本当に想う相手ならば
興奮気味なのは酒のせいか、味方してもらえると心の何処かで思っている筈の男が、期待した答えを返してくれなかったせいか。
「たとえ好いた相手に他に好きな奴がいたとしても。心変わりを狙って勝手に頑張るのは自由だ。間違った事でもねえだろう。けど、もし……強引に自分のものにしようとその好きな人の好きな相手を傷付けたら。一番悲しむのが誰か、分からねえ程俺はろくでなしじゃねえ」
「……っ」
「よしんば傷付けない方法があったとしても、お前の場合、相手は侍って言うんだから、悲しませるだけで済むならまだ可愛いな。下手すりゃその場で斬首だ。こんな小さな町の、ただの町医者の妹であるお前に、その覚悟があるか?」
人のものを奪おうとするなら、相応の覚悟と代償を支払わなければならない。
「振り向いてくれないと分かってても、好きな気持ちを抑えられないのはしょうがねえ。絶対に好きになってもらえないと分かってても、希望を捨てずに頑張るのも悪くねえ。だが、お前が今やろうとしてる事も、俺に肯定して欲しかった気持ちも、そういう事じゃねえんだろう?」
朱音は悔し気に、俯く。
腐っても幼馴染。彼女の、一見必死な想いの裏にある危うさに、気付いているのだ。
「こういう言い方は酷えかもしれんが、相手は旅の侍なんだろう? どうせ最初から、どうにもならねえ相手だったんだ。今ならまだ、引き返せるよ」
最後は敢えて突き放すように言った。
初めて人をちゃんと好きになり、人を愛する気持ちを理解出来た幼馴染の恋路。
出来ることなら応援してやりたいとは思ったが、今度ばかりは相手が悪過ぎる。
まあそれも、初めてであるが故に持て余してしまって、御し切れずに翻弄されているようだけれど。
だからこそ、今ならまだ、と思ったのだ。
「……ほら、もう帰ろうぜ。送ってってやるから」
すっかり沈んだ様子の朱音の傍らに歩み寄って、流はその肩をそっと支えようとする。
しかし、肩に置こうとした手は、いきなり、朱音の手に振り払われた。
「……一人で帰れるから」
酒のせいか頬は紅潮していたが、立ち上がって歩き出す足取りはしっかりとしていた。
卓の上に乱暴に置かれた銭は、飲み食いした分と酒の分合わせてもお釣りが出る。
流はやるせない幼馴染の背中を見送って、再び盛大に溜息を零したのだった。
家に戻ると、ちょうど、湯殿のある辺りからふわふわ湯気が立ち込めているのが見えた。
今日は外で夕食を食べて来ると兄に言っておいたから、湯を沸かしたのも兄だろう。
こういうことは時々あるから、別にそれはいい。
朱音が気になったのは――その、湯殿の外。
天窓の真下。
壁を背に腕を組み佇む、焔――焔獄鬼の姿。
それだけで分かる。今、風呂に入っているのは、神楽だ。
「主、湯加減はどうだ? 薪を足すか?」
ややあって、焔獄鬼が天窓の方を振り仰ぎながら当たり前のように言う。
「大丈夫。いい湯加減だ。狛も気持ち良さそう」
風に乗って聞こえて来たのは、いつもより口調の柔らかい神楽の声。
――ここまでの帰路で冷めた筈の熱が、また上がっていく。
もう酔いは醒めた。でも、今の何でもないやり取りだけで、怒りの熱が込み上げる。
『振り向いてくれないと分かってても、好きな気持ちを抑えられないのはしょうがねえ。絶対に好きになってもらえないと分かってても、希望を捨てずに頑張るのも悪くねえ。だが、お前が今やろうとしてる事も、俺に肯定して欲しかった気持ちも、そういう事じゃねえんだろう?』
頭の中に、先程幼馴染に言われた言葉が蘇る。
――分かっている。そんなことは。
これまで、両親が妖怪に殺された、という点以外は平々凡々な人生を送って来た。
自慢ではないが町の女に逆恨みされた経験だって、実はある。
だから今、流に諭される前まで胸の中にあった“考え”が、決して正しい事ではなかったということくらい、悪友たる流に説教されなくても分かっている。
でも。
でも、と、どうしても、思ってしまう。
何故……何故、私では駄目なの。
神楽と朱音の何が違うのだろう。
歳も近そうだし、体格もそんなに違わない。何なら胸の大きさは勝ってる。
神楽みたいに武器を振り回して戦うことは出来ないが、神楽は炊事洗濯が不得意だと言っていた。
料理も焔獄鬼は褒めてくれたし、神楽より丁寧な言葉遣いで喋っている。
それでも心の何処かで、朱音は神楽に勝てないと悟っている。
女としても、人としても。
違いなんて大してないのに。負けてない部分も多いのに。
そうだ、違いなんて、ない。
それなのに何故。
「――、!」
悔しさのあまり拳を握った、時。
焔獄鬼が、不意に、朱音の方に視線を向けた。
先程までの穏やかさとは一転して、敵意にも似た、鋭い視線。
朱音は反射的に数歩後退って。
逃げるように家の中に駆け込んだ。




