追いかけっこは夕暮れまで ~前編~
「追いかけっこは夕暮れまで」 ~前編~
右京之介
テレビのリモコンを持った小学校四年生のウサギの手が微かに震えはじめた。芸能人のクイズコーナーが終わったと思ったら、いきなりオカルトのコーナーに変わったからだ。
しかも映し出された光景は、ウサギもよく知っている近所のトンネルだった。
(このトンネル内で……出たわけです)
何度も通ったことがあるトンネルだったが、やけに不気味に映っている。確かオレンジ色のライトがきれいで、ちゃんと整備されているトンネルのはずなのに、薄暗くて、不気味で、いかにも何かが出てきそうな雰囲気だった。
「うえっ。メッチャ怖そうやんか」
ウサギはオカルトが大嫌いだった。テレビで心霊写真を見たり、恐怖体験を聞いたりすると、怖くて一人でトイレに行けなくなって、夜中にお母さんを起こしたことが何度もあった。だったらテレビを消すか、チャンネルを変えればいいのだが、怖いもの見たさで、つい見てしまう。
生まれ育った京都にもいくつかのミステリーゾーンがあった。しかし、引っ越してきたこの地域にもあったことを知って、ウサギはとても憂鬱な気分になった。
この家からそう遠くない場所に、そんなものあってほしくない。
「何が出たんやろ。幽霊かなあ、お化けかなあ」
(幽霊が出たのです!)
「うえっ。幽霊か。男の人の幽霊かなあ。女の人の幽霊かなあ」
(髪が長い女の人の幽霊です!)
「うえっ。やっぱりそうや。だいたい幽霊というのは女の人や。ほんで、決まって黒いロン毛や。茶髪のショートヘアはおらへん」
(では、その再現シーンをVTRにまとめてありますので、どうぞ!)
「うえっ。急にどうぞって言われても困んねん。心の準備というもんが必要やろ」
ウサギはリモコンを持ったまま中腰になって、あわてて周りを見渡した。何かがいたら、すぐに逃げ出す構えだ。
シンと静まり返った部屋の中。
こんなときに限って、家の中には誰もおらへん。お母さんは近所の人の家に出かけてるし、お父さんはまだ仕事やし、お友達は遊びに来そうにないし、スマホも鳴りそうにないし、雑種犬のデュークは庭でお昼寝中やし。――1人ぽっちや。
テレビから気味の悪い音楽が流れ出し、画面に突然大きな赤い文字で “発見! ミステリーゾーン。あなたはこの恐怖に耐えられるか?” というタイトルが現われた。
「ちょっと、待って、待って。うえっ。始まるやんか」
(八月下旬の土曜日。それは雨が激しい夜のことだった。ドライブを楽しんでいたヒロシとメグミが……)
「そうや。だいたい幽霊の被害に遭うのはカップルなんや。買い物袋をぶら下げたオバハンは出てきいひん」
(このトンネルに差し掛かったとき、なぜか、カーラジオの音が途切れた。そして、突然、異様なうめき声とともに、フロントガラスに女の人の顔が……)
ジャーン!
「わっ、出たー!」
ウサギはあわててリモコンを床に落とした。
そのショックで、テレビのチャンネルが変わった。
(ご覧ください。きれいな菜の花畑が広がっています)
「ああ、びっくりした」
ウサギは一メートルくらい先に飛んで行ったリモコンを拾いながら、また部屋の中を見渡した。今の幽霊がテレビを抜けて、こっちに来ているような気がしたからだ。
大丈夫みたいやな。貞子やないしな。
「ああ、怖かった。でも、どうなったんやろ」
ウサギは気になって、恐る恐る先ほどのチャンネルに戻してみた。
ゲームのCMをやっていた。
「なんや、コマーシャルで引っぱりよったか。菜の花がきれいやったから、さっきの番組を見よ」
テレビの画面いっぱいに菜の花が写っている。その周りには桜の木も植わっていて満開だ。
「わあ、きれいやなあ。真っ黄色と真っピンクやんか。やっぱり、こんなきれいな風景を見なアカンな。変なオカルトばっかり見てたら、心も汚くなってしまうわ。こんなきれいな顔に汚い心は似合わへんわ」
顔……?
「そうや、顔を見てこよ」
ウサギはリモコンを持ったまま、洗面所に走って行って、鏡に自分の顔を映してみた。
小学校四年生になってから、よく鏡を見るようになった。クラスメイトとの話題も、おしゃれやファッションのことが多くなってきた。みんなで他の子が着ている服をチェックしたり、女性芸能人のセンスを評価したりしていた。中には、お母さんに薄いお化粧をしてもらって、学校に来ている子もいた。
まあ、それは本人の希望やからね。よう見んと分からんくらいの薄さやし、それはエエねん。でも、男子で茶髪にして、後ろのすその毛だけ伸ばしてる子がおんねん。絶対、その子の親が強制してると思うわ。一回だけ、その子のお母さんを見たことがあるけど、思いっきりヤンママやったわ。
ウサギの顔は無事だった。
さっきの幽霊みたいな顔色になってたらどうしようかと思ってたけど、いつもの顔やったわ。
「一応、洗っとこかな」
ウサギは変な霊が憑いていたら大変なので、ジャブジャブと顔を洗うと、またテレビのある部屋に戻った。
「もう、オカルト番組を見るのはやめとこ。夢に出そうや。また夜中にお母さんを起こさなアカンし」
テレビには菜の花に変わって、馬の映像が流れていた。馬の赤ちゃんが生まれたらしい。子馬がおぼつかない足で母馬と並んで歩いていて、子馬の名前を募集中というテロップが流れていた。
「うーん。子馬の名前か。――馬子でどうや? そのまんまやな。アカンか。こんなダサいネーミングやったら、ぜったい没やろな」
馬がいる牧場のバックには、なだらかできれいな山がそびえていた。
空風山という名の山だ。
馬の親子につづいて、お年寄りの団体が山の頂上に到着したシーンが流れてきた。二十人ほどの人たちがバンザイ三唱を繰り返している。地元のボランティアが行っている頂上までの登山ツアーがあるらしい。大きな山だが、登山道が整備されていて、お年寄りでも一時間あれば頂上までたどり着けるという。
(いやあ、わしらのような年寄りでも登れましたわ)
(ほんに楽勝、楽勝!)
若い女性レポーターがマイクを向けると、首に手ぬぐいを巻いたおじいさんと、白い帽子をかぶったおばあさんがうれしそうに答えていた。
そしてその後ろを、リュックサックを背負った、青白い顔でメガネをかけた青年が通り過ぎて行った。
つづいて、その頂上から見える景色が映し出された。
かすかにかかった霧の向こうに蛇行する川が見える。その川を大きな森が取り囲んでいる。
(ご覧ください。このすばらしい景色!)
女性レポーターが大げさに紹介を始めた。
この森にはたくさんの動物たちが住んでいるそうです。さて、どんな動物か分かりますか? ヒントは川辺に住むかわいい動物ですよ。動物たちの紹介は、来週のこの時間にお届けしますのでお楽しみに。ではつづいて……。
そのとき――。
何かが弾ける音がした。
お年寄りたちの悲鳴が上がる。
テレビの画面がブレて、大きな森から、あわてている女性レポーターの姿に切り替わった。
(えっ、何でしょうか。この音は――)
そろそろテレビを消そうかと思っていたウサギの手が止まった。
「何やろ?」
ずり落ちたイヤホンをはめ直した女性レポーターが叫んだ。
(上空をご覧ください! 花火が上がってます! 誰かが打ち上げ花火を上げたようです)
レポーターが話す間も、大きな音とともに何発もの花火が上がって、空に色とりどりの花を咲かせている。
ウサギは急いでテレビに近づいて、食い入るように画面を見つめた。
「うわっ、めっちゃ、きれいやんか! 花火大会で見る花火よりだいぶ小さいけど、昼間でもこんなに花火がきれいとは思わへんかったわ。近くで映してるから、大きくて、よう見える。たぶん、誰かが頂上に着いた記念に上げはったんやろなあ」
レポーターが花火の音に負けないように大声で叫んだ。
(ああ、あそこです。あの木の横から上がってます!)
カメラが、頂上に一本だけ生えている小さな木を映し出した。その幹の横に打ち上げ花火が、まるで植物が群生するかのように何本も立っており、空に向かって、つぎつぎに小さな火の玉を発射していた。導火線の長さが調節してあり、時間差で飛び出す仕組みになっているようだ。
(これは……、ちょっと……、危険です。こんなところで花火を上げては……)
お年寄りが逃げ惑う姿が映し出された。先ほど、インタビューに答えていたおじいさんも、辺りを見渡しながら、おばあさんを連れて、みんなが集まっている大きな岩の横へ足早に避難していた。
そんな姿とは対照的に、空一面に赤、青、緑ときれいな花火が開いていく。
そのとき、一台のヘリコプターが近づいてきた。
(ヘリコプターです! あれはたぶん遊覧用のヘリです。確か、空風山の上空が遊覧コースになっていたはずです)
ヘリコプターは打ち上げ花火を確認したらしく、あわてて右へ急旋回を始めた。花火が上がっているのは二十メートルほど上空で、ヘリコプターはさらに上を飛んでいるため、当たることはないのだが、万一に備えてコースを変更したようだ。
(どうやら、ヘリコプターは無事に避難したようです。――ああ、今度は何か降ってきました。パラシュートです。おそらく花火の中に仕掛けられていたのでしょう。小さなパラシュートが二十個、いや三十個、どんどん降下してきます! ――あれは? 何かがぶら下がってます。ああ、サルです。サルのぬいぐるみがパラシュートで降りてきます!)
やがて、すべての花火が上がって、あたりが白煙で包まれた。
気を取り直した女性レポーターが、まだ緊張の表情でカメラに向かって話し出した。
(えー、誰かがあそこに花火を仕掛けたようです。こんなことは絶対にやってはいけません。この辺りはご覧の通り、風が強く吹いてます。山火事になったら大変なことになります)
四、五人のお年寄りが恐る恐る花火の設置場所に近づいて行って、持ち寄った水筒の水をかけ始めた。それを見た他の登山者たちも、近くに落下したパラシュートに水をかけだした。サルのぬいぐるみも水浸しになっていた。
打ち上げられた花火は、専門の花火師が作るような大きな打ち上げ花火ではなく、その辺のおもちゃ屋で手軽に手に入る市販の打ち上げ花火だった。
まだ風に吹かれて二、三のパラシュートが空に漂っている。
白煙にまみれている彼らを横目に見ながら、先ほどのリュックサックを背負ったメガネの青年が山を下って行ったが、すれ違うとき、彼がニタッと笑ったことに誰も気づかなかった。
リモコンをテーブルの上に置いて、すっかりテレビに見入ってしまったウサギ。
「すごかったなあ。でもこれって、ヤラセやないみたいやなあ。女の人の顔、引きつってるし。ホンマ火事になったら大変やしなあ。誰か知らんけど、アホなことをする人がおるもんやなあ。――それにしても、周りに桜の木があるきれいな菜の花畑と、子馬がいる牧場と、見晴らしが良い山か。エエとこやな」
ウサギはこの地に引っ越してきたばかりなので、まだまだ知らない場所がたくさんあった。クラスのお友達がいろいろな楽しい場所を教えてくれたが、ここはまだ知らなかった。
「三つとも行ってみたいなあ。家から近いみたいやし、今度、お父さんとお母さんに連れて行ってもらお」
誰もいない部屋で独り言を言うウサギだったが、いずれ、あのメガネの青年と運命を共にすることになる。
その公園は“青い車公園”と呼ばれていた。真ん中に誰が置いたのか、青くて四角いワゴン車が止まっていたからだ。公園の正式名称は別にあるのだろうが誰も知らない。その車がいつから置かれているのか、持ち主は誰なのか知っている者もいない。後ろが少しヘコんだ旧式のその車は、いつの間にか現れて、まるでこの公園の主のように、一番日当たりのいい場所に鎮座していて、ホームレスが集まるその公園の中では一番の古株になっていた。
持ち主が邪魔になって捨てるにしても、こんな所には置いていかないだろう。いったい、何のためにここに置かれたのかは分からない。しかし、警察が調べに来る気配はなさそうなので、事故車や盗難車ではないのだろう。
ドアは開くので、中に入ることはできる。だが誰も入ろうとはしない。公園の主に遠慮をしているのか、入ればタタリでもあると思っているのか、みんなはそれぞれのダンボールハウスの中で生活をしている。しかし、青いワゴン車の中に誰かが入ったからといっても、咎められることはない。
事実、過去に何人ものホームレスがここに泊まっては、またどこかへ旅立って行った。
そして、一週間ほど前から、どこからか流れてきた一人の老人が青いワゴン車に住みついていた。
最初に中年男の目を引いたのは、木のふもとに座っている一人の若者だった。
公園の真ん中にある青いワゴン車も目に入ったが、車などはどこにでもある。それよりも、イチョウの木の下でノート型パソコンを開いているホームレスは滅多にお目にかかれない。しかも、身なりが良く、どう見ても学生にしか見えない。授業をさぼって、ここで息抜きでもしているのだろうか。しかし、ここにはたくさんのホームレスが住み着いていて、近所の人たちでさえ入らない。
あそこはホームレスのための公園だと聞いてやって来た。
だからやはり、あいつはホームレスなのだろう。
大きなカラスが飛んできて、若者がもたれているイチョウの木の枝に止まった。
中年男は若いホームレスから目を離すと、公園内をぐるりと見渡して、目的の男を捜し始めた。
平日の昼間のホームレス公園。この辺りでは見たことがない四十過ぎの中年男がジーンズ姿でウロウロしていると、怪しまれてもよさそうなものだが、ホームレスの連中はこちらが好奇の目を向けても、何の反応も示さない。
しかし、この中にいるはずだ。
“爺ッ様”――そう呼ばれているからには年寄りなのだろう。
中年男が青いワゴン車の横を通りかかったとき、開けっ放しになっているスライドドアの中がガサリと動いた。誰も乗ってないと思っていた車から音がした。驚いた男は立ち止まって中を覗き込んだ。
一人の老人と目が合った。
――こいつか。
中年男は青いワゴン車の天井に片手を置いて訊いた。
「あんたが爺ッ様かね?」
二列目の座席が後ろ向きになっていて、三列目と向かい合うようになっていた。
三列目にあぐらをかいて座っていた老人が何も言わずに、二列目のソファーを指差した。
中年男はワゴン車に乗り込み、ソファーに座ると、目の前にいる紺色の作務衣を着た小柄な老人に言った。
「爺ッ様よ、俺に人を斡旋してもらいたい」
老人の年齢は分からない。たくさんのシワに覆われたその顔は七十歳代にも見えるし、八十歳代にも見える。目は薄っすらと開いている。少なくなった髪の大半は白い。痩せこけた手をお腹の辺りで組んでいた。
中年男はつづけた。
「必要なのは爆破のプロと車の運転のプロだ」
老人はゆっくりと口を開いた。その口に歯はほとんど残ってなかった。
「ほう、銀行強盗でもやらかすのかね?」
「なぜ分かる?」
「他に何がある? 銀行内で、人を殺傷しない程度の爆弾を破裂させて、その隙に金を奪い、パトカーを振り切って逃げる。――そうじゃろ」
「――さすがだな」
老人に図星を指されたこの中年男は、車より高い物しか盗まないことをポリシーにしている泥棒だった。
銀行強盗を企てていた中年男は仲間を集めるべく、得体の知れない奴らとの接触を始めた。といっても、やたらと嗅ぎ回る訳にはいかない。
いつ、どこで、この計画が漏れてしまうか分からないからだ。
中年男は仕事仲間を信用していない。人間というものは大金が絡むと人格が変わってしまうことを知っているからだ。だから、仕事をするたびにメンバーを変えて、新しくチームを組む。お互い素性も連絡先も知らない同士だ。仕事が終わったら、チームは解散して、二度と会うこともない。
中年男はそんな後腐れのない一度限りのメンバーを探していた。
ある日、ふと立ち寄った飲み屋のカウンターの隣に座った自称スリ専門の男から、この公園の存在を聞かされた。
いや、ふと立ち寄ったわけではない。長年の勘から、確かな情報が集まる場所というのが、分かるようになっていたのだ。どこの土地でも裏稼業の情報が集まる場所がある。それは、その街の匂いで分かっていた。
スリ専門男は謝礼の一万円札をズボンの後ろポケットに突っ込みながら言った。
敷地のド真ん中に青いワゴン車が置いてある公園に、爺ッ様と呼ばれてる奴が住み着いている。そいつが闇の派遣業をしている。そいつに頼めば、希望の人材を紹介してくれるはずだ。心配はするな。爺ッ様の口は堅い。ただし料金は高い。
「頼まれてくれるのか?」
中年男は完全に青いワゴン車の老人を信用していない。だから半信半疑で尋ねる。
「それが仕事じゃからな」老人は当然のように言い放つ。「明日の午後二時、グランドスーパーの駐車場の真ん中で待っておけ。そこに、あんたが捜している人物に打って付けの男を二人寄こす」
「ちょっと待て。待ち合わせ場所がなんでスーパーの駐車場の真ん中なんだ」
「最近はあんたみたいな泥棒が増えて物騒でな」そう言って、老人は歯のない口でニタッと笑った。「あちこちに防犯カメラが設置されておる。そのスーパーにもある。しかしな、あの大きな駐車場のド真ん中にまで映らん。映っても、米粒くらいの大きさで、人相までは分からんというわけじゃ」
「分かった。それで、料金はいくらだ?」
