愚弄
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ぴく、と。
肩口で狛が耳を立てて、立ち上がった。
その気配に導かれるように焔獄鬼も目を開ける。
傍らに置いておいた刀を、音を立てずに慎重に引き寄せて、布団の中で息を潜める。
――何かが、ゆっくりと、静かに、近付いて来る。
抜き足差し足で近付いて来る様は盗人のようであったが、気配がまるで消せていない。
そもそも気配を消す術を心得ていないのか、単に下手なだけか。
狛も焔獄鬼の肩口で毛を逆立てて静かに警戒している。
やがて、気配が彼の部屋の前でぴたりと立ち止まった。
焔獄鬼は障子に背を向けた格好で、目を開けて背後の様子を慎重に伺う。
障子が静かに開かれて、誰かがすっと入って来る。
布団の中でそっと刀の鍔を押し上げて――ややあって、侵入して来た誰かの手が、焔獄鬼の被る布団にかかった。
「!」
刹那、焔獄鬼は自ら布団を押し退けて、同時に刀を抜いて切っ先を侵入者の首元目掛けて突き出す。
勿論、殺すつもりではない。あくまで威嚇の為だ。
月明りに照らされた侵入者が、目を見開き体を強張らせる。
障子が開かれる前から、侵入者が誰かは分かっていた。
「――何の真似だ」
低く問う。
明らかに怯えた様子で浅く呼吸を零す侵入者――朱音は、ごくり、と喉を鳴らした。
見ると朱音の姿は何だか無防備というか、妙な緊迫感があった。
こんな時間に湯浴みでもしたのか、石鹸と湯の匂いが仄かに鼻腔を擽り、どういう訳か白装束を身に纏っている。
まるでこれから自刃でもしようというような出で立ちだった。
「何の真似だと聞いている」
何も答えようとしない朱音に、焔獄鬼が重ねて問う。
真意が見えぬ故に刀はまだ下ろせない。
大好きな湯の香りだというのに、狛でさえ威嚇の姿勢を崩さない。
「……私は、これまで、三人の殿方と縁談を結びました」
「……、?」
「三人共、元は友人でした。特に断る理由もなかったから縁談を受け入れて、でも、祝言には至りませんでした」
一体何の話をしているのか。
焔獄鬼は隠しもせずに怪訝な顔をしたが、朱音は構わず続ける。
「寝所に、入ったんです。後は祝言を挙げるだけだという頃合いに。でも……三人の誰も、私の体は受け入れられなかった。何なら私の心だって、彼等の誰一人受け入れた訳じゃなかった。愛してなど、いなかった」
言って、朱音は、焔獄鬼に刀が突き付けられている状態のまま、一歩、焔獄鬼との距離を詰めた。
彼女の首筋に、一つ、浅い傷が付き、そこから薄っすらと血が滲む。
「でも――貴方は、違います」
更に彼女は、あろうことか焔獄鬼の刀を、両手で突然掴んだ。
「!?」
これには流石に焔獄鬼も若干狼狽えた。
朱音はその、焔獄鬼の狼狽を見逃さなかった。
彼女は掴んだ刀を振り払うように押し退けて、傷付いた手で自らの白装束の帯を解いた。
傍らで、狛が、いつにも増して甲高い声で鳴く。
「身を清めて参りました」
人の世に下りて幾年。女が男の前で躊躇いなく素肌を晒すということがどういう意味であるか、焔獄鬼は勿論知っている。
「私は医術の心得もないし、武器を使って戦ったりも出来ないけど、絶対絶対、神楽さんより焔さんを幸せに出来ます」
たとえばこれが、朱音を嫁にと願う人間の男だったなら。
こんな睦言を煽情的な姿で言われたら、呆気なく陥落するだろう。
「乱暴な物言いだってしないし、寝所では神楽さんより貴方を満足させてあげられます。女らしさなら絶対私の方が上です。……お願い……」
――妖気が、膨れ上がる。
怒り故か、嫌悪故か、はたまた、何処までも神楽を愚弄するこの女への殺意故か。
朱音の手が、焔獄鬼の胸元に触れる。
そのまま身を擦り寄らせて、頬を寄せて来る。
――気持ち悪い。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……気持ち悪い――。
「触るな――!」
膨れ上がった妖気は、焔獄鬼自身も無意識のうちに左手の爪を尖らせていた。
放たれた殺気が部屋を、屋敷を包む。
焔獄鬼は朱音の体を突き飛ばして、刀で彼女の足の間辺りに刀を突き立てて、白装束を縫い付けた。
焔獄鬼の行動に咄嗟に逃げ腰になった朱音だったが、着物を完全に脱いだ訳ではなかった故に、今度は違う意味で焔獄鬼に身動きを封じられる。
気持ち悪い。腹の底で何かがぐるぐる蠢いていて吐きそうだ。
かつて、故郷だった山に踏み入って、動物や妖達を虐殺した人間達に向けた殺意とは、また違う。
――触られた。触れさせてしまった。
この体に……この刀に。
神楽以外の人間に。神楽ではない女に。
それは、彼にとって、屈辱であると同時に。
主を、友を――唯一と決めた女を、踏み躙られたのと、同じ。
許せない。許しておけない。
この“最強の悪鬼”の心に土足で踏み込んで、踏み荒らしたこの人間の女を。
血が、沸騰するみたいに、熱い。
許せないなら……殺す……!
半ば我を忘れた焔獄鬼の琥珀色の瞳が、完全に殺意に染まった、瞬間。
焔獄鬼はついに、両の爪を朱音目掛けて振り下ろす。
――だが。
「――鎮まれ、焔獄鬼」
「っ!!」
肉を裂き、貫く感触と共に、聞こえた声が、焔獄鬼の殺気を、一瞬で、霧散させる。
そこで彼は、漸く、我に返った。
「……あ……、」
自分の尖らせた爪が、何かを、深く、貫いている。
ここへ来て、爪と手に広がる嫌な感触。
そんな自分の爪を、手を伝って、真っ赤な鮮血が、畳の上に血溜まりを作った。
でもそれは……彼が命を狩り獲ろうとしていた、人間の女の血では、なかった。




