妖刀の帰還
風に乗って運ばれて来る血の臭いと、死臭。
更にそこに混じる、恐怖と絶望。
山を下りて町へ戻る合間にも、人間達の悲鳴は絶えず響き続ける。
無論、子供の悲鳴も。
神楽は一つ舌打ちをすると、走っていた足を勢い良く跳び上がらせた。
焔獄鬼も後に続く。
町の一角に降り立ち、辺りを見回せばそこには――いつかの森の中で見たような、人間の惨殺死体があちこちに転がっていた。
「こ、これは……」
背後で焔獄鬼が呆然と呟く。
何があったのか、とか、誰がこんなことを、とか思わず口を吐いて出そうになった声を、寸でで呑み込む。
やはり、少し町に長居し過ぎた。
――居る。ついに、この町に戻って来てしまったのだ。
彼の妖刀“白虎”が。
恐らくは、次の宿主にと狙う神楽の気配を突き止めて。代わりの宿主の器を借りて。
「主……!」
焔獄鬼が緊迫した声を上げれば、神楽はすかさず帯から鉄扇を抜いた。
「狛、来い!」
同時に焔獄鬼も戦闘態勢に入り、自身の肩に乗っていた狛を、着物の合わせを少し綻ばせて懐へと誘う。
狛もすぐに応じて、彼の胸元に滑り込む。
しっかりと懐に匿って、既に駆け出していた神楽を追うべく、焔獄鬼も駆け出した。
あれ程探しても見付からなかった妖刀の気配が、当然だが今でははっきりと分かる。
今、彼の妖刀は――直正と朱音の屋敷に、向かっている。
「……――、っ」
庭先に降り立ち、目の前に広がった光景に、神楽も、焔獄鬼でさえも、思わず愕然、した。
「神楽、さん……」
右の肩をざっくり斬られた直正が、額にびっしりと汗を滲ませて、絶望の声音で神楽の名を呟く。
言うまでもないことだが、彼を斬ったのは神楽ではない。
彼を斬ったのは――彼と神楽達の間に抜き身の刀を携えて佇む、人物。
見覚えのある、否、見慣れた背中が、住民達の返り血で染まっている。
焔獄鬼の懐で、狛が震えているのが分かった。
怯えか、警戒か、敵意か。
そっと左手で小さな体を着物越しに包めば、くぐもった鳴き声が小さく聞こえた。
流石に、これは、予想してなかったばかりか夢にも思わなかった。
普段とは想像も出来ない程冷えた空気を纏うその人物が、ゆっくり、ゆっくりと、神楽達の方を、振り向く。
「……何故、お前が……」
堪らず、神楽が吐き出すように呟いた。
自分の表情がかなり強張り、動揺している自覚がある。
それくらい、神楽はこの光景に狼狽えていた。
「何故、って……貴方が、言ったんでしょう」
冷たい眼差し。冷たい笑み。
もはやその瞳は――愛した男へ向けていた、懸命なれど哀れな瞳ではない。
「朱音のままでは焔さんの心が手に入らないなら……貴方になればいい、って」
言いながら、彼女は……朱音は、手にした刀を顔の前に持ち上げて、笑みを深くする。
幾人もの町の人間を斬り、自身の兄でさえも斬った刀は――正しく、神楽達が行方を追っていた件の妖刀、“白虎”だった。
人を殺し、兄を傷付けた後だというのに、朱音はまるで陶酔しているかのように刀を伝う血を舌先で舐め取る。
その姿が、刀掛けが見せた過去の茜と重なった。
「そんな意味で……言ったんじゃない」
きゅ、と鉄扇を握る力を強める。
というより、先程の“何故”はそんな意味ではなく。
「何故、貴様がその刀を持っている」
神楽の背後で、焔獄鬼が重ねて問う。
「いいでしょう? この刀。妖刀だなんて嘘みたいに、綺麗」
だがやはり、朱音はちゃんとした答えを返してくれない。
焔獄鬼は自身の刀の鍔を押し上げる。
ふざけた問答に付き合うつもりはない。どんな理由であれ経緯であれ、破壊すると神楽が決めた刀が、今、目の前にある。
「神楽。これでもう、我が奴を斬っても構わんな?」
焔獄鬼は妖気を解放し、その琥珀色の瞳に、敵意と殺意を滲ませる。
少なくとも今、朱音は神楽を妖刀を使って殺そうとしているのだけは確かだ。
しかも彼女が振るうのは妖刀。これで尚「人間を殺すなと言ってるだろう」なんて言われた日には頭を抱えてしまう。
「待って。今ならまだ、刀を破壊すれば元の朱音に戻るかもしれない」
「何を生温いことを。妖刀に魅入られて、あそこまで堕ちてしまっては、よしんば救われても生きる道などないぞ」
らしくもなく朱音を擁護するような事を言う神楽に、流石の焔獄鬼も苛立ちを隠さずに反論した。
確かにそうだ。
それに、あの様子では、妖刀と完全に心を通わせて、同化しつつあると言っていい。
けれど――だけど。
「……ほんと、何処までも癇に障る女ね、あんた」
『!』
聞いたこともないくらい朱音の低い声が聞こえた瞬間。
朱音が神楽に突進して来た。
思い掛けない攻撃に、咄嗟に神楽も焔獄鬼も対応が遅れる。
半ば反射的に鉄扇で防いだが、武術の心得などない筈の朱音の突きは、神楽を一突きで半ば突き飛ばした。
何とか倒れ込む前に地面に着地出来たが、鉄扇を握る手が軽く痺れている。
「私のことくだらない人間だと思ってるんでしょう。妖怪でもないし人も殺したことも、刀なんて握ったこともない小娘が何馬鹿な事をやってるんだって呆れてるんでしょう」
「……、」
「人を殺せるから何? 妖怪と戦えるから何? 医術の心得があるから何? ……貴方が出来て私が出来ないことを並べて、私を見下して、澄ました顔で腹の底で笑ってるんでしょう」
――神楽の瞳が、少しだけ、苦し気に、揺れた。
「確かに私は貴方とは違うわ。でもそれが何なの? 普通の女だったらやらないことを平気でやれるからって、出来るからって、そんなことでいい気にならないで!」
半ば叫びながら、朱音が追撃をかける。
その一連の台詞だけで、朱音が何故妖刀を手にしたのか、妖刀に魅入られてしまったのか、分かった。