老人はまたニタッと笑って、男に向けてシワだらけの小さな右手を広げた。
「現金一括前払いじゃ」
午後二時。
巨大スーパーの駐車場をひっきりなしに車が行き交う。ここは地方都市なので、車は必需品だ。一家に二台は所有しているらしい。
それにしても大変な混雑だ。きっと何かの安売りでもしているのだろう。この季節だから、決算セールかもしれない。念のために防犯カメラをチェックしたが、あの老人が言った通り、ド真ん中は死角になっていた。
カメラは駐車場の周辺に五台あったが、旧式の錆び付いたようなカメラだった。ちゃんと作動しているのかどうかも怪しい。
車より高い物しか盗まないことをポリシーにしている泥棒男は、昨日盗んできた車にもたれて、腕を組んだまま、目に前に立っている二人の男を睨みつけていた。
一人は痩せて青白い顔をしたメガネの青年。
もう一人は対照的に太った中年。
青年の名前はコヤギ。中年の名前はサイといった。
年齢を訊くと、それぞれ二十九歳と三十六歳だという。
騒々しい車の音に混じって、泥棒男がガムをクチャクチャ噛む音がする。
男は青白い青年に向かって訊いた。
「コヤギくんよ。もう一度尋ねるが、火薬の調合なんかは無理なんだな」
コヤギは男の目を見ないまま、小さな声で答えた。
「はあ、すいません」
「だったら、時限爆弾の製作なんか到底できないんだな」
「はあ、すいません」
男は自分を落ち着かせるように、首を一度グルリと回して言った。
「まったく、どういうことだよ。俺は爆破のプロを頼んだんだぜ。自衛隊の爆破物処理班にいるようなプロをよお。なのに、なんで花火を持った奴が来るんだよ」
「はあ、実は子供の頃、花火をやっていて、家が火事になりまして、それ以来、花火を禁止されてしまったのです。それから親に隠れて、花火をする毎日がつづいて、大人になってからはこうしていつも花火を持ち歩いてはあちこちに出没して、ドカンと打ち上げる日々を送ってまして……」
「待てよ、誰がお前の自分史を語れと言った」
「はあ、しかし花火は人生の縮図でして……」
コヤギはかついでいたリュックサックを下ろすと、中から一つの花火を取り出して、語り出した。
「たとえば、これを見てください。ドラゴン花火です。これに火を付けると……」
そう言って、コヤギはライターを取り出してた。
「バカか! こんなところで花火なんかやるな」
「はあ。でも、このドラゴン花火に火を付けますと、最初は勢いよく火花が舞い上がるのですが、しだいに小さくなって、最後は、なんというか、人生の終焉というか……。精一杯生きて……、 燃え尽きて……、 まったく悔いは無い… 素晴らしい人生だったという主張が聞こえてくるんですよ。つづいて、このナイアガラという花火ですが……」
「もういい、分かった。だから、コヤギくんは花火を楽しむだけで、爆弾なんかは扱えないわけだな?」
「はあ、そんな危ないことはできません」
コヤギは青白い顔を上気させて、そう言い切った。
男は組んでいた腕をほどいて、もう一人の男サイの方を見た。
「――で、サイさんは車を持ってないと」
「はい、そうです! ハックション!」
サイは真ん丸い顔をほころばせて、元気に答えた。
そして、三十年前からの花粉症なんですよと自慢げに付け足した。
男はコヤギよりも年上の三十六歳のサイに向かって、さん付けで呼んであげたが、たちまち後悔した。
「あのなあ。俺は車の運転のプロを頼んだんだぜ。F1レーサー崩れみたいな」
「あっ、でも私はF1には自信がありますよ。優勝回数一位はルイス・ハミルトンで、二位はミハエル・シューマッハで、三位はセバスチャン・ベッテルで、四位はアラン・プロストで、五位は我らがアイルトン・セナで……」
「もういい! 誰が優勝順位を語れと言った。俺が言いたいのはF1レーサーを目指してた奴がなんでペーパードライバーなのかということだ」
「はい。F1レーサーを目指していたことは本当なんです。でも免許を取ったのはいいのですが、家が貧乏だったので、車が買えなかったのです」
「あのなあ。F1というのは金がかかるんだろうが。貧乏で車も買えないF1レーサー志願者なんて、どこ探してもいねえぞ。しかも貧乏にしては、何を喰ってるのか、太りすぎてるし、そんなデブだったら、F1マシンの座席に収まらないだろ」
泥棒男が怒っても、サイは何事もないような顔つきをしている。
「ところでお前、ほんとうに車の免許は持ってるのだろうな?」
「はい!」
サイは元気に返事をして、ズボンのポケットから免許証を取り出した。
「なんだ、これは?」
「はい、ゴールド免許です! 全然違反をしてないんです」
「バカか! ペーパードライバーだから違反しようにもできないんだろうが。俺が言ってるのはそのことじゃなくて、F1レーサーを目指してる奴の免許が、なんでオートマ限定なんだよ」
「はい。それは家が貧乏だったので……」
「それはさっき聞いた」
「それで免許を取るのに教習所のパンフレットを見たら……」
「オートマ限定コースの方が安かったというわけか」
「はい!」
「元気に返事するんじゃない!」
「でも、いつかお金持ちを見返してやろうと、闇の派遣に登録したのです。実践経験は少ないですが、運転には自信があります」
「どうせ、F1のテレビとかビデオを見て研究してるんだろ」
「はい!」
「うるさい!」
男は何とか自分を落ち着かせようと、何度も首を回しているうちに、気持ち悪くなってきて、噛んでるガムを吐き出しそうになった。
「オエッ。――あのなあ。ビデオを見て運転がうまくなるんだったら、教習所なんかいらんだろうが。まあ、三十六歳になっても夢をあきらめないというのは立派だがな。――ところで、コヤギくんとサイさんよ。俺はおまえたちにいくら払ってると思ってるんだ? 五万円だぜ。二人じゃなくて、一人五万円だ」
コヤギが当然という顔をして言った。
「はあ。それじゃ、ボッタクリですね」
「そのとおりだ。分かってるじゃねえか。いいか、二人ともよく聞け。よくドラマとか映画で銀行強盗の話をやってるだろ。いろんな特殊能力を持った奴らが、チームを組んで銀行を襲うんだよ。俺はそれをやりたかったんだよ。オーシャンズ11なんか、格好いいじゃねえか。犯罪者のアベンジャーズなんか素敵じゃねえか。それで、爆破のプロと運転のプロを依頼したら、なんだお前ら、やって来たのは青白い花火オタクとデブのF1オタクかよ」
「はあ。でも、現実はこんなものですよ」
「お前が言うんじゃねえ、青びょうたんメガネ」
「でも、ボクはオタクじゃなくて、花火には人生の縮図が……」
「それはさっきプレゼンを受けたわ。それよりか、コヤギ。俺たちは銀行強盗をやるんだ。言ってみれば凶悪犯罪だ。銀行員を脅して、金を奪い取るんだ。人質を取るかもしれん。警察と銃撃戦になるかもしれん。人が死ぬかもしれん。俺たちに極悪人のレッテルを貼られるかもしれん」
「はあ、そうですねえ。極悪人になりますねえ。でも、ボクは一度極悪人になってみたかったんですよ。二十九年間、ずっと良い人だと言われてたもので、悪い人に憧れてるんですよ。だから闇の派遣に登録しておいたのです。――もう、ボク、がんばりますよ!」
コヤギはそう言って貧相なコブシを突き上げた。
「あのなあ、俺が言いたいのは、そういうことじゃねえ。さっきから気になってしょうがない、お前の声だ」
「えっ、ボクは生まれつきこの声ですが」
「じゃなくて。なんで三十近いオッサンがアニメ声なんだよ。アニメ声の極悪人なんかいるわけないだろ」
「でも……」
黙り込んだコヤギを見て、サイが声をかけた。
「その声、なかなか愛嬌があっていいですよ」
「そうですか。ありがとうございます。ボク、サイさんとはうまくやっていけそうです。あっ、アニキともうまくやります」
二人のやり取りを見て、今度はアニキと呼ばれた男が黙り込んでしまった。
(あの爺ッ様の野郎、ロクでもない奴らを紹介しやがって。泥棒相手に詐欺かよ。覚えてやがれ。明日、とっちめてやるからな)
そんなアニキを見て、サイが訊いた。
「あのう、アニキ。さっき特殊能力を持った強盗とおっしゃいましたが、アニキは何かすごい能力を秘めておられるのですか?」
「おう。自己紹介をするのを忘れていたが、俺の名前はカジキだ。車より高い物しか盗まないことをポリシーにしている泥棒よ。業界ではちっとばかし有名だ」
そう言って、カジキはもたれている車のボディを手でコンコンと叩いた。
「これはカジキのアニキが盗んだ物ですか?」
「ああ、そうよ。これに乗って銀行から逃げるわけよ。すると、警察が追いかけてくるだろ。そこでだ。F1レーサーにこいつの運転をしてもらって、奴らを振り切ってもらうと、そういう計画だったんだ。なのによ、まったく……」
カジキはサイを睨みつけたが、相変わらず、サイは太った体の上に平気な顔を乗せている。
コヤギが車をしげしげと見て、カジキにアニメ声で訊いた。
「アニキ、この車、おかしくないですか? もっと違うのはなかったのですか?」
「あのなあ。これだから素人は困るんだよ。よく聞け。車を盗むときはドアの鍵を開けて、エンジンをスタートさせてと、二つのことをやらなきゃならないんだよ。ところが、これはどうだ。ドアを開けなくてもいいから、一つで済むだろうが」
「はあ。でも、銀行強盗をするときに、真っ赤なオープンカーというのは目立つと思うんですが」
「バカか! これはキーが刺さったままで置いてあった上物だぞ。盗むときにどれだけ楽チンだったか。それにな、逃げるときにも、いちいちドアを開けなくても、こうやって、ピョーンとジャンプして運転席に飛び込むと……」
ワーッ!
ドテッ!
「アニキ、大丈夫ですか!」
「あ、足が引っかかっちゃったぜ」
運転席に顔を突っ込んでいるカジキを、サイとコヤギが二人がかりで助け出した。
むこうずねを押えながら、カジキが地面に戻ってきた。噛んでいたガムは大丈夫そうで、またクチャクチャと噛み始める。
「コヤギがこの車は目立つと言ったな。そんなことは分かってる。後部座席を見てみな」
そこにはブルーシートが畳んで置いてあった。
「まさか、アニキ。これを頭からかぶるんじゃ…」
「おう、コヤギよ、そのまさかだぜ」
カジキはブルーシートをバサバサと広げた。
「こうやってかぶると、体を隠せるだろ」
「はい! でも前が見えませんが」
「おう、サイよ、いい所に気づいたな。そう思って、ほら、ここに穴が開けてあるんだ。ここからこうやって、頭を出すというわけよ」
「なんだか散髪屋の客みたいですねえ」
「つべこべ言うんじゃねえ。これを盗むのは大変だったんだぞ。工事やってる奴らが弁当喰ってる隙にすかさず頂戴したというわけよ」
カジキは得意げに語ったが、コヤギは穴を覗き込みながらつぶやいた。
「アニキは車より高い物しか盗まなかったんじゃ……」
「何か言ったか、アニメ声!」
「い、いえ。さすがアニキ、グッドアイデアですねえ」
「ふん。驚くのはまだ早いぜ。まだ他にもグッドアイデアがあるんだ」
「えっ、もういいですよ」
「何か言ったか、アニメ声!」
「いえ、ぜひ聞かせてください」
「これよ」
カジキはそう言って、さっきから噛んでいたグリーンガムを口から取り出した。
「これをだな。こうやって伸ばして、ナンバープレートにくっつけると……」
「わあ、すごい。0が8になった」
「簡単にできるナンバーの偽造よ」
サイが車から離れて眺めている。
「この辺から見ると全然分かりませんよ、さすがアニキです!」
二人におだてられているカジキであったが、本当にコイツらと仕事をやっていいものかと悩んでいた。
お金持ちを見返すために強盗をするか?――ちゃんと働けよ。
極悪人にあこがれて、強盗をするか?――良い人のままで、いいじゃねえか。
強盗の動機があまりにも不純じゃねえか。
俺たち強盗を舐めてるとしか言いようがねえぜ。
目の前ではコヤギがアニキとのお近づきの印に一発上げたいと、またリュックサックから花火を取り出したので、あわててサイが羽交い絞めをして、止めていた。
こんな所で花火が上がると、いくら性能が悪い防犯カメラでも気づかれてしまうし、ガードマンがたちまち駆けつけて、大騒ぎになるに違いない。
コヤギが落ち着いたと思ったら、今度は花粉症のサイが大きなくしゃみを連発し始めた。行き交う人たちが何事かと振り返る。まさか、くしゃみで通報はされないだろうが。
それにしても、爺ッ様に払った人材派遣料十万円はデカイ。
こいつらバカ二人にはデカすぎる。
カジキには儀式と呼んでいるものがあった。それは仕事をするときに必要な道具の中の一つと、仕事の最後に使用する筆ペンを毎月一回新調するというものだった。儀式と呼ぶほどのものではないが、そう呼ぶことで自分の仕事を神聖なものと思い込むようにしていた。
もちろん、使い慣れた道具で仕事をした方がいいのだが、どれか一つを新品にすることで、心機一転がんばれそうな気がしたし、以前新しい道具でいい仕事ができたこともあって、ゲンを担ぐという意味でも、毎月この儀式をつづけていた。
カジキは古くなった十字ドライバーを買うことにして、薄手のジャンパー姿で街の金物屋に入った。大きなホームセンターと違って、個人経営の店なら、防犯ビデオも設置されてないことが多く、たいがいの道具はこういった小さな店で手に入れている。
もちろん、万引きなどというセコイことはしない。原則として、車より高いものしか狙わないというのがポリシーだ。ときとして、緊急で安いものも頂戴することはあるが、商売道具となると別だ。これだけは自分の金で買うことにしている。
人様から盗んだ道具で、さらに盗みを働くなんて、泥棒の隅にも置けない不逞な野郎だからだ。
自称泥棒にもプライドというものがある。
「はい、ありがとうございます。合計で五百二十五円になります」
店番をしていたおばあさんがドライバーと筆ペンを小さなビニール袋に入れながら言った。
カジキはジャンパーの右のポケットから、一円玉の棒を取り出して、カウンターの上にゴロリと置いた。
「ばあさん、悪いけど、これでいいかな。封は切ってねえから」
一円玉がビニールで五十枚包まれている棒――五十円分を十本並べた。
「はい、けっこうですよ。両替に行く手間が省けて、助かります」
そう言って、おばあさんは笑った。
カジキは残りの二十五円も一円玉で払った。
「はい。五百二十五円、ちょうどいただきます」
「それと、領収書くれるかな。名前は上様でいいから」
「はい、かしこまりました」
おばあさんは几帳面な文字で領収書を切りながら言った。
「これ、五百円のお買い上げごとに差し上げている抽選券です。今、商店街の抽選会をやっておりまして、ここを出て左に曲がったところに商店街のテントが張ってありますから、そこでガラガラって、やってください。いい物が当たるかもしれませんよ」
カジキは領収書とオレンジ色の抽選券を受け取って、店を出ようとしたが、入り口に貼ってあるポスターに目が行った。ポスターには“緑の旅団、募集中”と書いてあり、その下に山の周りを緑色の渦が囲んでいる絵が載っていた。
ドライバーと筆ペンを買っただけなのに、おばあさんは丁寧にも見送りに出てきていた。
「ああ、このポスターですか。ほら、あの山を見てください」
そこには、木が半分ほどしか植わってない山がそびえていた。
「緑に覆われたきれいな山だったのですが、業者に伐採されて、あのとおりのハゲ山になりまして。それで、以前のような緑を取り戻そうと、車でデモ行進を行うようなんです」
「それで、ばあさんもそのデモに参加するわけかい?」
「いえいえ。歩いて参加するのでしたら行きますけど、そうじゃありませんので。それに、この年では無理でしょうし。一週間ほど前に、そのデモの主催者が来られて、ここにポスターを貼ってくれたら、お花の種を三袋あげると言われまして、このように貼ってあるわけです」
「デモは明日だな」
「はい、そうです。ですから、明日店を閉めるときには、剥がしてもいいと言われてます」
「そうか。じゃ、ありがとよ」
まあ、いろんなことを企んでる奴がいるもんだぜ。車のデモなんか一円にもならんのにな。
カジキはさっきもらった抽選券をながめた。
こういった抽選に当たったためしがないので、いつもは捨ててしまうが、たまたま青い車公園が店を出て左の方向にあるので、ちょっと寄ってみることにした。
銀行強盗という一世一代の大勝負を控えているので、運だめしも兼ねて、やってみるか。いい物が当たれば、今回の仕事もうまくいくかもしれないしな。
最近の警察はうるさい。ドライバーなどを意味なく所持しているだけで捕まってしまう。カジキは大仕事を前にして、神経質になっていたが、こうやって封を切ってない新品を袋に入れて歩いている分は大丈夫だろう。しかも領収書をもらう泥棒もいないだろう。それでも、周囲に気を配って歩いていると、顔にバサッと何かが被さった。
「ワッ! 何だよ、これは」
よく見ると、薬局のノボリだった。見上げると、薬の宣伝用の黄色いノボリがユラユラと風になびいている。ヨソ見しながら歩いていたので、風に吹かれていたノボリに気づかずに、ぶつかってしまったのだ。
まったく迷惑なノボリだな。何が書いてあるんだ?
