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手向けの祈り

 

 神楽は多分――とんでもなく損な性分をしている、ということ。


 かつて、鬼神村でも薄々感じていた事、ではあったけれど。


 この娘は、人間を、心の底では恨んでいるのだ。


 ただ平穏に、静かに暮らしていただけの、何の罪もなかった自身の故郷を焼き払い、父を、母を、友を理不尽に殺し、それは正義であると平然と宣う、そんな、人間という種族を。


 だから人間を裏切ったり、人間を無惨なやり方で殺すことも、決して躊躇わない。


 それなのに、彼女は、人間に対して、最低限の慈悲も、持っている。


 後に自分が殺すと決めた相手でも、そう、決める寸前までは、最低限の礼と慈悲を尽くしてしまう。


 故に、今回のように、殺すと決めた相手以外の者が巻き添えで死ねば。


 死ぬ必要などないと思っていた相手を死なせてしまった時には。


 神楽は、顔にこそ出さないけれど、心に、鉛が落ちる。


 人でも妖でもない命として生を受けた彼女は、人間として死ぬことも出来ず、妖として生まれ変わってしまった今でも、どちらとしてでも生きられず。


 何処までも、半端で哀れなる存在であるが故に。


 傲慢さは、孤独の裏返しだった。


「……どうにも、後味の悪い一件であったな」


 静かに着物に針を通し続ける神楽を眺めながら、焔獄鬼は、少しだけ淋し気に、呟いた。


「――よくある事だ。戦いを知らぬ場所で生きている者達と関わる時は、特に」


 焔獄鬼の呟きを、神楽は無表情に半ば一蹴する。


 諦観にも似た声は、それだけ神楽もこの後味の悪さを味わったことがあるのだということを窺わせた。


 やがて、神楽は針仕事を終えて糸を噛み切り、着物をきちんと着直す。

 気付けばこの着物も、修繕が目立つようになって来てしまった。


「……主よ、憶えておるか? 以前、我に申しておったこと」


 背中を向けて着付けている主君に向かい、ふと、焔獄鬼がそう問い掛ける。


「何の事だ?」


「行商人の用心棒をした時だ。我に言ったであろう。“私の事でいちいち感情的にならないよう鍛錬しろ”というようなことを」


「ああ……、それがどうした」


 綺麗な薄桃の着物。

 神楽の肌に付いた傷は、どれ程深手でも一切残らない。


 だが継を当てられ幾度も修繕された着物が、彼女がどれ程の傷をその身に受けたのかを、物語っている。


 声なき声で、訴えている。


「精進せねば、と思ったのだ。確かに、我が些細な事で取り乱せば、悪戯に混乱を招きおぬしにも迷惑になる」


 焔獄鬼は、自身の左手を見遣りながら、語る。


 取り乱して、神楽の肌を貫いてしまった左手。蘇ったあの時の感触を忘れないように、しっかり握り締める。


「だが……朱音に寝所に入られた折、思い知った。我にとって、おぬしの事に関して、些末事など一つもないのだと」


「……、」


 帯を結ぶ手を、止める。


 ゆっくりと振り向いた神楽の目は、怒っているような、それでいて、少しだけ心配そうな色があった。


「おぬしが痛みさえ感じぬ程の傷一つでも、おぬしが気にも留めぬ程のくだらぬ一言でも。おぬしが悪意ある何かに傷付けられたら、我は、その者に報復せずにいられる自信はない」


 膝の上の狛を起こさないよう、そっと畳の上に横たわらせて、焔獄鬼は、正座して姿勢を正す。


「だが、それは決して悪しきことではない、と、最近特に強く思うようになったのだが、違うか?」


「……それは……」


「無論、無闇やたらと見境なく報復するのを良しとするつもりはない。我が言いたいのは、つまり……感情的にならぬようにするのは無理だが、その上で“悪鬼”の振る舞いを決してせぬように己を厳しく律することが肝要ではないか、ということなのだが」


 真っ直ぐな目で訴えられて、神楽は何となく後退りかけた。


 感情的にならずに“悪鬼”にもならないで欲しいし、寧ろそれが一番の正解だと思うのだが、焔獄鬼は自分には出来ないとあっさり認める。


 出来ない事は出来ないのだと、悪びれもなく言う。


 その潔さに、呆気に取られてしまう。


「我の勘違いでなければ……人間もまた、そういう生き物ではないだろうか。聖が生きた人としての生も、そういうものではなかったであろうか」


 思い掛けず口に出された父の名に、神楽は軽く目を瞠る。


 そうして、思い出す。

 今回の一件の真実を。


 きっかけは、誰もが持つ感情だった。


 同じ名を持つ二人の人間の女は、誰もが等しく抱く“感情”に呑まれた。


 けれど、元来、人は……呑まれないよう、負けないよう、抗い、自分を律する生き物の筈で。


 ――人間を恨む神楽に、人間がそうなのだからと説くのは、あまりに無粋だろう。


 だがそれでも、人間を恨みながら、人間を見限り切れない主君だからこそ。


「……お前はただの焔獄鬼だ。人間の在り方や考えなど、鑑みたりなぞる必要など、ない」


 神楽が少しだけ、苦し気に言う。


 でも、ああ、やはり、この男は、人を愛し人として生きた父の友人だ。


 無意識か無自覚か、人間とはどういう生き物かを、学び取っている。


「だが、人間のように律する力なくば、おぬしを守れぬ」


 だけどこの男は、果たして、分かっているんだろうか。


 今、自分が発した言葉が、少しの危うさを孕んでいることを。


 その言葉が――何を意味するのかを。


 神楽は少しだけ、ほんの、少しだけ、苦し気に目を伏せて、天井を見上げて――すぐに焔獄鬼に向き直り、言う。


「人間がどうだとか、父がどうであったかとか、そんなことはどうでも良い」


 神楽は、分かっている。


 焔獄鬼の語る決意と悟りは、焔獄鬼が今回の一件で得た彼なりの答えなのかもしれないけれど。


 それは、きっと、彼を“慈鬼”から遠ざけて、“悪鬼”に近付けてしまう。


 いずれ彼は、父が友と認め、神楽の妻にと願った頃の心のままでは、いられなくなってしまう。


「お前が、お前自身の心でかくあるべきと定めたものがあるなら。それこそが答えだと思うなら、それに従え」


 ……それでも、神楽は、誤っているぞ、とは、言えなかった。


「私の事では感情を抑える自信がないというなら……私以外の事では感情を抑える努力をしろ。私以外の者の為に心を揺らされるな」


 それどころか、自分の為に、その道を進めと、命じる。


 けれど、焔獄鬼にとってその命令は、この上ない僥倖だった。

 私だけを、と命じてもらえたことに、内心、高揚した。


「――承知した」


 不敵に、尊大に笑って、焔獄鬼は頷く。


 神楽は一切の憂いを振り切るように、大きく息を、吐き出した。


(朱音……お前の言っていたことは、あながち、間違いではなかったかもしれぬ)


 心の中で、殺した女に語り掛ける。

 常に挑発的で敵意の目で神楽を見ていた、恋敵に。


(この男に関しては、確かに……私とお前に違いなど、なかった)


 ――次に産まれて来る時は、どうか、今度こそ、心から愛おしい者と幸福になれるように。


 手向けの祈りを、そっと心の奥底で呟く。


 余計なお世話だ、と怒鳴る声が聞こえた気がした。





 完

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