殺すと決めた相手
「――哀れな……」
神楽は、やはり、らしくもなく弱々しく、呟いた。
思えば一番最初から、誤ってしまったのかもしれない。
一番最初、朱音と出逢った、あの瞬間から。
突如襲って来た妖怪から、助けたつもりなんかこれっぽっちもなく。
それでも、お礼がしたいと強く乞う朱音の厚意を無下に出来ずに、この町にやって来て。
焔獄鬼に心奪われてやたらと絡む彼女を見て。
勝手に心乱されて勝手に妬んでいたのは、神楽だって同じだったのに。
――あの時点では焔獄鬼も土蔵の気配になんて気付いていなかった。
礼など不要と突っ撥ねて早々と退散していれば。
子供の治療など安請け合いなどしなければ。
土蔵の気配に気付いても、留まらずに、様子を確かめてすぐに立ち去っていれば。
いくつもの「あの時ああしていれば」が浮かんでは、消える。
そんな後悔はただの言い訳であり――それこそ、朱音に対する侮辱だ。
「……下がれ、焔獄鬼」
ならば。
神楽が今、やるべきことは、一つ。
「あの女は……私が、殺す」
鉄扇を持ち直し、焔獄鬼を押し退けて。
一切の雑念を振り払って、冷たく、低く、告げる。
「しかし主……」
食い下がる焔獄鬼は、されど、神楽を心配しているのではない。
神楽を好き勝手罵り愚弄する目の前の人間を、自分の手で殺させてくれない主君への、不満。
だが、神楽はそんな焔獄鬼を、冷徹に一瞥する。
「下がれと言ったのが聞こえなかったか」
「……、」
「いつも言っているだろう。――人間を殺すなら。私が殺る、と」
――そうして。
神楽の妖気が、一気に膨れ上がり、解放された。
この時。
神楽が、刃を向ける相手が。
殺すと決めた相手が。
定まった。
にやり。朱音の口元が歪む。
戦闘の開始の合図だった。
きん、と空気が張り詰めた刹那、朱音は“白虎”を構えて一気に神楽へ襲い掛かる。
妖刀に身も心も侵蝕されているせいだろう。
神楽との距離を詰めた脚力も、刀を振り下ろす素早さも、その辺りの兵士よりずっと上だった。
けれど神楽はその一撃を今度は難無く受け止め、弾くと、すかさず反撃に転じる。
突き出された刀を躱し、鉄扇を閉じて朱音の脇腹目掛けて突き出す。
朱音もそれをギリギリで躱した。
着物が裂けたが、構わずに身を反転させて今度は神楽の背中を狙ってくる。
攻撃を躱されてすぐは、大抵の場合はどうしても対処が遅れる。
神楽も例外ではなく、朱音の振り下ろした刀は、神楽の背中を斬り付けた。
しかし、浅い。
“白虎”の刃先に神楽の血が薄っすら付くだけに留まった切り傷は、ものの数呼吸のうちにあっさり消えた。
神楽自身、痛みもあまり感じなかった。
そもそも朱音は武術の心得のない身、妖刀が半ば操っていると言っても上手く身のこなしが付いていかないのだろう。
不敵な笑みが、その一瞬忌々しそうに歪んだ。
今度こそ、とばかりに、神楽の背中を斬り付けた刀を、逆に振り上げるようにして朱音はもう一度神楽に斬り掛かる。
分かり易い二の手だな、と神楽は呆れ気味に思った。
身を捩り、鉄扇を持っていない方の腕を、顔の前に持ち上げる。
一見、それは咄嗟に攻撃を防ぐべく反射的に取った行動のように見えた。
朱音は容赦なく神楽の腕を“白虎”で切り裂く。
にやりとまた朱音が笑う。が。
「かかったな」
冷徹な神楽の声が朱音の耳に届く。
神楽の腕を裂いた刀は、しかし、腕を両断するまでには至らず、腕の皮と肉の半分程まで食い込んだ状態で止まっていた。
そのまま、刀を押し込んで無理にでも振りぬけば、神楽の腕は両断されるだろう。
しかしそれこそが、神楽の狙いあり――彼女特有の戦法だった。
神楽は腕に刀が食い込んだ状態のまま、鉄扇に妖力を込めて、一閃する。
「ぎゃっ!」
彼女の生んだ衝撃波は、その一撃で朱音を体を無数に傷付けた。
――敵の足や攻撃が速いのなら、まず最初の対処法は一つ。
相手の動きを、止めること。
自らの不死の体で以って、相手の動きを封じる。
神楽が戦いの場で、よくやる手だった。
人間達の返り血か、自身の流した血かもはや分からぬ程に、朱音の着物が真っ赤に染まる。
「……もう一つ、違いがあったな、朱音」
「何……」
「お前は誰にでも容易く殺される程小さき存在だが……私は、ただ一人を除いて決して誰にも殺せない」
言いながら、神楽は今し方斬り付けられた左手を、見せ付けるように掲げる。
既に傷はない。
斬り付けられた事実などなかったことのように、綺麗に消えている。
朱音は「自分の意志で妖刀の宿主となることを受け入れた」と思い込み、神楽を殺せる力を得たと思い込んでいる、けれど。
「私を殺せる者は――この世でただ一人。焔獄鬼だけだ」
そして焔獄鬼は、神楽を絶対に殺さない。
朱音を殺すことを、些かも、躊躇わない。
「……あんたの、そういうところが……気に入らないのよ!!」
頭に血が上った朱音は、倒れ込んだまま再び神楽に刀を突き出す。
「っ、」
しかし神楽は、先程と同様、自身の腕でそれを受け止めた。
今度は手首と肘の間の中間辺りを、完全に貫いている。
血が噴き出し、神楽の薄桃の着物を染める。
「気に入らないから、大事な人の大事なものを奪うのか?」
「知った風な口を叩かないで! 妖怪の心臓を喰うような醜悪な女が!!」
朱音は起き上がりながら、尚も刀を神楽の腕に深く押し込む。
痛みがない訳じゃない。反射的に顔を歪めたが、神楽は悲鳴を上げたりはしなかった。