おお、この薬はうちの死んだばあちゃんが、よく使っていた漢方薬じゃねえか。懐かしいなあ。この薬、最近は見かけなかったが、まだ売ってたのかよ。飲み薬と貼り薬があって、両方とも腰痛に良く効くって言ってたなあ。
カジキはノボリが顔にぶつかった怒りも忘れて、この薬をばあちゃんの腰に貼ってあげたことを思い出していた。
「はい、いらっしゃいませー! 一等商品はハワイ旅行ペアチケットでーす!」
抽選会場のテントの中で、真っ赤なハッピを着たお兄さんが、カジキの抽選券を受け取ると、威勢良く叫んだ。
ペアチケットねえ。当たっても一緒に行く奴はいねぇからなあ。
カジキはふと、サイとコヤギの顔を思い出した。
あいつらにやるか?
まさかな。あいつらほど、ハワイの似合わない奴らはいねえ。コヤギの野郎はハワイのビーチで花火をぶち上げそうだしな。いや、その前に花火を機内に持ち込もうとして、空港で捕まるか。ふん、ざまあ見ろだな。
「おめでとうございます。七等です!」
たしか、八等が末等でポケットティッシュだったな。
七等はなんだ?
「フレッシュなミカン七個です!」
ミカンかよ。大仕事を占おうと、抽選をやってみたが、ミカン七個というのは運がいいのか、悪いのか、微妙すぎて分からんな。
まあ、大仕事を前にしっかりとビタミンを摂取しておくか。
「ありがとよ」
カジキはハッピ姿のお兄さんから、ビニール袋に入ったミカンを受け取ると、さっき買ったドライバーと筆ペンが入った袋と合わせて、二つの袋をぶら下げながら、青い車公園に向かった。
最初にカジキの目に入ったのは、昨日と同じようにイチョウの木の下でノート型パソコンを開いている若者だった。そして、昨日と同じように、木の枝には大きなカラスが止まっていた。
あいつ、まだいるのか。やっぱり、あの若さでホームレスなのか。まあ、人生はいろいろあるからな。
さっそく、後ろが少しヘコんだ青いワゴン車を覗いたが、スライドドアは閉まったままで、中に爺ッ様はいなかった。
しばらく待ってみたが、帰って来そうにないので、あの若者に声をかけてみることにした。他にもホームレスの連中が何人かヒマそうにしていたが、彼が一番まともに答えてくれそうだったからだ。
「兄ちゃん、ちょっと聞きたいんだが」
若者はキーボードを叩いていた手を止めると、耳にしていたイヤホンをはずして、カジキを見上げた。整えられた髪。汚れのないトレーナーにジーンズ。洗ったばかりのようなスニーカーを履いていて、どう見てもホームレスには見えない。
「あの青いワゴンに乗っていたじいさんを知らないか」
「たぶん、競馬場です」
若者はきれいな声で、よどみなく答えた。
「他人を騙した金で競馬かよ。で、いつごろ帰ってくるか分かるかい」
「たぶん、もう帰って来ないと思います」
「なんでだ」
「あちこちの競馬場を転々としているらしいですから」
「あの野郎……」
「何かあったのですか?」
若者に訊かれたカジキは鬱憤を晴らすかのようにしゃべり始めた。
「おう、あったぜ。あいつはな、ただのジジイじゃねえんだ。爺ッ様と呼ばれている闇の人材派遣屋でな。けどな、ロクでもねえ奴らを紹介しやがったってわけよ。高い金を払ったのによ、二人で十万だぜ。バカ二人に十万。だからよ、今日はそのバカどもを返品するか、いいのと交換してくれるように言いに来たのよ」
「一人五万円ですと、相場の倍以上ですね」
「そうなのか?」カジキは驚いて若者の顔を見つめた。
「はい。青い車公園の闇の人材派遣屋というのは一人紹介して二万円で、二人ですと四万円です。しかも腕は確かで、秘密は厳守されます。もし、気に入らない場合は、いつでも、何度でも、気に入ってもらえるまで他の人を紹介します。その場合、追加料金はかかりません」
「なんだ、兄ちゃん。くわしいじゃねえか」
「爺ッ様というのは――ボクのことです」
ヤマネと名乗ったこの若者は現役の大学生という。学生生活に疲れたため、休学してホームレスをやってるらしい。ホームレスの方が疲れると思うのだが、以前からこういう自由に憧れていたので、非常に満足しているという。
パソコンと何かの無線をイヤホンで聞きながら、いろいろな情報を得て、闇の人材を派遣する仕事をしているらしい。若いのに仕事熱心で、確実な人材を紹介し、分からないことは、即座に調べて答えてくれるため、いつしかホームレスの間では爺ッ様と呼ばれるようになったという。
ホームレス公園内の“何でも知っている長老”と言ったところだろうか。
「大学生の爺ッ様か。すると、あのジジイはヤマネくんに成りすまして、俺をだましたと言うわけか」
「そうみたいですね。他にも被害者がいるらしいです」
「クソッ、ニセジジイの野郎。顔は覚えてるから、とっちめに行くか。じゃあ、ありがとよ」
「どちらへ?」
「決まってるじゃねえか。競馬場へ行って、あいつを捜すのよ」
「全国の競馬場はいくつあるのか、ご存知ですか? 地方競馬を入れると、三十箇所近くあります。全部回っていると、交通費だけでも十万円以上かかって、大赤字ですよ」
「じゃあ、俺はどうすりゃいいんだ?」
ヤマネは静かに指を差した。そこにはお地蔵さんが祭られていた。
「お地蔵さんに、あのおじいさんが買った馬券が全部外れるよう、お願いするしかないです」
「お前なあ……」
カジキは一瞬むかついたが、他に方法がないようなので、素直に従うことにして、お地蔵さんの前にしゃがみ込んだ。ちょうど、さっきもらったミカンが七個あったので、四つ置いて、一つをその上に乗せ、ピラミッドのようにして、合計五つをお供えした。
パンパンと柏手を打ったカジキ。
「お地蔵さんよお、聞いてくれよ。ここからも見えるあの青いワゴン車の中にジジイがいただろ。あのジジイにだまされてよ。仕返ししてほしいんだよ。ミカンを五つあげるからよ。なんでも、ジイイはいい年こいで、ギャンブラーらしいんだ。どっかの競馬場にいるというんだ。だから、あいつの馬券をことごとく、外してくれ。できれば競馬場に行く途中で、引ったくりにあって、有り金全部盗まれてほしいんだよ。いや、それよりも、ドブに落ちて野垂れ死にするように呪ってくれ。頼んだぜ、お地蔵さん!」
カジキが大きな声でお願いをしていたので、ヤマネはクスクスと笑っていた。
ヤマネの笑い声が静かな公園に響いたので、カジキは少しばかりムッとした。
こいつはブスッとしてるクセに、ちゃんと普通に笑えるじゃねえか。
カジキはイチョウの木の下に戻ると、ヤマネを見下ろして訊いた。
「ところで、爺ッ様はいつまでここにいるつもりだ」
「別に決まってませんが。ボクを悪い仲間に誘うのはやめてくださいね」
「なんだ、バレてるのかよ。しかしよ、アンタも人のことが言えないだろうよ。なんだ、この線は」
ヤマネが膝の上に乗せているパソコンと、横に置いてある無線機から延びているコードは後ろにある電信柱へつづいていた。
「電気泥棒じゃねえか」
「なんだ、バレてるのかよ」
ヤマネはカジキのマネをして、ニカッと笑った。
「しかしよ、こんな所にずっと座ってないで、たまには運動もしないとダメだぞ」
カジキはそう言って、イチョウの木を見上げた。
「そうですね。これが菩提樹の木なら悟りが開けるのですが」
ヤマネはジョークを言ったが、カジキはポカンとしている。
「ちょっと腰を悪くしていて、歩くのもつらいのです」
「なんだ、若いくせに腰痛持ちとは大変だな。――まっ、爺ッ様よ。人生いろんなことがあるけど、がんばれよ。じゃあ、世話になったな」
そう言って、カジキが歩き出したとき、イチョウの木に止まっていたカラスが飛び立ち、お地蔵さんの前にお供えしたミカンを一つ咥えて、飛んで行ってしまった。
「あっ、なんだあのカラス野郎! せっかく俺がお供えしたミカンを盗みやがって。まあいいか、あと二個あるからな」
カジキは袋からミカンを一個取り出すと、お地蔵さんにお供えした。
「お地蔵さんよ、一個減って悪かったな。またフレッシュミカンを置いておくからな。あのカラス、明日の朝起きたら、体中が白と黒のシマシマになってるように、バチを与えてやってくれ」
カジキは残り一個になったミカンをポケットに突っ込むと、袋を丸めてゴミ箱に捨てた。
そうか。紹介された人物の返品も交換もできないなら、あのバカ二人とやるしかないな。
ふいに真ん丸いサイと青白いコヤギの顔が浮かんできた。
「はあ。不吉な顔だ……」
まったく、ため息しか出ねえよ。あの十万円は半年も貯金して作った金だったのによ。もうちょっと後に来てりゃ、あの本物の爺ッ様に頼めたのによお。だが銀行を襲うのに一人じゃ無理だしなあ。しょうがねえ、あのメンバーで決行するか。しかし、あいつら、約束の場所に来るかなあ。いっそのこと来なけりゃ、あきらめもつくし、作戦の練り直しもできるのだが。そのときはまた金を貯めて、あの爺ッ様にお願いするか。たしか、二人で四万円と言ってたな。ちょっと酒を我慢すればすぐに貯まるだろう。
ぶつくさと独り言を言いながら、カジキは来た道を引き返した。
「よお、爺ッ様!」
ヤマネは驚いて顔を上げた。目の前に、さっき別れたカジキが立っていたからだ。あわてて、キーボード上の手を止めて、耳からイヤホンを抜いた。
「悪いけど、仕事の依頼じゃねえ。これだ」
カジキはヤマネに小さな紙袋を差し出した。
「うちの死んだばあちゃんが愛用していた腰痛の薬だ。飲み薬と塗り薬のセットになってて、よく効くらしい」
「どうしてボクに?」
「まあ、世話になったからな。なけなしの金で買ってきたのよ」
ヤマネは不思議そうな顔をしながら、薬を受け取った。
「漢方薬だから、西洋の薬みたいにすぐには効かないかもしれんが、早く治して、散歩でもしろよ。――じゃあ、俺はこれからデカイ仕事が待ってるからよ」
「あ、あの……」
ヤマネがお礼を言う前に、カジキは行ってしまった。
ウサギは家の近くの広場でなわとびをしていた。それをフェンスにつないだ雑種犬のデュークが這いつくばって、退屈そうにながめている。ときどき立ち上がって、つまらなそうな顔でアクビやノビをしている。
(せっかく楽しいお散歩だと思ってやって来たのに、なわでピョンピョンはねているだけで、全然遊んでくれない。吠えてみたけど、振り向いてもくれないし、さっきからずっと同じことをやって、何が面白いのだろう。今日はいつもお散歩の時に持って行くボールじゃなくて、なわとびを持っていたので、嫌な予感はしていたのだけど。あーあ、ボクは世界で一番ヒマなイヌだー)
広場の一部は駐車スペースになっていて、ウサギのお父さんの車も置いてある。白くて小さなその車はもうすっかりガタがきてしまっているので、下取りに出して、新しい車に買い換える予定になっている。
でも、お父さんは長年乗っていただけに愛着があるらしい。なんといっても、白い軽自動車だというのに、お母さんが止めるのも聞かず、オプションでサンルーフをつけて、走り回っていたくらいだ。ウサギもよくそこから頭を出して、外を眺めていたが、やはり小さな軽自動車だと、ちょっとカッコ悪かった。
そんな変な車だが、お父さんはどうしても名残惜しいようで、今度の休みに家族全員で最後のドライブに行く予定だ。そのために、ガソリンも満タンにして、半日かけてボディもピカピカに磨いてあった。
ウサギは、ヒマすぎてアクビが止まらないデュークの気持ちも分からないようで、なわとびに余念がない。今度の体育の授業で、なわとびのテストがあるため、練習をしていたのだ。
一人三十秒間の自由演技。ウサギは左右とび、あやとび、交差とびなど、いろいろな技がある中、三十秒間を二重とびだけで、やり抜こうと思っていた。
これがメッチャしんどいねん。三十秒間が一時間くらいに感じるわ。二重とび言うてもいろいろあるけど、ウチはハヤブサとダブルアンダートードで決めるつもりやねん。これくらいやらんと、目立たへんしね。ほとんどのクラスメイトは二重とびも、あんまりできひんし、エレファントトードかインバーストードでごまかすんやろうけど、中には三重とびの大技、サイドサイドクロスとサイドサイドオープンをやってくる人もいるし、ほんま、安心できひんわ。
ウサギはサイドサイドクロスが得意なキリンちゃんの顔を思い出していた。
あっ、そう言うたら、キリンちゃん、昨日パンダ岩を見て来たて、言うたはったなあ。めっちゃ、かわいかったって、言うたはったなあ。ああ、ウチも見たいなあ。早よ、連れて行ってほしいなあ。
今から二週間ほど前、降り続いた大雨の影響で、ウサギの家の近くの採石場がある岩山の一部が崩れて、中から丸くて大きな岩が現れた。岩の上には、小さな岩が耳のように二つ乗っていて、口の辺りには穴が開いているため、まるでパンダの顔のように見えていた。
さっそく、マスコミが詰め掛けて“パンダ岩が出現!”などと、テレビで大きく報道されたため、ウサギの学校でも話題になっていて、その採石場から一番近いところに住んでいるキリンちゃんは、おととい家族で見に行ったそうだ。
ウサギが家に帰ってそのことを話すと、白くて小さな車の最後のドライブ先はパンダ岩にしようということに決まった。何でも大変な人出で、人気に便乗したパン屋さんがパンダパンというものを作って、ワゴン車で売りに来ているらしい。
ウサギはとても待ちきれない。
早くパンダ岩に会いたいし、パンダパンも食べてみたいと思っていた。
その白くて小さい車のバックミラーに下げてあるポーチの中のスマホが鳴った。
デュークが驚いて、吠える。
「デューク、静かにしなさい。お母さんからの電話やし。――もしもし、お母さん。えっ、今? 駐車場やで。お買い物? うーん、どうしよ。今、なわとびの練習してんねん。うん、えっ、ええの? じゃあ、行く行く! 絶対、行くし。じゃあ!」
ウサギはデュークの元へ駆け寄った。うれしそうに飛びついてくるデューク。
「デューク、分かってるで。ヒマで犬死にしそうやったんやろ。今から帰るで。お使いに行かなアカンねん。カレーライスに入れるニンジンが、ないんやて。練習中やったから、断ろうと思たんやけど、お財布の中に千円札しかなくて、おつりを全部くれるんやて。ニンジンて、たぶん二百円くらいやから、八百円の儲けやねん。ウチの一ヶ月のお小遣いが五百円やから、メッチャ大儲けやねん! ほんで、帰りに銀行に寄って、一万円札を千円札に両替すんねん。それはすぐ終わるし、楽チンや」
ウサギはお父さんの車のバックミラーに下げてあったポーチをはずすと、代わりになわとびを丸めてぶら下げた。
そして、やっと家に帰れると分かって喜んでいるデュークを連れて、ピョンピョンとなわとびのジャンプの格好をしながら、家に向かった。なわを持たないで、ジャンプだけしていても立派な練習になると、先生に聞いていたからだ。
ニンジンはあんまり好きやないけど、やっぱりカレーライスにはニンジンが付きものやしなあ。ニンジンがあった方が彩りもよくなるし、なあ、デューク。ああ、デュークはニンジンが嫌いなんやったな。だったら、お母さんにカレーの残りのお肉をもらったらエエわ。さあ、一儲けしたら、すぐに戻ってきて、また練習のつづきをするで!
