違和感
「おはよう。起きてたんだな」
「……おはようございます」
「六郎のこと、本当にありがとう。助かったよ」
「いえ……あの御仁のお母上の容態は?」
「あっちも大丈夫。持ち直したよ。元々患っているんだけど、ここのところ変な天気も多かったし、ちょっと抵抗力が弱まってたんだろうな」
言いながら直正も庭先に下りて、顔を洗う。
「しかし本当に良かったよ。二人共助かって。俺一人だったら、貴方の言った通りどちらかが手遅れになっていた」
二、三度ばしゃばしゃと顔に水を当ててから、直正は深い安堵の声で言った。
その安堵の中に、ほんの微かに、「もしも」の恐怖を潜ませて。
かつて、父、聖は言っていた。
医者にとって一番辛く、同時に恐ろしい局面は。
自身の持てる術で命を救えるか救えないか、自身でさえ分からない瞬間と、今どの命を最優先に救うべきか取捨しなければならぬ時だ、と。
「運が良かったのでしょう。あの子と、そのお母上は」
励ましにも慰めにも安堵の共感にもならない言葉と共に、神楽は持っていた手拭いを直正に差し出す。
直正は一瞬きょとんとした顔になったが、すぐに小さく声を上げて笑い「そうだな」と言って受け取った。
「あ、おはようございます。兄さん、神楽さん!」
「ああ、おはよう」
「ちょっとなになに~!? 朝から良い雰囲気ですね、二人共!」
「馬鹿を言っていないで、朝飯を頼む。皆昨夜から何も食べていないんだから」
「はーい」
とても自然な仕草で手渡された手拭いを、神楽は桶に掛ける。
妹の揶揄を溜息で無視して、直正は台所の奥へと引っ込んで行き、入れ違うように焔獄鬼が神楽の側に歩み寄って来る。
朱音は朝餉をと兄に言われたのに、すぐには台所に戻らず、何故か神楽の方に向き直った。
この時焔獄鬼は彼女に背を向けていたから気が付かなかった。
離れていく焔獄鬼ではなく、神楽を少し高い所から見下ろす朱音のその目は。
勝ち誇ったような、何処か小馬鹿にするような、尊大な色だったことに。
ここへ来て初めて、朱音は神楽と真っ向から目を合わせた。
それは無言の挑発であり、無言の挑戦だった。
「――ここに留まりたい、だと?」
全く予想していなかった焔獄鬼の申し出に、神楽はあからさまに怪訝な表情を見せた。
朝餉を終えて膳を台所に運び、戻る途中で六郎の様子を見て、そろそろ妖刀探しに戻っても良いだろうと判断して部屋に戻ってみれば。
神妙な面持ちで焔獄鬼が唐突に、この町にもう少し留まりたいと言い出したのだ。
意図せず神楽の脳裏に浮かんだのは、今朝、台所で楽し気な様子だった朱音の姿。
「理由は?」
苛立ちは無自覚か、神楽は不機嫌な声を抑えることなく焔獄鬼に問う。
「いや、あの……気付かぬのか? この町……正確には、あの山の辺りから、どうにも奇妙な気配を感じるのだが」
神楽がここまで不機嫌さを隠さないのは珍しい。
というか焔獄鬼にとっては初めてで、流石に少々面食らう。
困惑しつつも障子を開けながら山を指差し理由を言えば、神楽が眉を顰ませてその山を半ば睨んだ。
焔獄鬼が指し示した山は、昨日、朱音と出逢った山の反対側、町を挟んで向かい側にあった。
「……私は何も感じないが」
「そう、なのか?」
憮然と答える神楽に、焔獄鬼は少々自信喪失したように言う。
――焔獄鬼は妖の頂点とされる種族である、鬼。
どんな野山にも妖の一匹や二匹生息しているものだし、それが如何に微弱な瘴気しか持たない妖でも、焔獄鬼の嗅覚は捕らえてしまうのだろう。
そんなものをいちいち気にしてなどいられないのだが。
「だが……確かに感じるぞ。まこと妙な気配だ」
「妙と言うが、具体的にどう妙だと言うんだ」
「そうだな……何と申すか……」
微かな苛立ちを滲ませて神楽が重ねて問うと、焔獄鬼は片手を顎の辺りに持って来て、何やら考え込む。
“妙な気配”を上手く言語化しようとしているらしい。
ややあって、焔獄鬼は言葉を探るように、選ぶように説明する。
「邪悪なものと断言は出来ぬ。が、邪気や瘴気より弱く、薄く、敵意でも殺気でもなく……」
「……何だそれは」
「すまぬ。だが、上手く説明出来ぬが故に、奇妙としか申しようがないというか」
すっきりしない答えだが、それ故の奇妙さだと言われてしまえば、はっきりしろ、と頭ごなしに断ずることも出来ない。
人間達は“気配”という言葉はざっくり人と妖と動物のものだけだと思っているがそうではない。
神楽や焔獄鬼のような少し何処の道理からも外れた者から言わせれば、草木にだって気配はあるし、この気配はあれと断言出来ぬものに遭遇する事だってなくはない。
焔獄鬼程の力の持ち主がそれを察知してしまったのなら、神楽も安易に決め付けて無視するのは些か軽率と言わざるを得ない。
――正直。今すぐこの町を去りたい気持ちが大きいが。
「……分かった。ならば直正に、このままあと数日逗留させてもらえないか頼んでくる。承知してもらえたら、お前はあの山に様子を見に行って来い」
「忝い」
「その代わり、何もなければ即刻町を去る。良いな」
「承知した」
焔獄鬼が頷くと同時に、神楽は障子を閉めた。だが彼女はすぐには歩き出さず、その場で一度深い深い溜息を零した。
途端に胸の辺りに広がっていく、ゴロゴロする何か。
何故かさっきから、今朝の焔獄鬼と朱音の光景と、朱音が寄越した勝ち誇った視線が頭にちらつく。
「きゅぅ……」
無意識に拳を握り締めた時、部屋を出る前までは焔獄鬼の肩に居た筈の狛が、神楽の足元で心配そうに小さく鳴いた。
部屋を出る一瞬で、焔獄鬼の肩から飛び退いたらしい。
「……素早いな、お前。気が付かなかった」
狛の泣き声で頭が冷えたのか、神楽は小さな苦笑を浮かべながら、狛の頭を撫でる。
「きゅ、きゅ」
そうして数歩小走りに廊下を進むと、神楽を促すように二度鳴いた。




