩を軽くつかみ、半ば強引に立たせた——
———
クロエたちから三百メートルほど離れた崖の上。
黒の魔導書を手にした男と、腰に刀を差した黒髪で一つ髪を結ぶ長髪の女が、クロエがいる眼下の光景を見下ろしていた。
ティナの放った炎は木に燃え移り、ティナたちのいるあたりでメラメラと揺らめいている。
「あはは、やられちゃったね」
男は軽く笑い、目を細めた。
「…わざわざ馬車の男を殺す必要があったのか?」
女は淡々と言い放つ。しかし目には哀れみも何もなく、まるで無関心が宿っていた。
「魔力の根源は感情だ。愛、憎しみ、怒り。感情の起伏が強ければ強いほど、魔力は強くなる。」
男は本を見て、愉快そうに言葉を続ける。
「この距離からだと、心を揺さぶるか、魔術を使わせるしか確かめようがないからね。
それに、あの馬車を引いていた男…北の大国の者だろう。乗馬の時も、兵士の癖が出ていたし魔物が現れた時、声を殺して刀を抜こうとし——」
「男の素性はどうでもいい。とっとと結果を言え」
君が聞いてきたんだけどな…
そう呟く代わりに、男は小さく苦笑を漏らしながら答える。
「……ああ、彼女で間違いないよ」
そう言って男は、手にしていた黒い魔導書を女の前に掲げた。
魔導書はガタガタと震え、まるで意志を持つかのように、クロエのいる方角へと引かれていく。
「…そうか」
「まあ、青い髪の方だろうね。彼女、魔術の才は歴代を超えてると聞くし」
男は少し笑いながら彼女に投げかける
「君と彼女、どっちが強いんだろうね」
「…」
その言葉に興味は無いのか彼女は答えない。
「青毛の少女…名は?」
「ティナ…ティナ・エルフォード。王都の出身だ。」
その名を聞くと女は振り向き、歩き始める。
「…協定はこれで終わりだ。次に私の前に現れたら、貴様を殺す」
女の声は冷たく、その言葉に濁りなど一滴もない。
「はは、わかったよ。」
───
命は助かったものの、クロエの表情が暗い。
「どうしたのよっ!元気出して、元気!!生きてるんだし」
クロエは少し開いた扉から見える血溜まりに目をやり、すぐに視線を逸らす。
「そう言うことね…」
そう言うと、ティナはクロエを胸に抱き寄せた。
「へっ、へえっ?!」
ついさっき、ティナに揶揄れたときと同じ裏声が、思わず漏れる。
しかし、そんなことを気にしている余裕もなかった。顔に当たる柔らかな感触に一瞬でクロエの思考が止まる。
(か、かっ……顔に、胸がっ!)
ティナはそんなクロエの様子など気にも留めず、そっと彼女の頭を撫でる。
「優しいのね、あなたは……」
「ちょっ……ちょっと、ティナさん……!」
「私がいるからもう大丈夫よ」
「……ティナ…さん…」
何故かその一言に、妙なほどの安らぎを覚えた。
さっき出会ったばかりの人なのに、まるで私のすべてを理解してくれているようで——
彼女の言葉は、そっと私を包み込むように溶けていく。
ティナはクロエが落ち着くまで、馬車の中でそっと頭を撫で続けた。
血溜まりに月明かりが反射し、その光が扉の隙間から差し込んで、二人を淡く照らしている。
ティナはクロエを胸にうずめたまま、小さな声でつぶやく。
「私じゃなく————良かったのにね——」
あまりにも小さいその声は、クロエの耳には届かない。
「えっ…い、今なんて—」
「いえ……あなたがずっと寝顔を見ては、笑っていたらしいから酷い人だなって言ったのよ」
「な、な、な?!」
ティナはクロエの体に本を当て、言葉を唱えた。
「魔導書、一章二節 エアル」
すると、ティナの手にある魔導書が淡い光を放ち、クロエは体がふわりと軽くなるのを感じた。
(な、なに…?)
クロエは、これまで感じたことのない体の軽さに思わず息を呑む。
「な、なんですかこの感じ!それになんで知ってるんですか、見てたの!!」
「ここを出たら説明するわ、行くわよ!えーっと…」
少し眉をひそめ、急に言葉に詰まる。
「……そういえば、お名前は?」
「……クロエです…」
「そう、クロエね」
そう言うとティナは立ち上がり、クロエの手をしっかりと握った。
「行くわよ、クロエ!」
二人はまるで羽のようにふわりと宙に浮かび、馬車の扉をくぐる。
「え、ええっ?! ティ…ティナさん、ちょ、ちょっと待ってくださ——!」