小さな手提げバッグをお母さんから渡されたウサギは、まずスーパーに行ってニンジンを買った。一袋百五十八円。おつりは八百四十二円。
サイフを出すとき、バッグの中に車のキーが入ってることに気づいた。
あーあ、お父さん、こんなところに入れっぱなしやんか。あの車に愛着があると言いながら、エエ加減やなあ。
でも、ニンジンは安かったなあ。思ったよりエエ買い物できたわ。これでしばらくウチのサイフの中身も暖かいなあ。ホクホクやわ。
ウサギはおつりをお駄賃としてもらうと、一万札を両替するために銀行へ向かった。
途中に“きりんや本店”という高級そうな懐石料理店があった。通りがかったときにショーウィンドーを見るだけで、入ったことはない。今は春のお弁当フェアをやっているらしく、おいしそうな松花堂弁当が飾ってあった。
ウサギはガラスに顔をくっつけて、のぞき込んでいる。
わあ、めっちゃ、おいしそうやん。山菜ご飯に、天ぷらに、お魚に、煮物もあるし、フルーツも付いてるんか。
えっ、八百円!? 安いやん。さっきもろたおつりで買えるやんか。わあ、食べたいなあ。
――あれ? よう見たら、八千円や。うへっ、無理や。あと九回もニンジンのお使いに来なアカン。毎回千円札しかなくて、おつりが八百円ということはないやろうから、食べられるのは、ウチが大人になってからやろうなあ。
正面に木製の札が貼ってあった。
“出前、承ります”
何て、書いてあんのやろ。でまえ、何とか、……ります。
出前、ありますか?
出前、やりますか?
出前、とりますか?
取りますは変やな。
お店がよそから出前取ってどうすんねん!
「これはね、うけたまわりますと読むんだよ」
「えっ?」自分ツッコミをしていたウサギが驚いて振り返ると、白い割烹着を着た大きな体格のおじさんが立っていた。この店の人らしい。
「ああ、そうですか」
「一個からでも配達するから、おうちの人に頼んでね」
「はい。あの、じゃあ、さいなら」
おじさんに自分ツッコミを聞かれたと思ったウサギはあわてて駆け出した。
ああ、びっくりした。ほんで、めっちゃ恥ずかしかったわ。今の人は大きい体してはったけど、白い服を着たはったから、お店の人やろうなあ。でも、おうちの人に頼んでて言われても、たぶん無理やと思うわ。一個八千円やで。ニンジンが何本買えんねん。もし、頼んだとしても、一個を家族三人で分け合って食べることになるやろなあ。そしたら、デュークの分があらへん。お弁当の入れ物にお茶だけ入れてあげて、せめて高級料亭の雰囲気だけでも楽しんでもらうしかないなあ。
週末のため銀行内は混んでいた。目的の両替機の前には三人の中年女性が並んでいた。先頭のおばさんがモタモタしていて進みそうにないし、その後ろに並んでいる二人のおばさんものんびりした顔の人たちだったので、きっと時間がかかるだろうと思ったので、ウサギは店内をうろつくことにした。
風船をもらおうと思ったのだが、今日は置いてない。いつもソファーの横に置いてあるキャンディーもない。たぶん、ずうずうしいおばさんが、大きな手でガバッと取って行ったのだろう。
他に何か面白いものはないかなとキョロキョロしてると、カウンターの上に白い卵形の貯金箱が置いてあった。定期預金をすると、粗品としてもらえるらしい。
「タマゴくん? なんやその単純なネーミングは。思いっきり銀行っぽいセンスやんか。ウチやったら、絶対に没にするわ。かわいらしい貯金箱やのにもったいないなあ。名前で損してるわ」
地方銀行だが行内は広く、衝立の裏にある奥には展示スペースまであった。
そこで地元の小学生が描いた絵の展覧会をやっていた。ウサギも同じ学校だが、飾ってあるのは上級の五年生と六年生の作品だった。水中の生き物がテーマになっているらしく、イルカやザリガニの絵が、色とりどりに描かれていた。
ウサギは奥に入ると、絵の鑑賞を始めた。
「これは色使いがイマイチやなあ。こっちは地味やし、こっちは派手すぎるし。あっ、これはエエな」
地球の周りを魚の群れがグルグルと回っている絵だった。
「スケールも大きいし、これが一番かな」
ウサギが両替機の方を見ると、さっきのおばさんがまだモタついていた。
「まだ空かへんみたいやし、ベスト三まで決めようかな。これはなんや? イソギンチャクか? うへっ、リアルすぎて気色悪いなあ。触角がウジャウジャ生えてるし。こっちの真っ黒いカタマリは何や? なんや、モズクか。そんなもん、書くなよ! 先生もこんな絵を選ぶなよ!」ウサギはブツブツと独り言を言いながら絵を見て回っていた。
巨大スーパーの駐車場のド真ん中に、リュックをかついだ青白い顔の青年コヤギと、真ん丸い体形に真ん丸い顔を乗せたサイがボケッと立っていた。
「なんだ、お前ら来たのか」
カジキが車の中から声をかけた。
「はい、来ましたよ、カジキのアニキ! ハックション!」
「はあ、来ちゃいました。喜んでください、オーシャンズ3の揃い踏みです」
カジキは愕然とした。
残念ながら、二人が約束どおり来ていたからだ。
せっかく金を貯めて、本物の爺ッ様に新しいメンバーを探してもらおうと思っていたのによ。来たのならしょうがないか。こいつらとやるしかないのか。
ウーン、こいつらとねえ。
カジキは車を降りると、険しい顔で空を見上げた。
「アニキ、何を悩んでるんですか。ベストパートナーが揃ったところで、早く決行しましょう」
「こらっ、水ぶくれ。何がベストだ。ベストは俺だけじゃねえか。おい、コヤギ、何をやってるんだ」
コヤギはリュックから黒くて大きな筒を取り出した。
「はあ、これはバルカンフォーティと言いまして、四十連発なんですよ。今日の良き日に、一発打ち上げようと」
「バカか! ここでやるなと言っただろうが。なにがバルカン砲だ。そんなもん、早くしまえ。まったく、揃いも揃ってバカばっかりかよ。しかしなあ。もう新人を雇う金もないしなあ。――分かった、お前たちとやるからよ。まず、これを噛め。そして、これを見ろ」
カジキはグリーンガムを二人に渡して、真っ赤なオープンカーのダッシュボードから、一冊のノートを取り出した。
「計画書だ」
鼻をかんでいたサイは驚いて丸い顔と丸い目をさらに丸くし、持っていたティッシュを丸めてポケットに入れた。
「計画書なんて、そんな大層なものがあるのですか?」
「おう、当たり前じゃねえか。俺たちがやろうとしているのは銀行強盗だぜ。不良少年がスクーターに二人乗りしてやる、行き当たりばったりの引ったくりじゃねえんだ。その辺のところを二人ともしっかり自覚しておいてくれ。――ちょっと読んでやるから、よく聞いておけ」
二人は小さな町工場の朝礼の風景のように、カジキの前に並んで立った。
「本特殊業務(以下「業務」とする)は、人的、物的にも歪みが生じている組織を再構築するために遂行されるものとし、延いては、それを取り巻く社会を矯正し、日本が世界に確固たる地位を築き上げるための、大いなる助力となることを最大の目標とする。当業務を行うにあたり、業務遂行者は決して個人的な金銭欲、出世欲、名誉欲に囚われることなく、この重要かつ広大な意義を十分に理解した上で、御参加を願うものとする。なお、参加にあたり、担保、保証人は不要とする。また当業務を遂行するに於いて知り得た一切の事項はいかなる事由があろうとも漏洩してはならない。本契約は業務終了まで効力を有するものとする。さらに特殊業務遂行規約。第七条。中途解約。業務遂行中、確約の申し出があった場合、正当な理由に限り、これを承諾する」
カジキはいったん計画書から顔をあげた。
「こらっ、コヤギ、遠くを見つめるな! こらっ、サイ、立ったまま寝るな!」
二人はカジキの怒鳴り声を聞いてやっと我に返った。
「――で、参加するのかしないのか」
「はあ、参加したいです」
「同じく、ハックション!――です」
「まだ全部読み上げてないが、さっさと契約しろ。どうせ聞いてないだろうからな。二人とも印鑑を持ってきただろうな。えーと、本契約に同意された上で業務を遂行してください。本契約に同意いただけない場合は契約を解除させていただきますっと。ここに押印してくれ」
二人はよく理解できないまま、計画書に三文判を押した。
つづいてカジキは計画書に添付されていた用紙をボンネットの上に広げた。
「第八中央銀行熊山出張所の見取り図だ」
「はあ、なんだか地味な銀行ですね」
「うるさい、アニメ声。強盗というのは、まずこういう地方銀行で練習をしてから、都市銀行の本店を狙うのよ」
「さすがアニキ! でも、こんな詳細な見取り図が書けましたね。アニキはここのお得意さんですか?」
「おう、よく聞いてくれたじゃねえか、サイさんよ。そこの銀行に口座を持っている奴が強盗に入るのは、よくあるパターンなんだよ。だから警察もマークする。しかしよ、俺ほどのベテランになると、そんなヘマはしない。俺はこの銀行に口座は持ってない」
「はあ、じゃあ、どうやってこの見取り図を?」
「おう、これよ」
アニキはジャンパーのポケットから一円玉の棒を三本出して、ゴロンと転がした。
「両替よ。五回両替に行って覚えたのよ。なんといっても、ここの両替はタダだからな。出張所といっても行員は全部で十五人もいる。五十歳くらいの支店長と四十歳くらいの次長。それとヒラの行員が十三人だ。出入り口は一ヶ所、ここだ。ここから入ってここから逃げる。一番近い交番までは一キロ以上ある。通報されて到着するまで、十分はかかると思う。その間に札束持って、ずらかるってわけよ。俺は誰も信じない性質だ。信じるのは己の目だけだ。自分の目で確かめから、初めて納得するタイプよ」
アニキはその後も、行員の脅し方や逃げ道の経路などをくわしく何度も説明した。くわしく何度も説明しないと、二人とも理解できそうになかったからだ。
「それとな、銀行に入ったら一言も口を利くな。もしかしたら、外国人の強盗と間違えてくれるかもしれないからな。特にコヤギ。お前の声は特徴があるから、十分に気をつけろ」
「はあ、気をつけます。でも、口を利かないと行員が強盗だと気づいてくれないと思うんですが」
「おう、いい所に気づいたな、これを見ろ」
アニキは計画書の間から一枚の紙を取り出した。
カ ネ
金
「この紙を見せて金を要求するのよ」
「はあ、なんだか、汚い字ですね」
「うるさい! 読めるだろうが」
「はあ、でも、なんでフリ仮名が書いてあるんですか」
「おう、それよ。行員が中国人の金さんという名前の客と間違えたらダメだろうよ。だから、親切に書いたのよ」
「さすが、アニキですね!」
サイは心底感心したように声をあげた。
「じゃあ、お前らの噛んでるガムを寄こせ」
アニキは二人から受け取った生暖かいグリーンガムを伸ばすと、ナンバープレートに貼り付けて、3を8に、0も8に変えて、ひらがなの“め”を“ぬ”に変えた。
「よしっ、これでいい。それと、変装セットは三人分用意した。帽子とマスクと軍手だ。サイは花粉症だから、専用の立体マスクにしておいた」
「えっ、アニキ!」
サイが泣きそうな顔でカジキを見た。
「泣くなよ、気味悪いから。ちゃんと花粉症の薬は飲んでおけよ。鼻水ズルズルの銀行強盗なんか、みっともないからな」
「はい! 直前に薬をたらふく飲んでおきます!」
「それと、二人ともトイレにはちゃんと行っておけよ。緊張して漏らしたら格好悪いからな」
カジキはいろいろと説明しながらも二人への不安は消せなかった。
どう贔屓目に見ても、しくじりそうな顔をしているからだ。
無駄だと分かっていながらも、計画書をふたたび開いた。
「いいか、よく聞け。特殊業務遂行規約。第一条。責任の所在。当業務を遂行するにあたり、不測の事態や事故等により、身的損傷や心的疾病が生じたとしても、一切責任を負うことはない。――分かったか? 死んでも知らんということだ。気合を入れて行けよ。それと、大切なものはチームワークだ。第二条。責任の連帯。共に業務を遂行する人物が存在する場合、すべての責任はその人物たちとともに連帯して負うものとする」
相変わらずボケッと立っていたコヤギとサイだったが、緊張しているようにも見えた。
「二人とも心配するな。第三条。責任の区分。主たる責任は主たる人物が負うものとする。まあ、言ってみれば、何が起きても最後は俺が責任を負うってわけだ」
サイがふたたび泣きそうな顔でカジキを見た。
「ア、アニキは素晴らしい人です!」
銀行の人出のピークは過ぎたようで、ATMコーナーに二人、店頭にも二人、全部で四人の客がいるだけだった。
変装したカジキが静かに女子行員と向き合った。両側には立体マスクのサイと、帽子が大きすぎて全然似合わないコヤギが緊張しながら立っている。
「あの、お客様。あそこの機械から番号札をお取りくださいませ。順番にお呼び……」
カジキは黙って、女子行員に「金」と書かれた画用紙を見せた。
「えっ?」
ここで、女子行員が震えて、お金を差し出すはずだった。
――ところが。
「ギャッ!」
女子行員は悲鳴を上げると、席を立ち、カウンターを飛び越えて、フロアに着地して、さっさと出口へ向かって逃げ出した。
それを見た次長が、
「おい、君、落ち着きなさい! 落ち着くんだ!」と興奮して叫びながら走り出すと、女子行員を追い越し、真っ先に外へ出て行った。それを見た支店長も負けてなるものかと逃げ出した。
すると、トップである支店長が逃げ出したのだから、遅れずに後に続けとばかりにすべての行員が追いかけ始めた。
やがて、支店長が次長を追い抜いた頃、唖然としていた四人の客も我に返り、みんな外へ逃げてしまった。
「お、おい、待てよ! 待ってくれよ」
一言も口を利くなと言っていたカジキが驚いて声を出してしまった。
もちろん、待てと言われても、みんな待つわけがない。十五人の行員も客も先を競い合うように逃げて行き、道路に飛び出たときには、支店長と次長がワンツーフィニッシュを決めて抱き合って喜んでいた。命あっての物種である。
「まったく、客はしょうがないとして、あの行員どもはなんだ。愛社精神のカケラもねえのかよ」
サイとコヤギは広いロビーに三人の強盗だけが残されたという状況を、よく理解できずに呆然と立ち尽くしている。もっとも、こんな異常な状況でなくても、この二人はいつも呆然としているのだが。
静まり返る銀行内。
カウンターの上にはアニキがヘタな字で「金」と書いた画用紙が寂しそうに置かれていた。
「ちくしょう。せっかく、フリ仮名まで振ってやったのによ。まあいい。二人ともオマワリが来る前にさっさと仕事を済ませようぜ」
