覚醒
「朱音の言う通りなら、朱音は自分の意志で人を殺して、人を殺せたことを喜んでいたということになる。お前はあくまで、朱音がああなったのは妖刀に付け込まれたせいだと言うが、朱音自身はそうは思っていなかった。お前を殺すことも厭わないとさえ言った」
「……!」
「きっかけは誰もが持ち得る感情だったのかもしれない。妖刀に付け込まれたのが全ての原因というのも間違いではない。だが、そのことで、自分の意志で妖刀の器になったのだと豪語した貴様の妹は、僅かでも悔いるような姿勢を見せたか?」
「……っ、」
「お前の肩を斬った時、一粒でも涙を零したか? 微かでも恐怖した様子を見せたか? 助けてと一言でも乞うたか?」
妖刀のせい、なのだとしても。
朱音の意志が、ほんの一握りでも“人間”とは違う所に行ってしまっているのなら。
それが分からなくなってしまっているのなら。
一切責任なし、という訳には、いかない。
「諸悪の根源、だとは言わない。だが、朱音が許される理由も存在しない。救われる方法も、救われなければならない道理も、もはや一つもない」
直正の目に、涙が溢れ出て、次々と零れ落ちる。
悔し気に、苦し気に……腹立たし気に、唇を噛み締めながら。それでも尚も懸命に神楽を見据えたまま。
「……お前も、人の道を説く者ならば分かるだろう。如何な事情や理由があろうとも、人の道に外れた事をしたのならば、その瞬間に許される道理などなくなるのだ」
人を癒し、人を守る為に奮闘している彼だからこそ。兄として納得出来なくても、人間として受け入れなくてはいけないこともあるのだと。
吐き捨てるようでありながら、諫めるように告げる神楽に、直正はついに両目を固く閉じて俯いた。
「……あんただって……人の道から外れてるくせに……そもそも、人間ですら、ないくせに……!」
震える声で紡がれたのは、精一杯の負け惜しみだった。
「ああ。でも……人間だったことも、ある。お前と同じように、人の道を懸命に歩いていた者と、共に」
神楽は直正の言葉に、そう、小さく呟いて答えた。
その声は小さくて、多分、彼の耳には届いていないだろう。
神楽はそのまま、大きく息を吐いて、再び、鉄扇を構え直す。
押し問答に時間を取られたが、早く当初の目的を果たさなければならない。
直正から視線を外し、妖刀へと狙いを定めて――が、その時。
「っ、危ない!!」
神楽の悲鳴にも似た声が響き、そして――同時に、神楽の背中がばっさりと斬られた。
「神楽!!」
堪らず神楽が倒れ込むと、焔獄鬼も悲鳴に近い声を上げた。
ゆらり、倒れた神楽と入れ替わるようにして、つい今し方まで地面に伏していた筈の人間の女が、立ち上がる。
「あ……朱音……っ」
自分を庇い、背中に大怪我を負った神楽を抱き留めながら、直正は半ば絶望にも似た声音で妹の名を呼んだ。
神楽が妖刀を破壊すべく鉄扇を構え直した瞬間。
息絶えた筈の朱音の手が、妖刀を再び掴んだ。
そうして、起き抜けざまに、兄である直正に向けて刀を一閃させたところで、神楽が直正に覆い被さる形で彼を庇った。
「……う……っ」
直正に抱き留められたまま、神楽は低く唸って痛みに耐える。
咄嗟の事だったので大分深く斬られたが、傷は修復を開始している。
「あ、朱音、お前……生きて……!」
頭上で直正が安堵とも喜びともつかない声を上げる。
ちらりと振り向いてみれば、朱音の目は光を失ったままだった。
口からは微かに息が漏れているが、それは呼吸というよりも妖刀の声なき呻きでしかない。
神楽は口惜し気に奥歯を噛み締める。
朱音は、死んでいなかった訳でも、ましてや生き返った訳でもない。
今度こそ確かに――妖刀の宿主となってしまったのだ。
「ふうぅうぅううっ!」
虚ろな目を見開き、咆哮を上げて朱音が刀を振り上げる。
神楽は直正の体を突き飛ばし、振り向きざまに鉄扇で受け止めた。
背中の傷がまだ完全に塞がらない。恐らくは死んでいてもおかしくない深手だったんだろう。
そのせいか上手く腕にも体にも力が入らず、徐々に朱音に押さえ込まれる。
「朱音……!」
悲痛な声で直正が尚も朱音を呼ぶ。
その時、朱音の背後に妖気と殺気が膨れ上がった。
鬼の形相そのままに、焔獄鬼が凄まじい気迫と共に刀を抜き、朱音の首を後ろから斬るべく一閃させる。
だが、朱音はそれを真横に跳んで躱し、神楽達からも距離を取った。
「神楽、大事ないか!?」
「……大丈夫。あと少し……」
額に冷や汗を浮かべて答える神楽に、焔獄鬼は彼女の背中の傷の様子を確かめる。
半分はもう治っているが、もう半分はまだ修復途中だ。
「――主。流石にもう、下がれとは言わせぬぞ」
心から湧き上がる怒りを、焔獄鬼は隠そうとはしなかった。
神楽を背に守るように立ち、惜しみなく妖気を解放し、全身に漲らせ、刀に妖力を集中させる。
「ふひひひひひひひひひ」
朱音は口元を禍々しく歪めて、不気味な高笑いを上げる。
人間だった頃の彼女はもう、見る影もなかった。
「朱音! 朱音、もうやめるんだ!! なあ!」
彼女が既に死に体であることが分からないのか、はたまた認めたくないのか。
直正は懸命にそう言い募る。
無論、そんな声は朱音に届くことはなく、彼女は不気味な高笑いを上げたまま、焔獄鬼に向かって攻撃を仕掛ける。
「遅い!」
鋭く一喝して、焔獄鬼は朱音の刀を弾く。
「はははははははははは」
弾き飛ばされた先、難無く着地してすぐ、今度は姿勢を低くして再び焔獄鬼へ向けて駆け出し、追撃して来る。
貴方の心が欲しいからと彼との戦いを避けた朱音が、今は愉悦に満ちた笑みで嬉々として焔獄鬼に向かって来る。
それこそが、もはや朱音の意志も心も完全に消え失せて、妖刀の意志のみで彼女の体が動かされている証左だった。




