誓い
淡い月明かりに照らされて、産まれたばかりの小さな命は、父の腕の中で安らかに、静かに、眠っていた。
「来てくれたんだな、焔獄鬼」
「式まで寄越して、来いとせがんだのは貴様であろう」
赤子の父は嬉しそうに眼前の友に笑い掛ける。
友は呆れたような口調だったが、自分に合わせて小さな声で応じてくれることに、赤子の父は益々機嫌を良くした。
ずしん、と重い地鳴りが二度、響いた。
赤子の父の友が月明かりの下に姿を現したのだ。
焔獄鬼、と呼ばれたそれは――鬼と呼ばれる妖の最高位の種族だった。
「それが……貴様の子か、聖」
焔獄鬼は少し屈んで、男の腕に抱かれた赤子を控えめに覗き込む。
聖。それが、鬼を友と呼ぶ、“人間”の男の名だった。
「ああ。名前ももう決めてある。妻の……神夜の名前から一字貰って、神楽。どうだ? 良い名前だろ?」
にっこり笑う聖に、焔獄鬼は若干返答に困った。
それが良い名前かどうかなど分からなかった。そもそも悪い名前を付けるわけもないだろうし。
けれど、間近に鬼が居るというこの状況下にあって、父の腕の中で起きる気配もなくすやすや眠る赤子の顔を見ていたら。
「……そうだな」
不思議と、自然と言葉が出た。
「とても、良い名だ」
その後聖は興奮気味に娘の将来の願望を熱く語った。
きっと女房に似て美人に育つだろう、とか、女房と一緒で気立ての優しい女に育つに違いない、とか。
――自分の血を引くせいで、苦労する事もあるかもしれないけれど、と少しだけ淋し気に呟きもした。
「なあ焔獄鬼。お前、この子が大きくなったらこの村に来ないか?」
「なに……?」
「俺と同じように人の世に紛れて、人の姿で。人として、生きてみないか?」
流石にこれには眉を顰めそうになった。
が、聖の目は何処までも真剣で。
「この子が大きくなって、もし、その時この子に好きな人も恋仲にある男もいなかったら。この子と祝言を挙げて夫婦になってくれないか?」
阿呆か、と咄嗟に言い掛けて。でも、その言葉は喉に引っ掛かって出て来なかった。
いくら何でも気が早過ぎる上に、いくら何でもとんでもなさ過ぎる。
人間として生きて死ぬことを願う男は、同じように娘を人間として育てるつもりなのだろう。
なのにそこに、鬼の自分を召喚して人間の姿に化けて嫁にさせたい、などと。
頭は大丈夫かと心配になった。
「お前……自分の娘を鬼の生贄にするつもりか……?」
呆れ果てて漸く絞り出した一言がそれだった。
すると聖はあからさまにぶすくれた表情になって、「あのな。俺は至って真面目に言ってんだぞ」と少々声を荒げた。
「まあ……人間の姿になって夫婦になれっていうのは確かに飛躍し過ぎかもしれないけどさ。でも俺は――本当にそうなったらいいなって結構本気で思ってるんだ」
「……無理に決まっておろう。百歩譲って我が承諾したとしても、お前の娘が嫌がるに決まっておる」
「そうかなぁ。お前という人柄に触れてれば、嫌とは言わないと思うんだけど」
言いながら聖は、少しだけ神楽を焔獄鬼によく見えるよう掲げた。
「……人の姿になるのが嫌なら、鬼の姿のままでもいい。祝言の話も、まあ欲を言えば実現してほしいけど、そこも無理は言わない。けどもし、お前が俺や神楽の側で生きるのも悪くないと少しでも思ってくれるなら、考えてみてくれないか?」
無理だ、と即答出来なかった。
無理。そう、単純に考えて、無理に決まっている。
この男が生きるのは人の世であり、彼の腕に抱かれて眠る娘がこれから生きるのもまた、人の世で。
だが自分が生きているのは、妖の世。
どれ程他の妖や鬼と“中身”が違っても、住む世界が、住める世界が違うという事実は、どうやっても覆らない。
ましてや、祝言を挙げて夫婦に、など。
そう、思うのに。
だけど焔獄鬼はこの時、思ってしまった。
思って、しまった、のだ。
どんな形であっても。たとえ、言葉を交わすことも、自分という存在をこの娘に認識してもらうことがなくても。
友を。この娘を。永劫、守る役目を担えるのなら、と。
――その願いが、誰も予想すらしていなかった形で叶うことになるなんて、この時の焔獄鬼は夢にも思わなかった。