アニキはカウンターを乗り越えると、机の上にあった札束を次々に袋に詰めはじめた。状況が分かってきたサイもドッコラショと重い体で乗り越えると、行員の机の引き出しを順番に開けて、金目の物を探しだした。
しかし、コヤギはまだ突っ立っていた。
小さな女の子と目が合ったからだ。
小学生の上手な絵のベスト三を決めたウサギは両替機の方を見た。
みんな、両替を済ませたようで、誰も並んでない。
ふう、やっと空いたみたいやなあ。
でも、ベスト三ていうても、たいしたことないな。これでも上級生の作品かと思うくらい、ヘタッピが多かったわ。ウチの方が上手やと思うわ。ウチが五年生になったら、ここに飾られるんかなあ。楽しみやなあ。
衝立から表に出てみると、リュックを背負い、大きなニット帽をかぶって、マスクをした青年と目が合った。
そんな格好をしてたら、強盗と間違われるのに。
でもこの人、顔ははっきり見えへんけど、このやる気のないような態度、オーラが全然感じられへん雰囲気、この大きなリュックサックはどっかで見たことがあるなあ。
ウサギはそう思って、両替機の方に歩きかけたが、行内には誰もいないことに気づいた。
そして、カウンターの向こうで、お金を物色する二人組が目に入った。
「コヤギ、何やってるんだ。早く手伝え!」
カジキがカウンターの向こうから叫んだ。
「はあ、でもアニキ」
「何だよ、さっさとしろよ!」
焦れたアニキがカウンターの方に歩きだしたが、ウサギと目が合って、あわてて立ち止まった。
「なんだ、なんでガキがいるんだよ!」
「はあ、なんだか、この子が衝立の向こうに隠れてたみたいで」
ウサギが二人の会話に割り込んだ。
「隠れてたんと違うで。絵を見てたんやで。隠れてたんやったら、ノコノコ出てきいひんで」
サイも聞こえてきた声に驚いて、立ち上がったままウサギを見ている。
ウサギはカジキをにらみつけた。
「それとな、ガキと違うで。人間には一人ひとり、ちゃんと名前があるんやで。ウチの名前はウサギて言うねん」
コヤギは帽子を脱いであいさつをした。
「はあ、そうですか。ボクはコヤギと言います。あの人がカジキのアニキで、もう一人がサイさんです」
「どうも」「どうも」
急に紹介されたカジキとサイは思わず頭を下げた。
「自己紹介が終わったところで、三人は銀行強盗やろ」
「いや、ええと……」「はあ、あのう……」
カジキとコヤギは、しどろもどろになったが、
サイは立体マスクをはずして、「はい、そうです!」と元気に答えた。
「バカか、黙ってろ!」
カジキに怒鳴られて、サイは大きな体を小さくしたが、顔はいつものように平気な表情のままだった。
ウサギが三人を順番に見渡した。
「うーん、三人組か。そしたら、アニキがちょっと年を取ったルパンで、コヤギくんがヒョロヒョロの五右衛門で、サイくんが太目の次元やなあ」
太目の次元がうれしそうに答えた。
「そうですねえ。だったら、ウサギちゃんは小さな峰不二子ですよ」
「えっ、ウチが不二子ちゃん? やったー、セクシーな不二子ちゃんやー!」
「ふん。ガキのクセに何がセクシーだよ」
「アニキ、何か言った?」
「い、いや」
「そんなことよりアニキ、早よ盗まなアカンやんか」
ウサギに指摘されて、カジキが我に返った。
「そ、そうだったな。おい、二人とも早くしろ。コヤギもこっちへ来い!」
大金庫があったが、鍵を探している時間はなかった。見つけたとしても、ダイヤルナンバーが分からないので開けることはできない。行員を脅して、開けさせる予定だったが、脱兎のごとく逃げてしまったので、あきらめるしかない。
三人は手分けしながら、机の上や中にあるお金を袋に入れていく。いつの間にか、ウサギもカウンター内に入って来ていた。
「コヤギくん、そんな硬貨は捨てとき。重いだけやで。それと、サイくん。マスクがズレてきてるで。ちゃんと付けとかんと、防犯カメラに顔が映ってしまうで。アニキは札束を詰めるときはもっと丁寧にせなアカンで。バサバサ入れてたら、いっぱい入らへんで」
ウサギは三人に声をかけると、裏の方に歩き出した。
それに気づいたコヤギ。
「ウサギちゃん、逃げるのですか?」
「なんでやねん。逃げるんやったら、自己紹介なんかせんと逃げてるわ。トイレとロッカーの中もチェックすんねん。誰かが隠れてるかもしれへんし」
ウサギがトイレに入って、誰もいないことを確認すると、鏡に自分の顔を映した。
乱れていた髪の毛を少し直して、自分の姿にアカンベーをしてみた。
なんか知らんけど、銀行強盗に会うてしもた。でも、なんか面白いことが起こりそうやねん。お母さんが心配するかもしれへんけど、夕方までに帰ったら大丈夫やろ。
ウサギがトイレの点検を終えて出て行くと、コヤギがロッカーの中を漁っていた。
「女子トイレには誰もいいひんかったで」
「はあ、ありがとうございます。助かります。男子トイレも大丈夫でしたよ。――あっ、またスマホを見つけました」
行員のロッカーを順番に開けていたコヤギは、スマホを三台も見つけていた。
「ボク、今どきスマホを持ってないんですよ。一度に三台も手に入るなんて、ラッキーです」
「そんな物まで取ったらアカンで」
「いやです。絶対に返しません。ボクはこう見えても極悪人志望なんですよ」
「ふーん。それにしてはかわいらしい声やなあ」
「はあ。アニキにも指摘されたのですが、二十九年間、この声なので今さら直せないのです」
「エエやんか。アニメ声の五右衛門や」
コヤギは三台のスマホをうれしそうにリュックにしまった。
「あのう、ウサギちゃん。後でスマホの使い方を教えてくれますか?」
「教えてあげてもええけど、後で返してあげな、持ち主の人が困らはるで」
「はあ、分かりました。使った後に送料着払いで送ってあげます」
「極悪人にしてはせこいな」
コヤギはまた違うロッカーの中に頭を突っ込んだ。
「ここは掃除道具入れですね。ホウキとチリ取りしかありませんねえ。えーと、隣はどうかな。あっ、お弁当を見つけました! お腹がすいていたのでラッキーです」
そう言って、花柄のハンカチで包んであるお弁当箱を持ち上げた。
「ちょっと、コヤギくん、それはアカン。その人のお母さんが朝早く起きて、愛情込めて作らはったお弁当かもしれへんやんか。いくら極悪人志望でも、やってエエこととアカンことがある。お弁当泥棒はやったらアカンことやで」
「そ、そうですね」
コヤギはそっとお弁当箱を戻して、
「はあ、勉強になりました」と、ウサギに頭を下げた。
第八中央銀行熊山出張所に三人組の強盗が入ったという通報が警察に届いたのは、事件が起きてからわずか二分後のことだった。逃げ出した行員がすぐに電話をし、四人の客からも連絡が相次いだからだ。
通報を受けた熊山警察署は騒然となった。客の一人が中に人質がいると証言したからだ。小学生の絵の展覧会を眺めていた女の子が外に出て来てない、たぶん捕まったのではない
かと、電話で話していたという。
特別捜査本部が設置されたのは事件発生からわずか十分後だった。
さっそく捜査本部長に任命されたラクダ警部はやたらと張り切っていた。
なんといってもここは地方都市だ。こんな大きな事件は何年ぶりだろうか。山から下りてきた野生のイノシシが町中を走り回って、ばあさん二人が足にケガをして以来の大事件だ。
そのとき、そのイノシシを素手でヘッドロックして捕まえて、全国的に注目されたのがラクダ警部だ。しかし、その後は新たなイノシシも現れず、落し物の探索と迷子のネコの捜査といった、どうでもいい仕事がつづく毎日に飽き飽きしていたところだった。
この銀行強盗事件で出世のきっかけがつかめるのではないか?
十年に一度あるかないかのチャンスだ。逃してたまるか!
「すぐにCCを二台用意しろ! そこに捜査本部を置く。くれぐれも、犯人たちに気づかれるんじゃないぞ」
ラクダ警部は電話口でがなりたてると、周りで戦況を見つめていた部下たちを見渡した。
「よしっ、ヒンバ。お前が捜査副本部長だ!」
「はい!」
どう見ても警官とは思えない銀縁メガネをかけて髪を七三に分けたヒョロリとした男が、返事をした。
「次に、カバ。お前は捜査副本部長代理だ!」
「はっ!」
どう見ても警官に見える陽に焼けて髪を短く切り込んだゴツイ体の男が返事をした。
「そして、ヒツジ。お前は、捜査副本部長代理見習いだ!」
「はーい」
どう見てもジャニーズ系に見える童顔で長髪のいい加減そうな男が返事をした。
「捜査本部はわしを入れてこの四人で仕切っていく。みんな、協力を惜しまないように。分かったな」
ラクダ。ヒンバ。カバ。ヒツジ。
捜査本部の幹部は熊山警察署の選りすぐりの四人。それぞれ、五十二歳、五十歳、四十八歳、三十八歳という経験豊かな布陣だ。
それぞれは夢を馳せていた。
捜査本部長ラクダは、いつかは大きな署への移動に、
捜査副本部長ヒンバは、いつかは捜査本部長に、
捜査副本部長代理カバは、いつかは捜査副本部長に、
捜査副本部長代理見習いヒツジは、いつかは捜査副本部長代理へ。
「では現場に直行して、交番から駆けつけている巡査たちと合流する!」
ラクダ警部はそう叫ぶと、先頭を切って部屋を出て行った。捜査員たちが遅れないよいうに、急いで後につづく。
廊下では、事務係が“第八中央銀行熊山出張所強盗人質事件捜査本部”という長い名前が書かれた長い紙を両手で縦に持って待っていた。
「本部長、これでどうでしょうか?」
「おう、上出来だ。やっぱりパソコンだと早いな。昔は字に自信がある奴が、せっせと墨で書いたもんだ。さっそく、わしが乗る方のCCの入り口に貼っておいてくれ」
熊山警察署の選り抜き捜査員たちが一気に廊下を走り抜けた。
捜査本部と書かれた長い紙が風で揺れた。
「ほら、ウサギちゃん、見てください!」
コヤギが銀行の店頭に置いてある大きな水槽を覗き込んでいた。
「えっ、何これ?」
「金魚花火です。特殊な火薬でできているので、このように水の中でも消えないのです」
「わっ、ホンマや。めっちゃ、すごい!」
「では、一本やってみますか」
コヤギはそう言うと、新しい金魚花火に火を付けて、ウサギに渡した。
ウサギが背伸びをしながら、恐る恐る花火を水の中に入れた。
ブクブクブク……。
「うわっ、ホンマに消えへんし、きれいやなあ」
「そうでしょ。花火には人生がたくさん詰っているんですよ。誰しも、華やかな人生を夢見て、日々を生きているのですが、なかなか現実というものは厳しくて、つらいものです。でもそんなときはこの金魚花火を思い出してください。たとえ水の中でも、こうやって懸命に生きているではありませんか。この困難を乗り越えていく気概というものが、人間には必要なのです。この花火はそれを教えてくれているのです。だから、ボクはくじけそうになったときに、よく金魚花火をします。今はたまたま水槽があったから、やってみただけですが」
「コヤギくん、花火のことになると、ようしゃべるなあ」
「はあ、すいません」
「ほんで、目が輝いてるなあ。ウチ、どっかでコヤギくんを見たことがあるなあと思てたんやけど、今思い出したわ。空風山のてっぺんで、打ち上げ花火を爆発させてたやろ。テレビに映ってたで」
「えっ、あのう……、それは……、アニキには黙っていてくださいね」
ブクブクブク……。
「本物の金魚がおびえてるし、もうやめとこ。――金魚さん、驚かせてごめんね」
のんきに花火をやっているコヤギを見つけて、カジキが怒鳴った。
「おい、何やってるんだよ! 花火なんかいつでもできるだろうが。ちょっとでも多く金を盗まんか!」
大きな声に驚いたウサギとコヤギ。
「うわっ、アニキが怒ってるで」
「はあ、極悪人に戻りましょう」
そこへ、カジキに言われて金目の物を探していたサイの緊迫した声が飛んできた。
「アニキ! 机の中からすごいもの見つけました!」
「なに! 金塊か? 株券か?」
カジキがサイの方へ駆け出した。
「いえ、これです!」
サイは右手の上に乗せたものを誇らしげに見せた。
「1/43 トルーマンTG184 ポルトガルGPです!」
――ドテッ。
そのF1ミニカーを見て、カジキが転んだ。
「バカか! そんなおもちゃで興奮するんじゃねえよ!」
「でも、アニキ! これは、あのアイルトン・セナのF1カーで、なかなか手に入らないお宝なんですよ。見てください。この流れるようなフォルム、芸術的なスタイル、素晴らしい色合い……」
「うるさい! 立体マスク越しに感動を語るな」
現金を詰め込んだ袋をカジキとコヤギがかついで、サイを振り返っている。
「何やってるんだ。早く逃げるぞ!」
カジキが怒鳴っても、サイはF1ミニカーに見とれている。
「そんなもの、ポケットに入れて持って来い!」
「アニキ、それはいけませんよ! この神聖なミニカーを盗むなんて、まるで泥棒じゃないですか」
「お前、自分が今何をやってるのか分かってるのか」
しかし、サイは平気な顔をして、ポケットの中を探っている。
「アニキ、四百九十円足らないんで貸してください」
カジキは早くしろバカと叫びながら、カウンター越しに自分の小銭入れを投げてやった。
サイは小銭を受け取っても、のんびりと机の上にあるネームプレートをながめていた。
「次長のクマダさんか。たぶんF1のファンなんだろうなあ。語り合ってみたかったなあ。他にもミニカーをたくさん持っているのかなあ。この仕事が終わったら訪ねてみるか。――うん、そうしよう!」
「こらっ、サイ、何やってるんだ!」
「今、受取書を書いてます!――クマダ様。えーと、定価四千九百円と消費税が四百九十円で、合計が五千三百九十円。但し書きはF1ミニカー代。日付を書いて、ミニカーを正に受け取りましたと。――はい、これでよし」
そう言うと、またミニカーをいとおしそうに眺めた。
「おい、まだか!」
「いやあ、何台あってもいいものですねえ」
「なんだ、同じ物を持ってるのか?」
「はい、これで六台目です。うーん、どうしようかなあ。一台目は居間に置いてあるし、二台目は玄関に置いたし、三台目は寝室に置いたし、四台目はお風呂場に置いたし、五台目はキッチンに置いたし、アニキ、六台目はどこがいいですかね?」
「そんなもん、便所にでも置いておけ!」
「あっ、そうですね。さすが、アニキです! トイレですと、ゆっくり眺められますものね」
「置き場所が決まったのなら、早く来い!」
サイは受取書の上にお金を置いて、F1ミニカーを大切そうに持つと、カウンターをドッコラショと重い体で乗り越えようとして、動けなくなった。
