一線のこちら側
目の前の幼馴染は、それはそれは昔から男に人気で、子供の頃から「大きくなったら僕のお嫁さんにする!」とか周りから言われて来た女子である。
大きくなってからも男女の交際に至って夫婦の約束を交わした男もいたが、いつの間にやら破談になっていたりした。
本人曰く、「恋というものがよく分からない」らしい。
好きと言われれば、相手のことが嫌いでないなら交際を受け入れて、夫婦になってくれと言われれば、特に断る理由もないから受け入れたという。
兄を安心させてやりたいというのもあったし。
けれど最後には、いつの間にかその縁談は破談に終わっている。
「寝所に入ったけど、気分が乗らなくて拒否したせいだろう」と言葉こそ申し訳なさそうに言っていたが、目が「仕方ないじゃん」と言っていたのを、流は憶えている。
引く手数多が故か、親代わりの兄を想うあまりに兄以上に心を動かされる相手がいないのか。
朱音と直正の兄弟愛は、町の人間ならば誰もが知るところである。
「あー……っと、お前、好きな奴いんのか?」
そんな朱音なので、気になるのはまずそこからだ。
町一番の美人だというのを良くか悪くか自覚している彼女が、半ば必死になっているのも驚きだった。
「そうよ」
「そう、ってお前……愛とか恋とか分かんねえって言ってなかったか?」
「そうよ。でも……これは間違いないわ。私、あの人が好き」
この娘もうお酒飲んだっけ……と、半ば現実逃避気味に流は思う。
飲んでなかった。というかまだ彼女が頼んだ分は届いてもいなかった。
「ああ、そう……で、そいつには別に好きな女がいる、と?」
「その通りよ。それも、私と同じかそれ以上の美人」
町一番の美人は自分だと恥ずかし気もなく、嫌味でもなく豪語する彼女があっさり自分以上と認める辺り、容姿の面でもちょっと分が悪いと見える。
「ひょっとしてあれか? 近頃お前んとこに厄介になってるっていう、二人の謎の美男美女」
神楽と焔獄鬼のことは、町でもかなりの噂になっていた。
男達はその美貌に息を呑み、女達はその美形に熱を上げている。
「何だ、やっぱりあの二人デキてんのか」
「主従の関係だって言ってるけどね。本人達は」
「主従って、どっかの国の姫さんか? それとも兄ちゃんの方がどっかの国の将軍とか?」
「そういう訳じゃないらしいけど、神楽さんが主で、焔さんが従者なんですって」
面白くなさそうに説明する朱音の元に、やっと注文した酒が運ばれて来る。
「で、朱音はその美形の従者に惚れた、と」
「そうよ!」
余程歯痒いのか、はたまた腹立たしいのか、朱音は酒を猪口に並々注いで、一気に煽る。
「ああ、まあ、確かにこの世のもんとは思えねえ美女だもんなあ、あの姉ちゃん」
だん! と朱音が猪口を卓の上に叩き付ける。
普段はそこそこ品と分を弁えた言動をするのに、今夜の朱音はかなり切羽詰まっている上に虫の居所が悪いらしい。
ここまで怒っているのを見るのは、流とて五年くらい前のことである。
「ごめん、俺が悪かった」
何なら牙とか角とかが錯覚で見えたので、流は素直に詫びる。
「いやしかし何というか、不運だな。やっと愛とか恋とかって感情が分かったのに、その相手には既に決めた相手がいるとは」
「言われたわ、あの人に。自分に触るな。触っていいのは神楽さんだけだって」
「そりゃまた熱烈だな」
言いながら朱音は次々酒を注いではごくごく飲んでいく。
やはり、今日ここには自棄食いと自棄酒を呑みに来ているようだった。
「でも、好きなの」
「……、」
「初めて逢ったその瞬間から……もう、どうしようもないの。あんな女じゃなくて、私を見て欲しい。あんな女じゃなくて、私に触れて欲しい」
普段の彼女からは考えられない程の睦言は、流以外の町の男が聞いたら心を大層刺激されたことだろう。
愛とか恋とか分からない、何となく男と付き合っていただけと堂々と宣っていた筈の朱音は、ここへ来て制御不能の感情に翻弄されている。
「どうしたら彼を振り向かせられるの? どうしたら私を見てくれるの? どうしたら、彼の心は私のものになるの?」
「……朱音、気持ちは分からねえでもないが、下手な事したら、逆にその兄ちゃんの幸せ、ぶち壊しちまうんじゃねえか? いいのか、好きな男を傷付けたり不幸にしたりして」
正論は却って朱音を怒らせたり傷付けるだけだとは分かっていたが、流は諭すつもりで言ってみる。
朱音は高飛車というか少々自意識が高い面があるが、仮にも医者の妹故に人道に悖るようなことをする女ではない。
「綺麗事はやめて。ていうか、だったら私があの澄ました女より焔さんに愛されて、あの高飛車な女より幸せにしてあげればいい話じゃない!」
ここへ来て酒がかなり回り始めているようで、朱音の言葉が睦言から暴言に変貌しつつあった。
普段無茶な飲み方はしないのだが、これはかなり重症だった。
「で、どうなのよ。あんただったら。諦める? それとも横取りする?」
問うてはいるものの、彼女の中ではもうどうしたいか定まっているんだろう。
誰でもいいから背中を押して欲しいのか、応援でもして欲しいのか、はたまた、「そうだ、やっちまえ!」とでも煽って欲しいのか。
「……俺だったら、諦める。横取りもしねえ」
隠しもせず溜息を零した後、流はいつになく真剣な目と声音で答えた。
「な……何でよ! そんな軽い気持ちなの!?」
「軽い気持ちじゃねえからだよ」




