揺さぶるもの
「じっとして下さい」
焔獄鬼の袖を掴んで少々引っ張って屈ませようとしながら、手拭いを近付けて来る、けれど。
「きゅぅぅ!!」
狛がいきなり怒ったように叫んで、焔獄鬼の袖を掴む朱音の手に飛び付き、その勢いのまま手拭いを払い落した。
「きゃ! ちょっと、何するの!」
可愛いと褒めていた小動物に、流石の朱音も怒りを露わにする。
朱音の目には、主人を独占したいが故の暴行にしか映らなかったことだろう。
しかし内心、焔獄鬼は逆に狛を褒めてやりたいと思った。
「狛」
静かに、けれどぴしゃりとした声音で狛の名を呼べば、狛はびくっとして縮こまる。
尚も朱音を睨んだままだったけれど、すぐに踵を返して焔獄鬼の足元に擦り寄る。
「――すまなんだ。許してやってくれ」
落ちた手拭いを拾って、焔獄鬼は朱音に手渡した。
「いえ……」と小さく笑みを作って、朱音は手拭いを受け取る。刹那、僅かだけ彼女の視線が焔獄鬼の足元、狛へと落ちた。
一見、戸惑うような視線にも見えたけれど。
焔獄鬼は、その瞳の奥に、確かな蔑みの色が仄かに揺らめいているのを、見逃さなかった。
「だが」
狛には感謝している。
今日は不安定な焔獄鬼の心の良き安定剤になってくれたし、妖刀が元はここに封印されていた物だったと知るきっかけも作ってくれたし、さっきは無遠慮に触れて来た無礼者の腕を払ってくれた。
人間という者が、そもそも他者との距離感をいきなりこうも縮める生き物なのかどうか、は分からない。
ある程度の事は、人の世で正体を隠して立ち回る為に必要ならば、我慢や辛抱もしよう。
――だが。
「気安く我に触るな。我に触れて良い女は、この世でただ一人」
そう、それだけ、は。
「我が主、神楽だけだ」
それだけは、許さない。
それだけは、我慢ならない。
自分達にとって無害な相手だろうと、人の世では当たり前の触れ合いなのだとしても。
――低く、冷たく、敢えて叱責するように言えば。
朱音の貼り付けたような笑みも、狛に対する蔑みの色も、一瞬で、凍り付いた。
□□□
薬草入りの風呂に首元まで浸かる。
少々熱めだが、一日病人や怪我人の診察をして疲労を感じている体には、気が抜けそうになる程染みた。
薬草に囲まれていると、父を思い出す。
生粋の妖怪にして、人間の娘と恋に落ち、人間として人の世に紛れて生きていた、父。名を、聖。真名は――雷狛。
真名を知る者はもう、神楽と焔獄鬼しかいない。
呼ぶ者に至っては一人もいない。
人間を愛したが故に、人間として生きて、人間として死ぬことを己が生の目的に生きた父は、その信念の通りに人間を守る為に人の医術を学んだ。
故に神楽の生家には、そこらじゅうに薬草が置いてあって、それを煎じる規則的な音が毎日響いていた。
毎日毎日聖は薬草を煎じ、毎日のようにやってくる村人達の不調を診て、薬を調合して、村人達に無償で分け与えていた。
今日一日一緒に診察をしていて、何となく、直正は――聖に似てる気がした。
患者に優しく、家族である朱音を心から大切にして、自分が持てる知識で人を守ろうと懸命で。
――早くここから立ち去りたかった理由の一つが、それ。
叶う事ならずっと、優しい匂いと温もりの中で生きていたかった――気の遠くなる程の昔に捨てた筈のその願いを、ここは、思い出させるから。
父を、母を、そして――かつて愛した人を、思い出させるから。
「――きゅぃ、きゅぃ」
湯船の中で、記憶の微睡みに包まれる神楽を、狛の鳴き声が引き戻す。
狛は格子窓から湯殿の中に入って来ると、湯船の脇で嬉しそうに鳴き声を繰り返した。
狛が戻って来たということは、焔獄鬼も戻って来たということ。
よく見るとちょっと汚れている狛の為に、神楽は桶に湯を張ると、その中に狛をそっと入れてやる。
「きゅぅぅ……」
幸せそうに、気持ち良さそうに桶の湯船の中で破顔する狛に、神楽も思わず小さく笑みを零した。
猫は水が苦手というが、猫にも犬にも見える妖の狛は風呂が好きらしい。
そんな狛の頭を軽く撫でてから、神楽は湯船に浸かったまま壁まで移動して、戸板に背を付けた。
「……戻ったか」
「ああ。遅くなってすまぬ」
壁を挟んだ向こうには、焔獄鬼が立っている。
直正に神楽が入浴中だと聞いたのか、或いは気配で分かったのか。
「何かあったのか? 狛が随分汚れているようだが」
「山の中で雑魚妖怪に襲われたので、そのせいであろう」
「そうか」
「かくいう我も少々顔と着物が汚れた。後で井戸で顔を洗って参る」
「そこは井戸ではなく、ちゃんと後で入浴させてもらえ」
この鬼は、神楽の側にいることを優先するあまり、他の事が少々疎かになる時がある。
「それで、奇妙な気配の正体は分かったのか?」
「ああ……それなのだがな、主。どうにも厄介というか、面倒な事が分かったぞ」
そうして焔獄鬼は、今日見て来たものの全てを、神楽にありのまま報告した。
山の中腹に建つ寂れた土蔵、封印が施されたそこに眠っていたのは、例の妖刀であった事。
そして、あの妖刀は、人間の凄まじい怨念の下に作られたが故に妖刀として世に生を受けてしまった事。
土蔵の封印は既に力を失い解かれている事。
更に、この町の人間は妖刀が山の土蔵に封印されているのを知っている事や、年に一度形ばかりの儀式を行っているが故に、妖刀そのものについては無関心である事。
聞いているうちに、神楽の表情もどんどん硬くなる。