「こらっ、サイ! 横から出た方が早いだろうが!」
「あっ、ホントだ」
そのとき、先に外に出ようとしていたウサギが叫んだ。
「アニキ、大変! シャッターが下りてる!」
「何だと!」
ウサギの声を聞いて、アニキとコヤギが出入口に向かった。
その後を、のんびりとサイが追う。
「どうなってやがる。閉じ込められたじゃねえか。こらっ、サイ! お前がモタモタしてるからだぞ!」
ガラスの自動ドアは無理に手でこじ開けると開いたが、その向こうにシャッターが下りていた。四人の中で一番力がありそうなサイが手で上げようと思っても、ビクともしない。カジキは買ったばかりのドライバーでこじ開けようとしたが、頑丈にできていて無駄だった。
「こらっ、サイ! 裏口を見て来い!」
サイがドタドタとデカい体で走って、ドタドタとデカい体で戻ってきた。
「アニキ。裏口のドアも鍵がかかってしまったみたいで開きません」
「チクショー。出張所だと思って安心したのだが、セキュリティーは万全だったとはな」
十五人の行員の誰かが、逃げ出す直前か、逃げ出してからか、非常ボタンを押したため、正面玄関のシャッターが下りて、裏口の鍵もかかってしまい、四人は行内に閉じ込められてしまったのだ。
「だったら、窓はどうだ。出られるんじゃねえか」
ウサギがベージュ色のカーテンを引いて、窓から外を見た。
「わっ、アニキ、すごいことになってるで!」
「どうした、ウサギちゃん!――わっ、何だよ!」
銀行の周りをたくさんの警察車両が取り囲み、いくつもの赤色灯が静かに回転している。
そして、その周りにたくさんのヤジ馬が群がっていた。
「わっ、大きい警察犬も来てるで。噛まれたら、めっちゃ痛そうや」
「いつのまに集まりやがったんだよ。おい、お前ら、サイレン聞こえたか?」
サイとコヤギは力なく首を振った。
「アニキ、こういうときは、サイレンは鳴らさへんのと違う? 犯人を刺激せえへんように、こっそり来るのと違うかなあ」
「ああ、きっとそうですよ! さすが、ウサギちゃんだ」
「こらっ、サイ! うれしそうに同意するな。――まったく、こんなはずじゃなかったんだがなあ」
「アニキ、警官に囲まれることも計画書に載っていることなんですか?」
「バカか! 載ってるわけねえだろうが。学芸会の脚本じゃねえんだ。れっきとした計画書だ。――ああ、ちょっと待て。確か、書いてあったな」
カジキは分厚い計画書を開いた。
「第八条。不測の事態。不測の事態が生じたときのために巻末にQ&Aを設けておく。えーと、Q1;敵から予想外の反撃にあった場合。Q2;マスコミに嗅ぎ付かれた場合。Q3;仲間が裏切った場合。Q4;警察が動き出した場合。――これだ。このQ4だ!」
「何と書いてあるんですか!?」
「A;警察には臆することなく、毅然とした態度で立ち向かうこと」
サイとコヤギのすがるような視線がカジキに突き刺さる。
「いや、まあ、あれだな。あのう、つまり、がんばれということだな」
「アニキ、そんないい加減な計画書でいいんですか」
「サイ、そう怒るな。いままでこれでやってきたんだ」
「そう言われても」
「だいたい、お前らがトロイからだぞ!」
カジキが逆ギレを起こして計画書をブンブン振り回し始めたが、ウサギは気にすることもなく、中が覗けないように銀行内のカーテンをしっかりと閉めて回っていた。
そして、サイとコヤギに対してカッカと怒っているカジキに言った。
「ねえ、アニキ。そんなに心配せんでもエエやんか。人質もいることやし」
「えっ、人質って、どこに?」
「ここにいるやん。ウチが人質やんか」
ウサギがうれしそうに胸を張った。
青い車公園の主である青いワゴン車は住みついていたニセの爺ッ様がいなくなって、また元の無人に戻っていた。
イチョウの木の下で、あぐらをかいて座っていた大学生のヤマネこと本物の爺ッ様は、耳からイヤホンを抜くと、首を二、三回グルグルと回した。
「うーん、カジキさん、失敗しちゃったか」
独り言をつぶやいたが、目の前を歩いていたジャンパー姿のホームレスは、気にも留めないで通り過ぎて行った。
青い車公園のホームレスたちは、他の公園にタムロしている人たちと違って、お互いに何の関心も示さないで暮らしていた。自分が生きるので精一杯ということもあるが、どうやら一匹狼的な性格の人たちが揃ってしまったようだ。だから、みんなで集まって、焚き火をしたり、宴会をしたりすることはない。
爺ッ様はそれが気に入っていた。
このイチョウの木の下にいても、誰も気に止めないし、話しかけてくる人もいない。一人でいるには、もってこいの場所だ。闇の派遣業も、かなりの固定客がついているし、食べるにもさほど困らない。電気泥棒が見つかったら、さっさと違う場所に移る予定だが、今のところ、電力会社は気づいてないようだ。
「うーん、やっぱり他の二人のできが悪かったのかなあ。カジキさん、ロクでもない奴らを紹介しやがってとボヤいていたしなあ」
そうつぶやくとイチョウの木を見上げた。まだ少し寒さが残る初春。イチョウの木に葉っぱはついてなく、細い枝は寒そうだ。しかし、すぐに芽を吹き出すだろう。いったん芽が出だしたら早い。たちまち細い枝は緑色に包まれる。
どうやら今日はカジキさんの天敵であるミカン泥棒のカラスは来ていないらしい。
爺ッ様は横に置いてある薬が入った袋を見た。カジキが腰痛に効くといって持ってきてくれたものだ。
あまり期待しないで、服用してみたが、今まで試した薬の中では、一番効果があった。漢方だから、即効性はないと言っていたが、たちまちのうちに痛みが和らいできた。
カジキのおばあさんが使っていたという。
ばあ様に効くものは、爺ッ様にも効くらしい。
爺ッ様はゆっくりと背中を伸ばすと、ノート型パソコンにつないでいたスマホをはずして、電話をかけた。
「はい、熊山警察署です」
「今起きている強盗人質事件の件で情報を提供いたします」
銀行の建物に向けて、犯人たちを威嚇するかのように、何台ものパトカーが並んでいる。まるで、砂糖菓子に群がるアリの集団のようだ。
ラクダ本部長はその中の一台のパトカーのドアに身を隠して、双眼鏡を片手に銀行の窓を見つめていた。先ほど、チラッと小さな女の子が見えたからだ。
たぶん、人質になっている子どもだろう。
逃げてきた行員によると犯人は三人組。帽子とマスクをしていて、一人は中肉中背、一人痩せていて、一人は太っていたという。年齢、性別、国籍は不明。
ただ、中肉中背の男が行員の逃げる際に、おい、待てよと叫んだので、この男は日本人だと思われた。ただし、この男が示した“カネ 金”と書かれた紙があるのだが、その字がとても汚く、日本人ではなくて、漢字を書き慣れていない外国人ではないかという憶測もなされていた。
四人の客も含めた目撃情報によると、三人組は何も手に持たないで、その紙を見せたと言う。痩せた男はリュックをかついでいて、太った男は片手にバッグを持っていただけで、主犯格は手ぶらだったため、たいした武器は持ってないと判断され、早い段階での強行突破も視野に入れられていた。
しかし……。
パトカーの無線が鳴った。
「捜査本部長のラクダだ」
「署です。たった今、犯人についての情報が入りました」
「何! やけに早いじゃないか。情報源はどこだ」
「青い車公園のホームレス大学生だそうです」
「ホームレス大学生とは何だ。ホームレスが大学に進学したのか、大学生がホームレスに就職したのか、どっちだ?」
「いや、そこまでは聞いてませんが」
「それくらい聞いておけ! まったく、ホームレス大学生とは変な人種がいたもんだな。――それで?」
「はい。犯人は三人組で年齢、性別などくわしい属性は分かりませんが、主犯格は強盗のプロフェッショナルで、一人は火薬銃器類のプロフェッショナルで、もう一人は車のプロフェッショナルだそうです」
「何だと!」
「ですので、迂闊に手を出すと危険だから気をつけろと。そこまで言って、切れました」
本部長は無線を切ると、フーッとひとつ息を吐いて、天を仰いだ。
強盗と火薬銃器と車のプロフェッショナル集団だと。
そんな奴らが、なんで、わしの持ち場に集まりやがったんだ。
これでは強行突破などできん。たぶん武器を隠し持っているはずだし、万全の準備をして、犯行に及んでいるはずだ。たまたま緊急自動シャッター装置には気づかなかっただけだろう。
「三人のプロがこんな田舎で、よくも大それたことをしやがったな」
本部長はもう一度大きな手で無線機を握ると、大きな声で叫んだ。
「捜査本部長のラクダだ。全員、よく聞け! 敵はドリームチームだ!」
Turuuu…。
電話が鳴った。四人はビクンとした。
いつもは行員の声とお客さんの声といろいろな機械音が混じっているため、店内では電話の音もそんなに大きくは感じることがないが、静まり返った今は大きく鳴り響いた。
「放っておけ!」
カジキが電話のベルに負けないほどの大きな声で叫んだ。
「はい、こちら第八中央銀行熊山出張所です」
「こらっ、サイ。なんで取るんだよ!」
サイは受話器を片手で押さえながら、怒ってるカジキに言った。
「すぐ近くに電話があったもので、条件反射で取ってしまいました」
「バカか! 警察かもしれんぞ」
「しかし、オバさんの声でした」
「オバさんの女性警官だっているだろ。――まあ、いい。用件を訊いてみろ」
「もしもし…。はい… ああ、そうですか。――アニキ、預金残高を知りたいそうで、口座番号と暗証番号を言ってます」
「どうやら本物の客のようだな。だったら適当に答えておけ」
「お待たせしました。残高は百万円です。えっ、はあ、そうですか。――アニキ、先月までは五十万円だったのに、なぜ百万円になったのかと訊いてます」
「そんなもの、適当に答えておけ!」
「あの、お客様。今年はアイルトン・セナ没後三十年でして、残高を増やさせていただきました。はい、そうです。では失礼します――アニキ、お客さんは喜んでました」
「当たり前だろ。急に残高が二倍になったら誰でも喜ぶだろ」
ウサギがサイを見上げて言った。
「でも、ちょっと考えたら、おかしいと気づくんと違う? また、オバさんが怒ってかけてくるかも…」
Turuuu…。
「わっ、来た! ぜったい、さっきのオバさんやで」
「サイ、今度こそ放っておけよ」
ラクダ本部長はパトカーの中で、銀行関係者から手に入れた銀行の見取り図を広げていた。
銀行の東側に警察が取り囲んでいる正面玄関がある。西と南は高いブロック塀で囲まれているため、脱出は不可能。北には裏口があるが、行員の機転により自動的に鍵がかかり、外に出ることはできない。
しかし、奴らはプロ集団だ。何をしでかすか分からない。ラクダは副本部長代理見習いのヒツジに命令をして、裏口に警察車両と人員を配置していた。
しかし、あくまでも主力は正面玄関だ。そこからは北と南に向かう道路が伸びていた。
本部長のラクダは窓を開けると、外でスマホを握って立っている捜査副本部長のヒンバに声をかけた。
「どうだ?」
「だめです。ずっと鳴らしていますが出ません」
ヒンバの副本部長としての最初の仕事は、犯人が立てこもっている第八中央銀行への電話連絡だった。
「やはりダメか。まさか犯人がハイハイと出てくるわけはないからな。もしかしたらと思ってかけてみただけだから、気にするな。しかし犯人が何らかの方法で、何らかの要求をしてくるはずだから、もう少し鳴らしてみてくれ」
「了解しました」
「副本部長。自分が代わります」
そう言って、ヒンバから無理矢理スマホを奪い取ったのは、捜査副本部長代理のカバだった。カバ捜査副本部長代理は犯人の一味が出たら、説得して投降させようと目論んでいた。
俺が犯人と交渉して、事件を解決させてやる。
交渉人、ネゴシエーター。
なんて素敵な響きだろう。この日のために「交渉人真下正義」の映画を何度観たことか。成功して、捜査副本部長代理から捜査副本部長へと昇進してやるんだ。
「もしもーし、もしもーし」
カバ捜査副本部長代理は出そうもないスマホに向かって叫び続けていた。
それを見たラクダ本部長はつぶやいた。
「こんな単純な作戦にはそう簡単に引っかからないだろう。なにしろ相手は、三人のプロが集まったドリームチームだからな」
グウーッ。
「おい、サイ。なんでこんな緊張した状況下で腹の虫が鳴るんだよ!」
「はい、すいません」
「はあ、でもボクもお腹が減りました。お腹が空くと、良いアイデアも浮かんでこないと思うんですが」コヤギも嘆く。
ウサギが裏からドタバタと走ってきた。肩から拡声器をぶら下げている。
「ほら、アニキ、こんなもん見つけたで。ようテレビでやってるやんか。これ使って警察と話したらエエと思うねん」
「おう、そりゃいいな。こらっ、サイとコヤギ! ちょっとはウサギちゃんを見習って働けよ。ウサギちゃん、聞いてくれよ。こいつら、腹が減ったとか抜かしやがってよ、困ったもんだぜ」
お腹が空いて力が出ないのか、二人は客用のソファーにグタッと座り込んでいた。
サイは大切そうに無理矢理買い付けたF1ミニカーを持っている。
コヤギは大事そうに花火が詰ったリュックを抱えている。
ウサギは意外と重かった拡声器をアニキに渡して、肩が軽くなったので、ピョンピョン跳ねていた。
「でも、ウチもお腹空いたなあ」
「そうでしょ! やっぱりなあ。仕事をした後はお腹が空きますよねえ」
サイがうれしそうに跳ねているウサギへうれしそうに話しかけた。
「何が仕事をしただ。ミニカーで遊んでいただけだろ」
カジキはそう言って怒鳴ってみたが、ウサギにまでお腹が空いたと言われて、困ってしまった。
「そんなこと言ったってよ、ここは食堂じゃねえぜ。銀行に喰いもんなんてねえよ。裏に冷蔵庫なんかねえんだろ?」
そのときウサギがひらめいた。
「そうや、エエこと考えた! 出前取ったらエエんや」
ラクダ本部長はいら立っていた。
プロフェッショナルが揃った強敵だというのに、他の署からの応援がすぐにはできないという。こちらの事件とは関係ないが、他でも大きな事件がいくつか起きているらしい。ヘリコプターの要請もたちまち断られてしまった。
「くそっ、いつもはヒマそうにしているくせに、こんなときに限って人手が足らないとはどういうわけだ」
いら立ちながら、鳴り出した無線に出た。
銀行の前にはずっと、真っ赤なオープンカーが停められていた。
まさか、あんな目立つ車で銀行強盗を働くか? 犯人は三人組だという。三人があの車に乗って……。ルパン三世じゃあるまいし。
だったらわしはいつもルパンに逃げられている銭形警部か?
