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絶対に手に入らないもの

 

 人間の女は、目を見開いて、愕然とした様子で、焔獄鬼と、自分の間に立つ女を見上げている。


 彼女は焔獄鬼を制止するように右腕を体の横に持ち上げて彼に背を向け、立っている。


 その腕は焔獄鬼が突き出した爪に貫かれて、彼の爪を、彼女の袖を赤く染める。


「……たわけが」


 右腕を貫かれているというのに、彼女は――神楽は、顔色一つ変えない。


 痛みなど感じていないかのように、何でもない顔で背後の焔獄鬼と、目の前の朱音を交互に見遣る。


「おい」


 神楽が割って入る直前までこの二人の間に何があったのか、は、朱音がここに踏み入った瞬間から気付いていたので、それについては取り敢えず置いておくとして。


「いつまで人の腕を突き刺したまま突っ立っているつもりだ」


 これでも多少は痛いんだ、と呆れ口調で焔獄鬼に言えば、彼は慌てて彼女から爪を引き抜き、爪の形も人間のものに戻した。


「神楽……、っ」


 刃を抜く時の痛みで少しだけ眉を顰めつつ、貫かれた右腕を庇うように左手で抱える神楽の肩を、焔獄鬼が狼狽を隠しもせず抱き寄せる。


「騒ぐな、鬱陶しい。……もう、消えた」


 焔獄鬼にだけ聞こえる声音で言いながら、同じように彼にしか見えぬように腕を見せる。


 後悔に瞳を揺らして、焔獄鬼が神楽の肩を抱く力を少しだけ強めた。


 神楽はそんな彼に一つ溜息を零して、そうしてやっと、朱音の方を振り向いた。


 朱音は神楽に真正面から見下ろされて、思わず逃げるように俯く。


 どうしてか分からないけれど、今、彼女はとても惨めな気持ちだった。


「――直正様が起きて駆け付ける前に、自室へお戻りなさい」


 淡々と神楽が言うと、焔獄鬼が未だ突き刺したままだった刀を引き抜く。


 拘束を解かれた朱音だったが、すぐに衣服を整えようとも、この場から立ち去ろうともしなかった。


「これ以上は、見苦しいだけですよ」


 多分、余計な一言だろうとは思ったが、神楽は言ってしまっていた。


 つい先頃までこの女が焔獄鬼に惚れた事実に苛立ってはいたが、吹っ切れてしまった今は、寧ろ朱音が哀れに感じてしまうようになった。


「……何よ……何様なの……貴方」


 だがそれは、朱音にとっては屈辱でしかなかった。


 凡そ違いなんて武芸と医術の心得があるかないかくらいしか見出せない、目の前の女の一言一言は、朱音をただ馬鹿にしているようにしか聞こえなかった。


「何なのよ! あんたなんて、女のくせに武器を振り回して人の命を平気で奪う、ただの野蛮な女じゃない! ここでの炊事や洗濯だって全部私がやってたし、焔さんも褒めてくれた! ちょっと怪我人の治療が出来るから何!? 人を殺せるから何!? そうやって人を見下して、何様のつもりよ!」


