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正体

 

 一度生まれてしまった恐怖を御し得ぬのも、勝てぬのも人間故か。


 たった一人の疑心暗鬼の声は、集まった宿泊客達に瞬く間に広がっていく。


 神楽にとっては見慣れた光景だった。

 そういえば、焔獄鬼の故郷の麓の村でも、同じような事があった。


「お、俺は逃げるぞ! お侍が体張って戦ってくれてるってんなら、俺等にとっちゃ今が逃げる好機だ! そいつが敗けて辻斬りが襲って来る前に!」


「よ、よし、俺も……!」


「私達も……!」


 結局、人間達は着の身着のまま、雪崩れ込むようにして階段を下りて行った。


 思わず助八と寅蔵が制止の声を上げようとしたが、その暇さえなかった。


 次の瞬間上がった悲鳴は、一階に広がる惨状を目にしたせいだろう。

 だがそれを目の当たりにしたからと言って、引き返そうとする者はいなかったけれど。


 ――神楽は無理に引き留めようとはしなかった。


 そんなことをする必要もなければ、そんなことをする義理もない。


 少なくとも、辻斬りが現れて、真っ先に飛び出した焔獄鬼は、何事かと不用心に部屋を出て来た人間達に危害が及ばないよう叫んだのに。


 そんな彼を囮にして逃げる人間達を守る気には、とてもなれなかった。


「か、神楽様……」


 助八が戸惑ったように神楽の名を呼ぶ。


 ――分かっている。


 命の危機に瀕した時、人間は驚く程卑劣で浅ましい行動を取ることがあって。


 誰もそれを責めることは出来ない。


 何を置いても、人間は自分の命を一番に守ろうとする生き物であり、それが正常な人間の思考だからだ。


 助八達の目は、別段、人間達を止めない神楽を責める風ではなかったけれど、でも、少しだけ、“何故”と暗に詰問していた。


「……貴方方もお逃げ下さい。確かにこれは好機です」


「で、でも……」


 人間達の言う通りだという言葉の代わりに、神楽は助八達に逃げるよう促す。


 ――が、その時。


 神楽の足元。

 板が突然破壊され、そこから飛び出して来たのは。


 全身黒ずくめの、乾涸びた顔をした異形の者だった。



 □□□



 よく、死にそうな人間を“生気がない”などと表現することがある。


 だが目の前の黒ずくめは、生気がないどころか、精気すらないということが一目瞭然だった。


「あぁー……」


 黒ずくめは口から嗚咽なのか呻きなのか分からない声を上げている。


 その目は片方がくり貫かれたように空洞で、頬の一部には骨が浮き、唇は削いだかのように開いたまま。


 なのに刀を握る腕は、さながら若い男の兵士のように瑞々しく立派だった。


 つまり辻斬りの正体は――妖。


 それも、人間の亡骸がそのまま妖として変貌した、哀れな人間の成れの果て。


 戦いながら気が付いた。動きこそ俊敏で無駄もないが、まるで人形と戦っているような虚無な手応え。


 何より、刀を交える度に膨らむ瘴気。


 焔獄鬼は微かに、痛みを堪えるような顔をして……すぐに、殺気の籠った目で相手を見据えた。


 妖気と妖力を更に高めて、相手にも自分が力ある妖だと認識させる。


 ――背後で人間達の悲鳴が上がったのはその時だった。


 自分が戦っている隙に逃げようという魂胆か、或いは好奇心と恐怖に負けて様子を見に来た結果か。


 いずれにしろ人間達の軽率な行動は、黒ずくめの興味を引くには十分だった。


「あぁー……!」


 何処となく嬉しそうな声を上げて、黒ずくめは突進してくる。

 焔獄鬼の眼前で飛び上がり、彼を飛び越えて着地すると、すぐさま宿に向けて走り出す。


「ちっ」


 焔獄鬼は舌打ちすると、妖力を込めた刀を再び一閃、衝撃波で黒ずくめの背中と両足を斬り付けた。


 黒ずくめが前のめりに倒れ込んだのとほぼ同時に、宿泊客達が店の外に一斉に出て来る。

 瞬間、黒ずくめの異形な顔が人間達を捉えて、その場は戦慄と混乱に染まったが。


 追い打ちを掛けるように焔獄鬼が今度は黒ずくめの背中を串刺しにして、その体を抑え込んだ。


「逃げるなら早く行け!!」


 半ば恫喝の如く怒鳴れば、人間達は弾かれたように悲鳴を上げながら走り去る。


 固まって同じ方角に逃げていったかと思いきや、途中でバラバラになって人間達の背は暗闇の中に消えた。


 口の中だけで苦い溜息を零した時、黒ずくめが再び焔獄鬼を払い除けて起き上がった。


 ――おかしい。


 焔獄鬼は、そこでもう一つ違和感に気付く。


 既に彼はもう何度もこの黒ずくめを斬った。少し前の心の臓への刺突と、今の背中への衝撃波と串刺し。


 並みの妖ならば、これだけで既に片は付いている。


 少なくとも焔獄鬼の刀は、それが繰り出す斬撃は、普通の刀のそれとは違う。


 ましてや、仮にも“最強の悪鬼”と謳われる鬼の妖力を込めた斬撃を二度も三度も受けて、ここまで動けるなどと。


 この妖、こんな不気味な姿をしていながら実はかなりの力の持ち主?

 ――否。感じる妖力も、妖気も、瘴気の濃さも、中より少々上程度でしかない。


 ならば、神楽のように不死の妖?

 ――否。それならばこんな姿で居る筈がない。人語すら話せないのも不自然だ。


 妖の心の臓を喰らって不死の妖へと変貌する、ということは、その妖の持つ力を引き継ぐということ。


 喰う妖は須らく強大な力を有している筈だし、こんな醜い姿で喋れもしないなど有り得ない。


 だとするなら。


 ――戸惑う焔獄鬼を嘲笑うように、黒ずくめがまた嬉しそうな声を吐く。


 その時。黒ずくめが持つ刀が、禍々しい光を放ち始めた。


「……成程。本体はそちらか」


 その様子こそが、焔獄鬼が抱いた疑問の答えに他ならなかった。


 焔獄鬼が刀と爪を構え直した時、黒ずくめも応戦の構えを取る。


 謎が解ければ、黒ずくめの動きのぎこちなさが如実に分かる。


「観念しろ。その器はもはや使い物にならぬぞ」


 威嚇するように焔獄鬼が吐き捨てれば、刀の禍々しい光が濃さを増す。


 そう、あの刀こそが。

 世を騒がす辻斬りの、本当の正体。


 それが分かれば、後はやるべき事は決まっている。


 焔獄鬼は一気に勝敗を決するべく、地を蹴り黒ずくめとの距離を詰める。


 しかし。


「!」


 黒ずくめは突然、踵を返して宿の中へと駆け出した。


「っ、しまった!」


 奴の狙いが何か。考えるまでもない。

 まだ宿の中には二人の人間と――焔獄鬼の主君が、いる。


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