いくら待っても持ち主が現れないため、もしや犯人たちが乗って来た車ではないかと、照会をしてもらっていた。その連絡が来たようだ。
「本部長のラクダだ。どうだった?」
「ナンバー照会ですが、該当がありません」
「何だと、該当なし? 偽造されてるのか」
きっとこの車で逃げるつもりだったのだろう。奴らの中には車のプロがいるらしい。たぶん警察車両など簡単に振り切って、逃げおおせるに違いない。では今のうちに車を押収しておくか。――いや、だめだ。奴らの中に火薬銃器のプロがいる。もしかしたら罠かもしれん。動かしたとたん、爆発を起こす可能性もある。そこまで計算をしているか? いや、奴らの中には、車と強盗のプロもいる。どんな作戦を立ててきているのか分からない。
しかし、車を乗り換えるという可能性もあるな。
「ヒンバ副本部長。今のうち、奴らのために車を一台用意しておいてくれ。地味な国産車だ。どうせ、くれてやるんだ。経費もないから安物でいい」
ヒンバが無線で指示を出しているのを横目に、ラクダは銀行の小さくて静かな建物を見つめた。
このまま黙って見ているしかないのか。いや、いずれ犯人側から、何らかの要求があるはずだ。食料もない中、長期にわたって篭城を続けても意味はない。こうやって警察が囲んでいることも見えているはずだ。夜になると不利だ。日が明るいうちに、必ず奴らは動くはずだ。
「ラクダ本部長! 銀行の窓が開きました。拡声器が見えます」
来たか!
ウワサをすれば何とやら。
ラクダは無線機に向かって叫んだ。
「全員、犯人の要求を一字一句、漏らさずに聞け!」
“オマワリさーん、出前持ってきてー!”
ウサギが少しだけ開けた窓のすきまから、拡声器を使って叫んでいた。
ラクダ本部長が拡声器を手にパトカーから出てきた。
強盗の野郎、ふざけやがって。人質の女の子を利用するとは、なんて卑怯な奴らなんだ。しかし、人質がいるとはいえ、舐められたらイカン。最初は強気で押さなくては、調子に乗せると、だんだんエスカレートしていくものだからな。
「私は捜査本部長のラクダだ。出前などというふざけた要求は呑めん。見ての通り、キミたちを警察が取り囲んでいる。あきらめて出てきなさい」
パトカー内で待機していた警官がすべて外へ出てきて、銀行の正面に集結した。特殊強化ガラスでできた盾があちこちで鋭い光を放っている。また、銃器のプロがいると聞いて、全員が防弾チョッキを忘れずに装着している。この姿を見せるだけで、犯人たちには相当のプレッシャーになるだろう。
ラクダ本部長はヒンバ副本部長と並んで彼らの先頭に立ち、犯人からの返答を待っている。すぐ後ろにはカバ捜査副本部長代理が待機し、銀行の裏口にはヒツジ捜査副本部長代理見習いが張り込んでいた。
「どうだ、この布陣を見たか。奴らは、我々が田舎警察だと思ってバカにしてたんじゃないか。熊山警察署の全勢力を見やがれ。そっちがプロ集団なら、こっちもプロ集団だ」
ヒンバが冷静に言い放つ。
「そうですね。これでは降参するのも時間の問題でしょう」
そのとき、ウサギの悲鳴が聞こえた。
“ちょっと、何すんのー! 背中にライフル銃を突きつけるのはやめてよー”
「何だと! 全員、車内に戻れ!」
ラクダ本部長に命令された警察官たちが、あわてて警察車両内に待避する。
ヒンバ副本部長は大きく手を振って、警官たちを誘導し、カバ捜査副本部長代理は警察が張った黄色いテープぎりぎりに押し寄せていたヤジ馬たちへ、下がるようにと指示を出していた。
「ちょっと、そこ! 電柱の陰から顔を出してるひょう柄の服を着たオバサン! そんなところにいると、ライフルで額をぶち抜かれるぞ」
カバが大げさに怒鳴ったおかげで、ヤジ馬は蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。
ひょう柄オバサンも、ヒョウより早く走って逃げた。
ラクダは一度大きく深呼吸をして気を静めると、無線で全員に通達した。
「みんな、聞いたな。奴らはライフル銃を所持している。いいか、決して刺激をしてはならんぞ。では今から戦闘隊形の変更を行う。銀行の建物に前を向けて並べているパトカーを縦列にする。銀行にどてっ腹を向けるように移動する。つまり、ドアの陰に隠れていても、ライフルでぶち抜かれる可能性があるため、パトカー本体の陰から戦況を見守るというわけだ。奴らの中に火薬銃器類のプロがいることを忘れてはいかん。ライフル銃を強力に違法改造しているかもしれん。それと、警察犬も引っ込めろ。ライフルの前にさらすと、動物愛護協会から怒られるかもしれん。分かったな。ただちに行え!――ヒツジ見習い、聞こえるか。裏口のドアから少し離れろ。奴らはライフル銃を所持している。何か仕掛けてくるかもしれん」
パトカーが移動を始めた。
横では思わぬ展開に、ヒンバ副本部長も青ざめている。
深呼吸の効果もすぐになくなって、いら立ってきたラクダはうろうろしながら、わめき始めた。
「くそっ、なんてことだ。やはり銃器のプロがいるというのは本当のことだったのだな。しかし、どうやってライフルを持ち込んだんだ。目撃情報では犯人が持っていたものはリュックとそんなに大きくはないバッグだけだったはずだ」
ヒンバがラクダの独り言に答える。
「本部長、携帯式のライフルではないでしょうか?」
「リュックで持ち込んで、銀行内で組み立てたというのか。武器を持っていたことを悟られないとは、さすが銃器のプロだけのことはあるな」
ラクダが自嘲気味につぶやいた。
「しかし、今に見ておれ。ぜったいに捕まえてやるからな。明日の新聞のトップ記事は熊山警察署の大手柄だ。イノシシヘッドロック事件以来、こんな出来事をどれだけ待ったことか」
続けてラクダ本部長は幹部に指示を出した。
「われわれ指揮系統も陣営を変える。私たちはこのまま正面玄関を張る。ヒンバ副本部長は部下を連れて建物のやや北に寄ってくれ。ヒツジ見習いはこのまま裏口に張り込んでもらう。カバ副本部長代理は三ヶ所を行き来して、連絡を取り合ってくれ。それと奴らは銃器類を所持している。刺激をしないように、こちらからの連絡は極力控えることにする。――以上だ!」
一方、銀行内でも大騒ぎになっていた。
ここにも青ざめていた人たちがいる。
「ちょっと、ウサギちゃん、何てことを言うんだ。俺たちはライフルなんか持ってないし、脅してもいないぜ」
「そ、そうですよ。ボクの花火も安全検査に合格したSFマークが付いているものばかりですよ」
カジキとコヤギが顔をひきつらせて言う。
サイはカーテンのすきまから外をのぞいていた。警官があわただしく走り回り、警察車両があちこち移動を始めている。
「なんだか、ウサギちゃんの一言で警官がパニックになってますけど」
事が大きくなってあわてた三人が口々に文句を言ったが、ウサギは、
「エエの、エエの。これくらい言わな、出前持ってきてくれへんで」と、すました顔をしている。
「そんなことより、サイくん。窓際に立ってたら、スパイナーに狙撃されるで」
「えっ? わっ、わっ、わっ、わっー!」
サイは悲鳴を上げながら、太った体とは思えない早さでドタバタと走り回って、ソファーの下にスライディングすると、見事にその身を隠してしまった。
それを見たカジキ。
「まったくよお、サイさんがそのスピードを普段から出してくれてたら、こんな所に閉じ込められなくて済んだのによお」
サイはカメのようにソファーの下からデカイ顔だけ出して、
「はい、今後は気をつけます!」と、元気に宣言した。
カジキはあきれて、サイのデカイ顔を見下ろした。
まったく、今後なんかあるわけないだろうが。同じ仲間と組むのは一回きりだ。仕事が終われば二度と会うことはない。いままでそうやって仕事をしてきた。
それでしくじったことはない。自分自身だけしか信じていないからだ。
「あっ、そうだ」
カジキはまだソファーの下から出てこないサイを見て思い出したことがあり、計画書を開いた。
第八条。不測の事態。Q5;死亡時の対処方法。A;各自、生命保険に加入しておくこと。
「二人とも、ちゃんと保険には入っておいただろうな!」
「はい!」「ご心配なく!」
そのとき、ラクダ本部長の声がした。
“分かった。要求どおり、出前を持っていく。何がいいか、答えてくれ。なるべく希望に添えるようにする。だから人質には決して危害を加えないようにしてもらいたい”
「どうする? 何がいい?」
カジキがなんでこんなことになるかなあと思いながら、ウサギに尋ねる。
「ウチにまかせて!」
そう言うと、窓のすきまから拡声器を突き出した。
「オマワリさーん。きりんや本店の松花堂弁当を四人前、持ってきてー。一個は大盛りにしてー。それと、玉露のお茶も付けろって、犯人が言うてるでー」
よしっ、これでエエわと、ウサギは満足そうな顔をしているが、カジキは不安そうな顔をしていた。
「ウサギちゃん、きりんやというのは高級料亭じゃねえのか?」
「そうやで。入ったことないけど、入り口に“出前、承ります”て書いてあんねん。うけたまわりますて読むんやて、お店の人が言うてはったわ。そやし、持ってきてくれると思うわ。松花堂弁当、めっちゃおいしそうやで。それと、いっぱい食べそうなサイくんのために一つは大盛りにしてもろたで」
「ウ、ウサギちゃん、やさしいんですね。私……」
「こらっ、サイ! こんなことで泣くな。気味が悪い」
カジキが睨みつけたが遅かった。
すでにサイの頬には大粒の涙が伝っていた。
ラクダ本部長は怒り狂っていた。
「何が松花堂弁当と玉露のお茶だ! 何が一個は大盛りだ! ええっ、みんな、そんなもん喰ったことないだろ。そうだろ、公務員の安月給じゃ、高級料亭の弁当なんか、どう考えても無理だ。それが、あいつらときたら、タダで喰おうとしてやがる。しかも人質の子どもにそんな要求を言わすとは、なんて卑怯な奴らだ」
しかし……。
どういうことだ。この余裕はどこから来てるんだ。強盗が見つかったら、まず逃げることを考えるものだろう。ところが、奴らときたら、弁当で腹ごしらえだと? 警官に囲まれている中で、のんきに弁当を喰う強盗犯なんか聞いたこともない。なぜだ? 人質がいるからか。銃器を所持しているからか。それとも、他に何かを企んでいるのか。
弁当を喰ったら、さらにエスカレートした要求が来るに違いない。それは何か分からない。しかし、プロ集団の考えることだ。とんでもないことに違いない。それまでに何としても解決しなくては。
「おい、きりんや本店に連絡はついたか」
ラクダの大声にカバ代理が駆けつけた。
「はい、今、電話で事情を話して、松花堂弁当と玉露のお茶を四人前、頼みました。それと、店名が入った制服も一式頼んでおきました」
「よしっ、見ておれ、強盗団! わしが一気に解決してやるからな」
ラクダ本部長はそう言って、制服を脱ぎ始めた。
ウサギは無邪気にエアーなわとびをしていた。なわを持ってなくても、跳んでいるだけで練習になると先生に教えてもらったからだ。
それを三人の強盗団が見ている。銀行強盗に入ったがいいが、閉じ込められてしまって、これからどうしていいか分からないので、弁当の出前が来るまで、なわとびの見物でもするしかなかった。
いったいボクたちはどうなるのでしょうかと、コヤギがカジキに訊いたが、カジキにも分かるわけがない。長い泥棒生活の中で、こんな大事件になったのは初めてで、今更ながら後悔していた。
カジキは泣きそうな顔になっていたが、ウサギは無邪気なままだ。
「ねえ、サイくん。なわとび、うまい?」
「いやあ、私はこの体形ですから、無理ですよ」
「でも、ウチのクラスの太ってる子は練習してうまくなったで。だから、あきらめんと練習してみ。ほら、これがエレファントトードで、これがダブルアンダートードやで」
ウサギが跳ねる。
「ねえ、コヤギくんはなわとび、うまい?」
「はあ、ボクはスポーツが苦手なので」
「そんなん関係ないで。練習したら誰でもできるようになるで。これがサイドサイドクロスて言うねん。でも、サイドサイドクロスは三重跳びやから、めっちゃ、むずかしいねん。アニキはなわとび、うまい?」
「ああ、俺は得意だぜ。目をつぶったまま七重跳びができるぜ」
「ウソつきは泥棒の始まりやで!」
ウサギが跳ねる。
三人の複雑な心情も知らずに、ピョンピョン跳ねる。
「どうだ、似合うか?」
ラクダ本部長はきりんや本店が持ってきた白衣とエプロンを身に付け、帽子をかぶっていた。狭いパトカーの中で大きな体をクネらせながら、苦労して着替えたのだ。
きりんやの主人は本部長に劣らず、大きな体形だったので、制服がピタリと合った。しかし、ラクダの頭部が異常に大きかったので、帽子は申し訳なさそうに、チョコンと乗っているに過ぎない。
きりんやの配達員に化けて、出前を持って入ったときに人質を救出する。
そして、一気になだれ込んで、三人を一網打尽にするという作戦だ。
もちろん、制服の下には防弾チョッキを着て、拳銃を隠し持っている。
捜査副本部長代理のカバが恐る恐る言った。
「あのう、本部長。顔がちょっとばかし怖いですけど。高級料亭なのでもっと上品な笑顔を……」
「下品な顔で悪かったな! では、これでどうだ?」
それを見たカバ代理、
「あのう、自分が代わりましょうか?」
「いらん! これでいいだろ」
人相が悪く色黒でガタイのいい男が気味の悪い笑顔を浮かべ、岡持ちを持って立っている。
「お待たせいたしました。松花堂弁当、四つでございますね。ごゆっくりどうぞ。――どうだ。どっから見ても高級料亭の店主だろ、えっ?」
この後もラクダは口上の練習を繰り返した。
ウサギはトイレの中にいた。
なわとびをして汗をかいたので、顔を洗って、髪を整えていたのだ。
お母さんによく言われていた。女の子だから、身だしなみはちゃんとしておきなさい。まだ子どもだからといって、甘えていたらダメだからね。小さい頃から、そういう習慣をつけておかないと、大人になって恥をかくからね。
だから遊びに行くときでも、かならずハンカチとティッショは持たされた。忘れたら、すごく怒られた。
ウサギがお母さんの言葉を思い出して、この銀行のトイレの鏡で顔をチェックするのは、これで二度目だった。
もちろんお化粧をするわけではない。髪が乱れてないかを確認し、ヨダレの跡が付いてないかを確認し、歯の間に食べ物のカスが挟まってないかなどを確認するだけだ。
カジキはカーテンの隙間から空を見上げていた。先ほどから、銀行の上空をヘリコプターが旋回している。ウサギが言うように警察のスナイパーがライフル銃でも構えてこちらを狙っているのではないかと心配したが、事件を嗅ぎつけてやって来たマスコミのようだ。ボディーに新聞社のマークが描かれている。
「まったく、いまいましい奴らだぜ。写真でも撮られたら大変だな」
そこへ拡声器を持ったウサギがやって来た。
「ねえ、アニキ、これでヘリコプターを遠ざけるように言うたら? ついでに警察ももう少し離れてって言うたら?」
「おう、そうだな。やってみるか」
カジキは拡声器を受け取ると、窓のスキマから差し出した。
「えーと、えーと。あー、あのう……」
横からウサギが割り込む。
「ちょっと、アニキ。何を言うてんの?」
「いや、いっぱい人がいるんで緊張しちまって」
「普通に話したらエエねん」
「そ、そうだな。えーっと、えーっと、そこに立ってる警察の人!」
“なんだ! 自分は副本部長代理のカバだ。貴様は誰だ?!”
