夢幻の追憶
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その夜。
焔獄鬼は、夢を見た。
『――おい聞いてくれよ、焔獄鬼!』
懐かしい、友の声。
妖怪のくせに人間を愛して、人と妖怪が仲良く暮らせるようにしたい、などと阿呆な夢を情熱的に語っていた、穏やかな、男。
彼はしょっちゅう焔獄鬼が守る山を訪れては、色んな話をして行った。
妻の神夜の事や、村人達の事、採った薬草や作った薬を売り付けに行った町で起こった事。
世間話なのか愚痴なのか分からない調子で、焔獄鬼には到底縁のない話を延々としに来た。
『マジでやばい。どうしよう!?』
出逢っていくつ季節が巡った頃だったか。
確かまだ神楽が産まれる前。
山の野原にはいくつもの愛らしい花々が咲き誇る時期だった。
いつものようにふらりと現れて、開口一番、冒頭の台詞を叫ばれた。
半ば助けを求めるような様子だったので、友の一大事か、と内心緊張が奔ったけれど、次に言われたのは。
『神夜を怒らせちまった!!』
だった。
『帰れ』
『いやいや待って待って!? 俺今結構窮地に立たされてるんだけど!?』
『情けない声を出すな、仮にも大妖怪ともあろう者が』
『今妖怪関係ないから! ていうか俺今人間だから! っああもう! とにかく一回話聞いて!』
いつも何処か尊大で大雑把な話し方をするのに、この日は本当に切羽詰まっているのか、だいぶ口調がおかしかった。
夫婦の事など知るか。それが妻を怒らせたの何のという話を聞かされたって、一体自分にどうしろと。
正直、聖を山の外にぽいと捨てたい衝動に駆られたが、そこは友の矜持で全力で耐えた。
『――分かった分かった。聞いてやる故、取り敢えず静まれ』
半ばやけっぱちな気持ちで焔獄鬼が地響き交じりにどかりと座ると、聖は心底嬉しそうに笑って「ありがとう!」と言った。
『俺が生計の為に、時々薬草とか薬とかを売り付けに行ってるのは知ってるだろ?』
『ああ、近隣の村やら町やら。それだけでなく、請われればそこに出張って病人や怪我人の治療もしておるのだったな』
『赤ん坊の取り上げまでやるぜ。何でもお任せ妖怪医師。それが俺』
流石に「妖怪医師」を堂々と名乗って売り出している訳ではないだろうが、自慢げに言いつつもその声音と口調は至極楽しそうだ。
すっかり人間として生きる道を歩み、人間を喰うのではなく救う為に邁進していると見える。
『でな、ちょっと前に山一つ向こうの村の長の娘が、風邪を拗らせてしまったってんで診察を依頼されてな。応じて出向いたんだ』
『ほう』
『神夜と同じ年頃の娘でな。素朴な女の子、って感じの娘で、まあ、普段通り診察して、薬を分けてやった訳だ。けど如何せん熱が高くてな。考えた末、俺は一晩付きっ切りで彼女を看病することにしたんだ』
別段珍しい事ではない、と聖は付け足す。
症状によっては一晩どころか二日三日、往診先に滞在することもあるという。
だから神夜の不機嫌の原因は、家を空けたことではない、と聖は断言した。
『俺の薬が効いたのか、翌日の昼には何とか熱も下がって落ち着いてな。これで一安心、と俺は家に帰ると申し出た』
追加で薬を彼女の親に渡して、その日はそのまま家に帰って。
帰り着いた正にその時、事件は起きた。
『神夜が、知らない若い男と一緒に、家から出て来たんだよ』
『……、』
『しかもめちゃめちゃいい笑顔で、“じゃあまたね”って、しかもその後堂々と家の前で抱き合ってやんの』
当時人の世の事など何も分からなかった焔獄鬼でも、それが如何に大変な状況か分かった。
だが待て。そもそも、神夜を怒らせた、と聖はさっき言わなかったか。
『暫く呆然として見てたよね』
頭抱えて半ば蹲る聖に、生まれた疑問を口に出すのが憚られて、焔獄鬼は黙って続きを待つことにした。
『で、我に返って、取り敢えず落ち着こうと思って深呼吸して、何かの間違いだろうなんて自分に言い聞かせながら家に入った訳だ。そしたらよ……そしたらあいつ、何食わぬ顔で、めちゃくちゃ嬉しそうな顔で“おかえりなさい”って』
『……それは……』
『しかもあいつ、至っていつも通りに“お疲れ様でした”とか“お食事になさいますか?”とか言いやがるもんだからよ。つい、俺、かっとなって詰め寄ったんだ』
今の男は誰だ、抱き合っていただろう。
お前、俺の留守の間に男を連れ込んだのか、やはり人間の男が良いのか。
その姿が目に浮かぶようだった。
『ビンタ喰らった』
それはもう強烈な一発だった、と聖は項垂れる。
言葉で答えるより先に、制裁が下された。
『その男よ……なんと神夜の幼馴染で、俺が診察に行ってた町に住んでるんだって。今度自分も祝言を挙げるからって、その報告と招待がてら、久々に会いに来ただけだったんだとよ』
『それは……また……』
『実の兄妹みたいに育った仲らしくて、抱擁も別にいつものことだって。言ってみれば挨拶でしかない、って。死ぬ程怒られた』
話を整理すると、聖が留守の間に妻の幼馴染が訪ねて来て、兄妹の戯れの抱擁を運悪く見てしまって、頭に血が上った聖が一方的に勘違いをして妻を責め立てたが故に、妻の神夜は怒り心頭である、と。
『五日経った今でも口きいてくれないんだよぉ……』
そんなに私が信じられないのか、とか、私をそんな女だと一瞬でも思ったのか、とか、そんな事言うなら貴方は仕事柄若い娘の肌を見ることも多いけど、僅かでも邪な気持ちはないと言い切れるのか、とか。
売り言葉に買い言葉な上に、少々聖を愚弄するようなことまで。
最後のは断じてないと言い切ったが、でも貴方は私はそういう女だと思ったってことよね、と更に機嫌を悪くしてしまったという。




