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理不尽の犠牲者

 

 ――この時気付くべきだった。寧ろ、そんな状態だったのに見過ごした自分は何て愚かだったのだろう、と、手記には記されている。


 翌々日、茜は仕事場から出て来て、夫に「刀が出来た」と報告した。


 その時の茜の顔が嬉しそうな、安堵したような表情だったから、夫は見落としたのだ。


 茜がその頃既に、正気を失っていたことに。


「……、」


 神楽が、天を仰ぎながら息を零し、一度、本から顔を背けた。


 ここまででも、何故“白虎”が生まれたのか、想像に難くない。


 よくある話だ。多分、位の高い人間や清廉な人間が知ったら、「それでも」と反論して哀れみつつ蔑むだろう、よくある話。


 追い詰めた側ではなく、追い詰められた側が仕出かした事だけを責めるのが、人間であるが故に。


「神楽……」


 焔獄鬼が気遣うように神楽の名を呼び、肩にそっと手を置いた。


 神楽はもう一度息を零して、「……問題ない」と言って再び文面に目を落とした。


 ――異変が起こったのは、更に一月後の事。


 隣国の兵士達が、一軍を率いて進軍して来たという報せが城下に齎された。


 圧倒的な軍事力を誇る自国は、恙なく勝利を収めたが……そこで、信じられないくらいの悍ましい事が起こった。


 勝利を確信した瞬間、総指揮として前線に立った将は速やかに兵士達に敵総指揮官の討伐を命じた。


 そこで破竹の勢いで突撃して行ったのは、茜に言い掛かりをつけて刀を打ち直させた将の一人。


 敗北を知りながらも一矢報いるべく戦場に留まる者、戦意を喪失して逃げ惑う者、とにかく目の前にいる敵兵を片っ端から斬り伏せていき、最後には総指揮官の首もその者が落とした。


 が、その男は総指揮官の首を落とした後も尚、撤退する敵軍の兵士達を次々追い立て、半ば虐殺した。


 そればかりか、虐殺を行う彼を止めようとした味方兵士をも殺して――最後には死体で築かれた山と、その上に降り立って不気味に笑う男だけが、そこにあったという。


 その様は地獄と言って良かった。


 時の城主は敵総指揮官の首を獲った事については一定の評価を下したが、必要以上の追撃、虐殺、味方兵の殺害については看過出来ぬと男を厳罰に処した。


 その一件は、噂として城下に瞬く間に広がって行き、茜達の耳にもすぐに入ることとなった。


 茜に言い掛かりで刀の打ち直しを命じた兵士が、その刀で敵味方問わず人を虐殺し、死体の山の上で笑っていた。


 それを聞いた茜は、まるで動揺する素振りすらなく、平然としていたけれど。


 茜の夫は、言い知れない不安と恐怖を覚えた。


 時を同じくして城下では、もう一つ、不穏な事件が起きるようになった。


 夜、町中を出歩く人々を無差別に斬殺して金品を強奪するという、所謂辻斬り事件。


 乱心したとも取れる城中の兵士と、辻斬り。


 犯人の手掛かりさえ掴めないまま時間が過ぎて――夫の不安を他所に、茜はより一層仕事に打ち込むようになった。


「――ここが手記の終わりだ」


 いつの間にやら声に出して手記を読み上げていた神楽は、そこで大きく息を吐いてからそう締め括った。


 ここまで書かれていたら、その先に何があるのか、は、想像に難くない。


「何というか……哀れだな。その、刀工は」


 焔獄鬼が言葉を選ぶように言う。


 茜がもし、自身を男と偽って刀工を名乗っていれば。或いは、彼女の父が彼女を男として育てていれば。


 何か、違っていただろうか。


「女の身で武芸を身に付け、戦場に立つ者は少なくない。工芸品を作る女も居るし、妖怪退治用の武具を作る鍛冶師にも女は居る。男児が生まれなんだ国で、女が城主を継ぐ事も珍しくはない――にも関わらず、何かあれば女であるが故にと蔑まれる。所詮女だ、と」


 淡々と、それが道理だ、とでも言わんばかりの口調で、神楽が言う。


「確かに、女が男に劣る部分も少なくはない。そもそも体のつくりがそうなっている。それは確かな、覆せない純然たる事実だ。だが、女だろうが男だろうが、立てた武功や功績の優劣は、そんなことだけでは決まらない」


 人間は、それを分かっている。


 自分と同じように刀や槍を振るって戦場に立つ女が、確かに、存在しているのだから。すぐ近くに居るのだから。


 分かっているのに、都合が悪くなれば男だとか女だとか、身分の差とか出自とか、そんなくだらない事を持ち出す。


「人間は己の基準と己の地位一つで、優劣を決める。自分が男であるなら女は須らく自分より下であり、自分が剣を振るって戦場に立つ将であるならそうでない男は須らく脆弱であり……そういう風潮と理が、驕りの裏返しでしかないと分からない」


 たとえ自分が失態を犯しても、それは自分の落ち度ではない。そこに、自分が“自分より下”と見做している者が関わっていたなら。


「……この茜も、最初は致し方なしと諦め、受け入れていたんだろう。人間は、良くも悪くも男と女の違いと隔てを本能的に理解して受け止めている。実際、そういった事も書かれていたし」


 でも、と、神楽は思う。


 焔獄鬼には分からないかもしれない、けれど。


 神楽には、分かる。

 自分も人間だった頃が、あるから。


「それが、人の世にある身分というくだらない区別だ。男でも女でも、身分や位の高い人間は、自分より下の者に如何な理不尽も厭わない。理不尽と認識さえしていない」


 茜は、もしかすると。

 そういう、人の世の不条理と理不尽の、犠牲者だったのかもしれない。


「……煩わしいな、人の世というのは」


 疲労を滲ませて、焔獄鬼が言う。


 男だとか女だとか、身分が低いとか高いとか、位が高いとか低いとか。


 人の姿で人の世に下りて幾年。だが焔獄鬼は、人間の事など理解出来ないし、したくもないなと半ばうんざりした。


 同時に、妖に生まれて良かったとちょっぴり思って、人間を愛したが故に人間として生きる道を選んだ友を、ちょっぴり批難した。


 神楽には、絶対に言えないけれど。


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