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不機嫌の理由

 

「……お前が出て行くと言えば、朱音はさぞかし残念がるだろうな」


「は……?」


 神楽から返って来た言葉は、思い掛けないものだった。

 何故ここで朱音の名が出て来るのだろう。


「聞いた話では、あの娘は町一番の美人で器量良し、町の男の半数以上が、朱音を嫁に欲しがってるそうだ」


「……それが何だ?」


 意味が分からなくて、自然と焔獄鬼の口調も憮然としたものになる。


「その朱音が、あからさまにお前に懐いている。要するに、お前に心奪われたという事だろう」


 心奪われた。それはつまり、惚れられた、という事か。

 今の焔獄鬼にとて、人の世に於いてのそれくらいの知識はある。


「だから、それが何だと言うのだ?」


 惚れられたから何だ。別にどうでもいい。

 惚れられていようが何だろうが、焔獄鬼の心は決まっている。


「――いいや。知らぬというのは哀れなものだな、という話だ」


 益々以って意味が分からない。


 いい加減にしろ、と思わず苛立った声を上げそうになった、寸前。


『お前にも、いつかそういう相手が現れるかもしれないな。平穏と笑顔を望みながら、その全てを自分だけのものにしたい、なんて、そんな面倒な感情を抱く相手が』


 唐突に。

 今朝見た夢の光景が、脳裏に浮かんだ。


 女房を怒らせてしまった、と項垂れて、半ば絶望していた聖が。

 思ってる事を正直に話して謝ればいいだろう、と言った焔獄鬼に。


 吹っ切れた笑顔で、それでいて何処か優し気に言った、言葉。


 何故、今、いきなり? と、神楽を見上げたまま困惑する。


 困惑の間に、神楽は歩き出して、焔獄鬼の横を通り過ぎようとした。


 待て、まだ提案の答えを聞いていない。


 そう思った焔獄鬼は、考えるより先に神楽の手を掴もうと腕を持ち上げて――


「、っ」


 瞬間、神楽の足が縺れた。


「!」


 彼女を引き留めるための腕は、咄嗟に、彼女の体を抱き留めた。


「、……大丈夫か?」


 多分、雨で滑ったか木の根元に引っ掛かったのだろう。


 普段はそんなドジなことはしないのに珍しいなと思いつつ、倒れて綺麗な着物が汚れたり、怪我をせずに済んで良かったなと思った。


 まあ、怪我をして、も……痛みを感じた側から傷は消えてしまう、けれど。


 神楽は焔獄鬼の声に答えない。


 何処か俯き加減で、その表情も伺い知れないが、取り敢えず焔獄鬼は神楽が姿勢を整えられるよう支えた後、そっと腕を離そうとした。


 ――けれど。


「……、」


 袖を、掴まれる。

 決して強い力ではなかったが、それは何だか、離すまいとしている、ような。


「主……?」


 思わず神楽の名を呼べば、彼女はやっと顔を上げて焔獄鬼と目を合わせた。


 既に互いにびしょ濡れになっている。


 濡れた前髪の間から覗く神楽の瞳が――いつもと違う。


 よく見ると、表情も、無表情では、なかった。


 その表情が、夢の中の聖と、重なる。


 楽しい事や嬉しい事があれば隠さず豪快に笑い、気に食わない事や悔しい事があれば隠さず悔しがって地団駄踏んでいた男。


 その男の娘は、父のそんな性格とは正反対に、いつも、表情が読めない。

 考えていることが分からない。


 けれど、今、彼女の、この、顔は。


 妻が自分以外の人間に触れられるのが気に入らないと言った時の、彼女の父親に、似ていた。


 それに気付いて、焔獄鬼は自覚せざるを得ないくらい狼狽えた。


 いやいやまさか、と一度は追い遣った可能性が再び頭を過ぎって、どうしていいか分からなくなる。


「………」


 対する神楽は、眉根をさっきより更に寄せて、尚もじぃぃっと焔獄鬼を見上げて来る。


 ――その不貞腐れ顔はまさか無自覚か?


 いやもしこの顔があの時の聖と同じ感情を表している、のなら、これは、不貞腐れている、のではなく……。


「主……もしや、とは思うが、おぬしが機嫌を損ねた理由、は……朱音が我に惚れた故、か?」


 少々歯切れ悪く訊いてみる。


 鉄扇や拳は覚悟の上で。


 が、神楽はやはり答えない。


 代わりに、袖を掴む力がちょっとだけ強くなった。


 要するにそれが答えだった。


 この町に来て、神楽の機嫌が妙に悪いことに気付いてから、ずっともやもやしていた気分が、すっと晴れる。


 同時に、腹の奥に、何だか分からないが大きな何かが込み上げて来る。


 血ではなく妖気でもなく邪気でもなく、そういった負のものでさえ、呆気なく捻じ伏せてしまえそうなそれは、あっという間に全身を包む。


 冷たい雨に打たれているのに、体の内側からどんどん熱が上がる。特に顔が熱い、気がする。


 ふ、と。


 やがて、口角が緩やかに、けれど普段よりずっと大きく上がった。


「……何が可笑しい」


 そこで漸く神楽が口を開いた。


 この機で焔獄鬼の笑みは、確かに馬鹿にされたと思うだろう。

 けれど焔獄鬼は、益々笑みを濃くしながら、腕に力を込める。


 支えて姿勢を整えさせようとした腕は、今度は腕の中から逃すまいと、全身で彼女を閉じ込める。


「、おい」


 自分の感情を認めたくないのか、はたまた素直に言いたくないのか、神楽は焔獄鬼の腕の中で小さく抗議の声を上げたが、振り解いて逃げようとはしなかった。


「我の全てはおぬしのものだ。おぬしがこの世に生を受けた、あの瞬間から」


「……――、」


「狛の名を付ける時といい、少々信用がなさ過ぎるのではないか?」


 返す言葉を見失ったのか、神楽が再び押し黙る。


「ああ、それとも」


 ――我があの女を斬れば。おぬしは我を心から信用してくれるのか?


 耳元でわざと囁いた言葉は、悪戯半分、本音半分だった。


 その本気度が伝わったのか、神楽の腹の底にぞくりと悪寒が奔った。


 焔獄鬼は人間を殺さない。神楽がそれを固く禁じたからだ。


 だが焔獄鬼には、いつでもその用意があるのだ。


 たとえば神楽が傷付けられた時。

 たとえば神楽を愚弄された時。

 たとえば神楽を辱められた時。 


 朱音の言動がどれに当て嵌まるか、は、この際どうでも良いとして。


 神楽の心をここまで掻き乱して、焔獄鬼の信用さえも失墜させようとしているのならば。


 朱音本人にそういうつもりがないのだとしても。


 自覚している。

 “最強の慈鬼”だと言ってくれた友には、悪いけれど。


 自分は。やはり、悪鬼なのだ、と。


「――もう良いであろう、神楽。機嫌を直せ」


 湧き上がる切ない熱を、声音に滲ませて耳元で再び囁く。


 追い詰めて、追い詰めて。主導権を握ってしまえば、後は畳み掛けるだけ。


 このままでは本当に自分は、あの女を殺してみたくなるぞ。と軽く脅す言葉で。


 やがて、観念したように、神楽が身の強張りを、解いた。


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