懐かしき名
宿の主人は快く小妖も旅籠の中へ入れてくれた。
狐のようで猫のようで犬のようでもある小動物は、見た目だけでただの動物ではないことは一目瞭然で、一瞬主人が強張った顔をしたけれど。
この通り人によく慣れているし、このお方がしっかり面倒を見て下さるので大丈夫ですよ、と助八が言えば、主人はあっさり「分かりました」と皆を部屋に案内した。
小妖は怪我の他に随分汚れていたので、宿の人間に頼んで桶一杯の湯を貰って、神楽が綺麗に洗ってやった。
神楽が触れようとしたら一瞬威嚇するような素振りを見せたが、焔獄鬼が「控えろ、その娘が我が主だ」と軽く凄んで見せたら大人しくなった。
小妖に大人げない奴だな、と神楽のみならず助八や寅蔵も思ったが、やがて神楽の手に擦り寄る小妖を見て、すぐに穏やかな空気になった。
「綺麗になりましたね」
「ええ」
洗ってやると、小妖の黄色い毛並みは、ともすると金色にも見える程に綺麗になった。
左の目元と尻尾だけが白く、輪郭はやっぱり狐と言っても猫と言っても犬と言ってもしっくりくるけれど、どう言っても騙せそうな姿だった。
その騙せそうな姿こそ、妖の証左であるのだけれど。
神楽も焔獄鬼も、助八も寅蔵も、そんなことは気にも留めなくなっていた。
「失礼します。お食事、お持ちしました」
神楽が桶の水を捨てて戻って来た頃、夕餉が運ばれて来た。
「あの、その子、何を食べるんでしょう?」
女中が少しだけ不安そうに尋ねて来る。
すると小妖は、焔獄鬼の膳の横に移動し、何やら匂いを嗅ぐ動作を見せると、その場で尻尾を揺らし始めた。
「……これで良いらしい」
「、そう……ですか」
焔獄鬼が自分の分を少し取り分けて小妖の前に置くと、小妖は見るからに嬉しそうに食べ始める。
「……、」
その愛らしさに、不覚にも女中は蕩けるような笑みを零した。
誰かに飼われていたわけでも、誰かの下僕でもなかっただろうに、随分行儀のいい妖だった。
やがて女中が「ごゆっくり」と言って立ち去る。
何だかここに来るまでに起きた事が嘘のように、穏やかで平穏な夜がやっと訪れた。
「そうだ、焔様。その子に名を与えてやっては如何でしょう」
「名?」
「はい。これから連れ歩くのですから、必要だと思いますよ」
助八が優しい笑みで言ったのは、そろそろご飯を食べ終えるという頃だった。
当の小妖は、お腹が膨れて満足したのか、焔獄鬼の真横に移動して甘えるように寝そべっている。
「いや、そうは申しても……我は、名付けなどしたことはないし」
「難しく考える必要はございません。そうですね、一般的な狐の名はよく分かりませんが、猫ならば“たま”とか、犬ならば“ハチ”とか付ける人が多いようですよ」
確かに何の動物なのか分からない顔をしているが、たまとかハチとかいう顔ではない気がする。
そんなことを思いながら、ふと、焔獄鬼は、神楽が産まれた日のことを、思い出した。
――友が、子供が産まれるから見に来い、と、しつこく言うので。
見に、行った。
その頃はまだ自分は正真正銘、“鬼”の姿だったから、人間の目に悪戯に映らないように、身を潜めて。
友の腕に抱かれた赤ん坊の名を、友は、愛しき者の名から一字貰って名付けたのだと、それはもう幸福に満ちた顔で、言っていた。
「焔様?」
黙り込んでしまった焔獄鬼を気遣うように、助八が呼び掛ける。
それにハッとして顔を上げて――焔獄鬼は神楽の方に目を遣る。
彼女は会話に参加しようとせず、黙っている。
食べ終えた膳の前で、目を伏せて静かに座ったまま。
――頭に浮かんだ、一つの名。
この名をこの小妖に付けたら、神楽はどんな顔をするだろう。
怒るだろうか。呆れるだろうか。
けれど。
「――では、狛、と」
「狛……?」
「亡き友の名から……一字、貰った」
少しだけ硬く言えば、神楽の気配が揺らいだ。
目を遣れば、驚いたような顔をして、やがて、ほんの少しだけ淋しそうな顔になった。
「……良い、名前ですね」
焔獄鬼の静かで、それでいて何処か悲しみを帯びた顔に何か察するものがあったんだろう。
助八はいつもよりずっと優しい声で、そう、言った。
「……憶えて、いたのか。あの、名前を」
助八と寅蔵が眠りに就いた、深夜。
体も心も“疲れたな”と素直に思うのに、神楽は何だか、眠る気になれなかった。
原因は、動揺だと、分かっている。
「……忘れるわけが、なかろう」
微かな、けれど、確かな、動揺だ。
焔獄鬼は、そんな神楽の動揺に気付いていたから。
人間達が寝入ったのを見計らって、そっと、隣の神楽の部屋に移動した。
淋しそうな神楽の声、でも何処か、懐かしむような、愛おしむような、声。
何故だか妙に懐いて来た小妖に付けた名は――二人にとって、とても忘れ難い人物の名前の一部。
焔獄鬼は、眠る狛をそっと、神楽の布団の枕元に置いた。
「名を付けては、と助八に言われた時……おぬしと初めて逢った夜のことを思い出したのだ」
先程まで少々うざったそうにしていたくせに、すっかり焔獄鬼の狛を撫でる手付きは優しくなっていた。
初めて逢った夜。それは――雪山で倒れていた影法師を助けた日、ではなく。
正真正銘、二人が初めて逢った日。
神楽が、産まれた日。
人間として産まれ、人間として生きていく未来を、その願いを、何の疑いもなく最愛の父から託された日。
「我には、その名付け方しか、知らなんだ」
幸福そうに笑う友の顔。その友もまた、たった一つの願いの為に懸命に生きて、馬鹿をした焔獄鬼を必死に助けようとして……看取ることも出来ぬままに、死んだ。
「――雷狛」
神楽が静かにそれを口に乗せた瞬間、焔獄鬼の胸がつきんと痛んだ。
「私が産まれた時には既に捨てていた……父の真名」
神楽が産まれる頃にはもう、その名の妖の事を、知る者はなく。無論、呼ぶ者もなく。
無二の友である焔獄鬼にさえ、その名では呼ばないでくれと、言った。