「あっ、俺はカジ……」
「ちょっと、アニキ! 何を名乗ってんの!」
ウサギに止められて、あわてるカジキ。
「いや、釣られてしまって思わず自己紹介を……」
「もうええわ。ウチが話す!――オワマリさーん、ヘリコプターと警察の車をもっと向こうにやれって、犯人が言うてるでー。逆らったら、ウチをライフルの餌食にしてやるて言うてるー!」
「ちょっと、ウサギちゃん、俺、そんなこと言ってないぜ」
カジキが警察に聞かれないように、ウサギの耳元で言った。
「エエの、エエの。これくらい言わんと聞いてくれへんし」
“分かった。要求を呑もう。だから人質の安全だけは約束してくれ”
「あっ、そうや。もう一つ言うとこ。オワマリさーん、お弁当に睡眠薬とか変なお薬を入れたらアカンでェ。それと、オマワリさんがきりんやさんに変装して来たらアカンでェ。そんなことしたら、犯人がウチをナイフで突き刺すって言うてるー。めっちゃ、怖いー!」
ラクダ本部長は胸にきりんやと刺繍されたエプロンをしたまま、呆然と立ち尽くしていた。
作戦が読まれていたのだ。
岡持ちを持つ手が怒りでプルプルと震え出した。そして、その震えが頭にも伝染して、小さな帽子がずり落ちそうになっている。
「なんて奴らだ。さすがプロフェショナル集団だ。そこまで気づいていたとはな。よほどの知恵者が揃っているということか。――ヒンバ副本部長! 作戦の変更だ。弁当は店の人に行ってもらう。いいか、できるだけ中の様子を探ってきてもらえ。特になんでもいいから犯人についての情報がほしい」
先ほどのカバ副本部長代理とのやり取りに出てきた犯人は、声からして中年の男だった。それだけ分かっただけでも大きな収穫だ。プロ集団だから、まさか二十歳そこそこのガキはいないだろうと踏んでいたが、やはり経験豊富なベテランの犯罪者たちで、チームを結成しているのだろう。
強盗のプロ、火薬銃器類のプロ、車のプロ、それぞれ前科者の中から該当者はいないか調べてもらっている。身元が分かれば、そいつが過去にどういう犯罪をやらかしたか分かるし、それに対して、どう対応し、どんな作戦を立てればいいかということも分かるというものだ。
しかし、まだ奴らの身元は割れていない。
ラクダ本部長は緊張した面持ちで、岡持ちを持って立っているきりんや本店の主人の背中を見つめていた。
犯人はライフルに加えて、ナイフも所持しているらしい。さすが銃器のプロがいるだけのことはある。ぬかりがない。ということは、他にも何らかの武器を用意しているかもしれん。
一応、ご主人にも防弾チョッキを着てもらっていた。
「きりんやさんにくれぐれも気をつけるように言ってくれ」
ラクダはカバ代理にそう命令すると、パトカーの陰に身を隠して、戦況を見つめた。
サイがバッグを持って、ソファーに座っているカジキのそばに来た。強盗に入ったときから小脇に抱えていたバッグだ。
「あのう、アニキ。コヤギくんもウサギちゃんも、ちょっと言いづらいのですが……」
そう言うと、サイはバッグから、白いハンカチに包まれた四角いものを出した。
「私、こんなこともあろうかと、家からお弁当を持ってきたのです」
弁当箱を見つめるカジキの目が点になった。
「サイさんよお、どこの国に弁当持参で銀行強盗をする奴がいるんだよ。まさか自分で作ってきたんじゃねえだろうな」
「いえ。今日大きな仕事があるといったら、母が作って、持たせてくれました」
サイは当然という顔をして、テーブルの上にお弁当を広げて、口から花粉症用の立体マスクをはずした。
ウサギとコヤギがお弁当箱を覗き込む。
「うわっ、めっちゃ、おいしそうやん。唐揚げと玉子焼きとウィンナーか。オカズの定番が揃ってるなあ。エエなあ、サイくん」
「はあ、ご飯の上に昆布も乗ってますねえ。ボクもサイさんがうらやましいです」
「はい、私の母は料理が得意なんですよ」
「でも、それ食べたら松花堂弁当が食べられへんのと違う?」
「それは大丈夫ですよ。お弁当二個くらいでは、まだ足らないくらいですから。両方のお弁当はちゃんといただきます。特に母が作ってくれたお弁当を残さず食べるのは、親孝行のはじまりですからね」
まだ目が点になったままのカジキが言う。
「あのなあ、サイさんよお。今、銀行強盗の真っ最中なんだぜ。それなのに、なんでオフクロさんが……」
「いただきまーす!」
「これじゃ、親孝行なのか親不幸なのか分からねえじゃないかよ」
サイはカジキの話を全然聞いてない様子で、口の中に巨大な玉子焼きを放り込むと、バッグから一リットル入りのお茶のペットボトルを取り出して、ゴクゴクと流し込んだ。
それを、うらやましそうに見ていたウサギとコヤギ。
「早よ、松花堂弁当、来いひんかなー」
「そうですねえ。ボクも早く食べたいです」
ウサギはカーテンのすきまからそっと外を見た。
承りますという漢字の読み方を教えてくれたきりんやの人が、お弁当が入った岡持ちと玉露が入ったポットを持って、こっちに歩いてきた。
「お弁当はウチが受け取るし、みんな隠れてて!」
サイが大事そうにお弁当を両手で持って、ドタバタとソファーの下に向って駆け出した。
カバ副本部長代理が中腰になって、最前線にいるパトカーに近づいてきた。
「おい、お弁当屋さん、こんなところにいたら危ないだろ!」
「誰が弁当屋だ!」
「あっ、本部長! 割烹着のままでしたので……」
「あっ、脱ぐのを忘れていた」
いそいそとエプロンをはずして、白い上着を脱ぐラクダ本部長。
本部長はきりんやさんの服に小型のマイクを仕込もうと思っていたが、万一のことを考えてやめた。相手はプロの犯罪者集団だ。簡単に見つけるだろう。仲間の警官ならともかく、素人さんを危険に晒すわけにはいかない。そのかわり、行内を注意深く観察するようにお願いをしておいた。
やがて、きりんやの主人が疲れた顔で、お弁当の配達を終えて戻ってきた。どうやら危害を加えられることもなく、無事だったようだ。
さっそく、ラクダ本部長が声をかけた。
「ご苦労さんでした。中の様子はどうでしたか」
「それが窓からお弁当を受け取ったのは女の子で、おおきにと言ったきり何も言わず、犯人たちは奥に隠れているらしく、見えませんでした」
「そうか。また作戦が読まれていたか。シッポを摑ませないとは、さすがプロ集団だな。人質の女の子には、何も言わないように命じていたのだろう――いや、気にしないでください。きりんやさんは何も悪くありません。よくやってくれましたよ。ただ、奴らがとてつもない知能犯というだけの話です」
「あのう、その女の子ですが、少し前に見かけた子だと思います」
「――何!」
「私が店の前に出ましたら、その子がちょうどショーウィンドーを覗き込んでいまして、少し話をしました。たぶん小学校の四年生くらいだと思います。その後、銀行の方向へ歩いて行きましたので、まちがいないと思います」
「ということは、その女の子は近所に住んでいる可能性があるな。――よしっ、ヒンバ副本部長、聞こえるか。きりんや本店さんの近くで連絡が取れなくなっている小学生がいないかどうかを聞き込んでくれ。分かってるな、関西弁でしゃべる女の子だ」
ラクダ本部長は無線機に向かって大声で命令した。
「いやあ、きりんやさん、貴重な情報をありがとうございます。事件と言うものは、こういう小さな情報を積み重ねて解決していくものですから非常に助かります。――では後で、熊山警察署宛てに弁当の請求書を送ってください」
「はい、承知しました。三万二千円の請求書をお送りしておきます」
「なにっ、三万二千円もするのか!」
ラクダが目玉をひんむいたが、きりんやさんは柔和な商売人の顔に戻り、ニコリと笑って、左様でございますと言った。
重荷から介抱されたきりんや本店の主人は、警察の黄色いテープの外に出ると、たちまちマスコミの記者に囲まれていた。
ヒンバ副本部長がラクダに言った。
「本部長、残念でしたね、せっかくのチャンスに。あっ、本部長、帽子をかぶったままですけど」
「あれっ? ご主人、すいませーん、帽子を返すのを忘れましたー!」
ラクダはきりんやというネームが入った白い帽子を持って走りだした。
「いただきまーす」静かな銀行内に声が響いた。
初めて食べる高級料亭の松花堂弁当に四人はワクワクしていた。
フライングしてフタを開けて覗き込んでいたサイがあわてて閉めて、みんなと一緒に合掌した。
「サイさんよお。さっきオフクロさんの弁当を喰ったばかりだろうが」
「はい、あれはあれ、これはこれですから。どっちも楽しみです。しかし、できれば青空の下で食べたかったですねえ。ここは殺風景すぎて、おいしさが半減してしまいます。そう思いませんか、ウサギちゃん」
「ウチもそう思うで。教室の中で食べるお弁当より、遠足へ行って外で食べる方が、めっちゃおいしい……」
――そのとき。
パチパチパチ…。
何かが弾ける音がした。
ウサギの声が止まった。カジキが立ち上がって、辺りを見回す。
「こらっ、コヤギ! 何だそれは!」
コヤギの弁当に何本もの花火が立って、火花を散らしていた。
「アニキ、心配しないでください。これは家の中でやるパーティースパークという花火ですので、危険性はありません」
「危険かどうかじゃなくて、弁当に花火なんか立てて喰うなよ!」
カジキは怒るが、コヤギはうっとりと花火をながめている。その横で事情が分かったウサギも楽しそうに見ていた。
お弁当の上に所狭しと刺さった三十本の花火がパチパチとスパークしている。
「コヤギくん、それテレビで見たことあるで。どっかのお店でジャンボパフェを頼んだら、この花火を刺して出てくるねん。お誕生日のお客さんにも刺してくれるねん。でも、こんなにようけ刺さってへんかったけど」
「はい、そうです。パーティー会場とかスイーツの店なんかでよく使われてますよ。アニキはご存じないですか?」
「ふん、パーティーもスイーツも縁がないんでな」
カジキはそう言ってふてくされた。
「でも、コヤギくん、めっちゃきれいやなあ」
「そうでしょ。やっぱり高級なお弁当にはこれくらいの演出が必要だと思います」
コヤギが燃え尽きた三十本のパーティースパークを引っこ抜いて、お弁当タイムが再開された。
ウサギが言った。
「ねえ、ねえ、みんな。お弁当は何から順番に食べるか知ってる?」
「分かんねえなあ」カジキは揚げ物の鱧を頬張りながら言った。
「はあ、ボクも知りません」コヤギは焼き物の鰤の照り焼きを突っつきながら言った。
「私も分かりません」サイは煮物の海老にかぶりつきながら言った。
ウサギは得意そうに言った。
「お弁当箱のフタの裏に付いてるご飯粒から食べるんやで。ご飯一粒でも大切に食べなアカンねん。お百姓さんが一生懸命に作ってくれはったんやからね」
「えっ?」「えっ?」「えっ?」
三人は恐縮して、それぞれ食べていた鱧と鰤と海老を元に戻すと、お弁当箱のフタの裏側に付いてるご飯粒を丁寧につまみ始めた。鯛の炊き込みご飯だった。
「ウサギちゃんといると、いろいろ勉強になります」
ご飯粒を食べ終えたコヤギが白身のお造りを食べながら言った。
八寸の胡麻豆腐を食べていたウサギは照れながらエヘヘと笑って、玉露を口にした。
「うえっ、苦っ!」
ヒンバ副本部長から、ラクダ本部長が待機しているパトカーに無線が入った。
「本部長、CC二台の準備が整いました。北部方面と南部方面にあるコンビニの店長に事情を話して、それぞれの駐車場に置いてもらってます。本部長のCCは言われた通り、南部に置いてあります。それと犯人が乗り換えるための地味な国産車も用意ができました。それは、すぐにそちらへ向かわせます」
ヒンバはそう言って、車の車種と年式を伝えた。
「よしっ。CCはくれぐれも犯人に気づかれるなよ。奴らの中に車のプロがいる。だから、絶対に投降などしないで逃げるはずだ。そのとき、あの車は使わないと読んでいる」
ラクダの目の先には銀行の前に停めてある、真っ赤なオープンカーが停まっている。
「あれで逃げたのでは目立ちすぎる。だから乗り換えるだろう」
「しかし、なぜあんな車で犯行をやらかしたのでしょうか?」
「いや、それは分からんが、プロ集団の考えることだ。何か深い理由があるのだろう。我々を混乱させるために、わざとあんな車に乗ってきたのかもしれん。――この正面玄関からは北と南に向かう国道が伸びている。右折禁止だから、普通なら北へ向かうはずだ」
「奴ら、ちゃんと交通ルールを守るでしょうか?」
「分からん。しかし、守ると仮定してだな、まず北部に置いてあるCCで先行する。その後を犯人の車が走り、その後をわしが乗るCCで追いかける。つまり、挟み撃ちにするわけだ」
「南に向かったときには、CCの前を通過させて追うまでだ。そのときは、わしのCCが先行する形になる。いずれにせよ、コンビニに停まっているCCが警察の車だとは気づかんだろう。――ところで、本部名が書いてある紙はどうした?」
「“第八中央銀行熊山出張所強盗人質事件捜査本部”ですね。ちゃんと本部長が乗るCCの入り口に貼っておきました」
「おお、気が回るじゃないかヒンバ副本部長。――よしっ、先行するCCにはキミが乗って指揮をとれ!」
「はい、がんばります!」
ヒンバ副本部長は捜査本部長に昇進する絶好の機会が巡っていたことに、内心ワクワクしながらも、気を引き締めていこうと自分に気合を入れた。
その声を聞いて、ますますやる気を出したラクダ本部長。
「よしっ、見ておれ。何がドリームチームだ。何が頭脳集団だ。そんな奴ら、熊山警察署のエリート署員が瞬殺してやるわ!」
中編につづく。