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古い土蔵

 

 ここで午前の診察は一段落して、直正は一つ息を零す。


「ありがとう、神楽さん。お陰でいつもより早く終わったよ」


「いえ、暫く泊めて頂く対価ですから」


「それにしても、さっきは申し訳ない。あのおやっさんも悪気はなかったんだと思うから、気を悪くしないでやって欲しい」


「それもお気になさらず。あの手の揶揄には慣れております」


 気持ちのいいものでもないけれど、という言葉は心の中だけに留めておいた。


「まあそれもこれも、俺があまりにも妹の事ばかりを優先するのがいけないんだけれど」


 自嘲の笑みを浮かべて、直正は呟く。


「あいつの事は俺が育てたようなものだから、ついつい過保護に甘やかしてしまってな」


「……ご両親は」


「死んだ。朱音が四つで、俺が八つの時だった。……妖怪に、襲われてな」


「……、」


「だからまあ何というか、あいつを嫁に出して幸せになったところを見るまでは、俺も嫁を貰う気にはなれないんだよな」


 よくある話だ。

 戦乱の世、幼い子供を遺して親が死んだり殺されたり、などという話は。

 殺した相手が、違うだけで。


 今更、昨日今日会った人間の、ありふれた不運に痛む心はない、けれど。


「朱音様も、同じ思いかもしれませんね」


 何となく浮かんだ言葉を口に乗せる。


 すると直正は、困ったように笑って、「それじゃいつまで経っても兄妹離れ出来ないな」と言った。


「そういえば、その朱音様はどちらに? お姿が見えませんが」


「ああ、あいつなら今日は買い出しに行ってるよ。今夜は焔さんの為に昨日より美味い飯を作るんだって張り切ってたから」


「……そうですか」


 妹の健気さを微笑ましく語る直正の言葉に、また、神楽の腹の奥が、ごろっとした。


 忘れかけていたゴロゴロ。


 ――認めたくはなかった。もう断固として認めたくはない、が。


 既にゴロゴロの正体を心が気付いているので、これ以上目を背けるのは自分に対して見苦しい。


「あ……これについても申し訳ない。それは無理だって、俺からもさり気なく言って聞かせるから」


 一瞬で神楽が不機嫌になったのを察したらしい。

 直正が慌てて宥めるように言ったが、それはそれでなんか腹立たしかった。


「……何の話でしょう」


 神楽は至っていつも通り、普段通りの声音で問い返す。


 しかし、ひんやりとした瞳は困った事に隠し切れておらず、直正は苦笑して「ああ、いや、あははは」と返すしかなかった。



 □□□



 ――山の中腹に、それはあった。


 人里離れた森の中、年季は入っているものの、立派な土蔵。

 焔獄鬼はそれを見上げて、渋い顔をする。


 見た目はありふれた土蔵だが、それを取り囲む周りの空気が少々異様だった。


 草臥れてボロボロになった注連縄、背の高い棒が土蔵の四隅に突き立てられ、それぞれに縄が渡されており、その縄には数枚ずつ古びた札が下げられている。


 更には入り口の戸に、「封」と書かれた紙。


 信心などない人間でも一目で分かる。

 この土蔵は、何かを安置、封じる為に建てられたもの。


 恐らくは人間が張った結界だろう。僧侶か巫女か修験者か。それなりに大掛かりな封印術のようだから、使う人間も相応の力を有していなければならない。


 とはいえ、その封印も既に効力を失っているらしかった。


 雨や風に晒されて、縄に括られた札の何枚かは地面に落ちているし、四隅に立てられた棒も今にも倒れそうだし、注連縄はボロボロだ。


 この土蔵の管理と守護を任された者は、もう町にはいないのだろうか。


 焔獄鬼は内心呆れ果てながら土蔵の周りを一周する。


 どうやら妙な気配の正体はこの土蔵から垂れ流しになっている、術の名残りだったらしい。


 取り敢えず、妖刀以上に厄介なものではなさそうだから、この町を出て妖刀探しに戻っても良いだろう。


 更にこれで、神楽の機嫌も直るだろう。


 やれやれ、と一つ息を零して、土蔵の正面で立ち止まった。

 問題はあっさりと解決した。後は直正宅に戻って、この事を神楽に報告するだけだ。


 そう思って踵を返そうとして――


「きゅ?」


 が、その瞬間、いきなり狛が焔獄鬼の肩から飛び退いて、土蔵の戸まで駆け出して行った。


「きゅぅ」


 戸の前、地面を嗅ぐような仕草をしたかと思ったら、次いで戸を前脚でがりがり叩き始める。


 猫によく見られる仕草だ。

 中に入りたいのだろうか。


 封印は解けているから、戸は人の手で簡単に開けられるけれど。


「何だ、何か気になる臭いでも――」


 あるのか、と続けようとして。


 焔獄鬼は軽く息を呑んで、身を強張らせた。


 ――今まで立っていた場所からは気が付かなかった。


 狛が忙しなく前脚でがりがり叩く戸。その中心辺りに貼られた「封」の札。


 それが――綺麗に真っ二つに裂かれている。


 それだけでなく、よく見ると戸は一度開けられた形跡もある。


 焔獄鬼の中に僅かな緊張が奔った。


 何が封じられていたのかは知らない。が、そこそこ大掛かりな封印だから、それなりに曰く付きの物だろう。


 焔獄鬼は慎重に土蔵の戸を開けて、中の様子を探る。


 明り取りの小窓があるが、森の中ということもあってか、拾う光は淡く頼りない。

 黴臭さが充満する土蔵の中。その中心に置かれていたものの側に、狛が駆け寄る。


 すると狛は全身の毛を逆立てて「ウ゛ゥー!」とそれに警戒と威嚇の姿勢を見せた。


「……これは……」


 ちょうど、心許ない日の光が差し込む位置に、それはあった。


 焔獄鬼もよく見慣れ、時には使うこともあるそれは、刀掛け。

 立派な職人が造ったのだろうそれには、しかし肝心の刀は置かれていなかった。


 狛は威嚇と警戒の姿勢を崩さぬまま、物言わぬ物体に向かって時折鋭い鳴き声を上げる。


 封印の効力が切れ、悪意でも殺意でも邪気でもない気配に包まれた土蔵の中、赤子同然とはいえ妖である狛が、ここまでの敵意を向ける、ということは。


 途端に胸の中に広がる、嫌な予感。


 焔獄鬼は狛の隣まで歩み寄り、身を屈めて、刀掛けをじっと観察する。


 彼の脳裏に、何故か、妖刀と戦った夜の光景が過ぎった。

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