 焔獄鬼が、消し飛んだ筈の怒りを再び膨れ上がらせて身を乗り出した。


 が、神楽がすかさず彼を押し留める。


「あんたみたいな傲慢で野蛮な女に、焔さんを幸せに出来るの!?」


 焔獄鬼が尚も神楽の後ろで身を乗り出そうとする。


 彼にしてみれば、彼女の言葉は許し難いものでしかなかった。


 それこそ、炊事や洗濯が何だ。出来るか出来ないかだけで言えば神楽にだって出来るし、ただ自分は料理が口に合ったからそう言っただけだ。


 ただの感想でしかない褒め言葉を槍玉に上げて、挙句に自分に出来ないことが出来る神楽に、何たる無礼な物言いか。


 だが、当の神楽はただ黙って朱音の暴言を受け止めていて、どころか、少しだけ淋し気に、目を伏せた。


 そうして、徐に、自身の鉄扇を、帯から引き抜く。


「……武術の心得なくばこの男の心が手に入らぬと思うのなら、私が戦い方をお教えしましょう」


「っ、え……?」


「医術の心得なくばこの男の心が手に入らぬと思うのなら、医術もお教えしましょう」


「……おい、神楽。一体何を……」


「神楽という名でなければこの男の心が動かないと思うのなら、名も差し上げましょう」


 怒りを忘れて、焔獄鬼は唖然とした。


「でも、それでも……貴方と私が違う()()()である以上、この男は貴方のものにはならない」


「――っ」


 神楽は、言いながら、鉄扇を力なく下ろした。


「――武器を手にしないまま……出逢えた方が、良かったのかも、しれないけれど」


 或いはそんな未来があったなら、朱音の言う“幸せ”を、与えてあげられたかも、しれなかった。


 朱音の、神楽を愚弄する言葉は、それでいて、神楽の中にずっとある、微かな後悔と確かな罪悪感を、そのまま示す言葉、でもあった。


 あんな、事さえ、なければ。


 焔獄鬼は……神楽は。


 ――何処にでもいる、普通の恋仲にある男女のように。夫婦のように。


 無意識に、背中を焔獄鬼の胸元に預ける。

 応えるように焔獄鬼も、肩を抱く腕の力を強める。


 神楽の中に朱音の言葉に対する怒りは、ない。


 あるとすれば――好いた人の心を欲するあまり、己の心に翻弄されている彼女を、少し眩しく感じる気持ち。


「どれ程私と同じ力を身に付け、どれ程私と同じ知識を得ても。たとえ私と同じ名を冠しても。貴方は、私ではない。それが――貴方の言う“違い”です」


「……――っ!!」


 焔獄鬼が望むものと、朱音が彼に明け渡そうとしているもの。

 朱音が、神楽には与えられなくても自分には与えられると信じているもの。


 何もかもが嚙み合わないから、朱音の想いは届かない。


 朱音は、ついに大粒の涙を零して……そのまま、逃げるように駆け出して行った。





 翌朝、朱音の姿はなかった。


 直正が言うには、いつもなら台所で朝餉の支度をしている筈の時刻になっても姿を見せないので、不思議に思って朱音の部屋まで様子を見に行ってみたが、部屋には布団が敷かれたままで、何処にも見当たらないのだという。


 神楽は、昨夜のことは伏せて、山菜取りにでも出掛けているのでは、などと適当なことを言った。


 これ以上はもう、彼女自身の気持ちの問題だ。


 今朝から姿が見えないのは、昨夜の己の惨めさに耐え切れずに、二人が起きる前に何処かに出掛けてしまったせいだろう。


 そう予想は出来たが、神楽も焔獄鬼も、これ以上朱音に関わるつもりはなかった。


 これからもう一度土蔵を見に行き、そのまま町を出る。


「直正様。こんな時に何ですが、我々は今日出立致します」


「え? そりゃまた……急だな」


「申し訳ございません。元々、朱音様がこの焔にお礼をする為に逗留していた身。もう十分過ぎるお礼を頂きましたので」


「そうか……何だか引き留めてしまって、こっちも申し訳なかった。でも、神楽さんが手伝ってくれて助かったよ。俺が知らない薬の作り方も教えてもらえたし、逆に恩が増えたような気がする」


「あれは泊めて頂いた対価です。恩義に感じて頂く必要などございません」


「ははっ……何はともあれ、良い日々だった。名残惜しいが、これからの道中も気を付けて」


「ありがとうございます」


 感謝の意を込めて神楽が深くお辞儀をし、焔獄鬼もそれに倣う。


「しかし、それなら尚の事朱音にも挨拶させたいが……本当に何処に行ったんだ?」


 頭を掻いてぼやく直正だったが、神楽はゆるゆると首を横に振った。


「それについては不要です。朱音様との挨拶は……もう、済んでいますから」


「え?」


 神楽の言葉の意味が分からずに、直正は間の抜けた声を上げたが、神楽達はそれには答えずに、再び頭を下げて、今度こそ踵を返した。


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