第4章
翌週の月曜日、第1講目から第3講目まで講義を受けてのち、ギルバートはERで実習があったので、そこへ午後から詰めた。一応実習時間は四時間ではあったが、結局のところなんだかんだで時間通りに帰れない……といったようなことはザラだったといえる。
もっとも、このあたりユトランド共和国では2000年代初頭にかなりのところ改革が進んだと言われている。その前まであったように、待機時間含め36時間ぶっ続けで働き、その後一日オンコール当番でなくなるとはいえ、この間も大学の講義へは半分眠りながら参加する――といったような、医学部の伝統は終わりを迎えたのである。今では、医学生、インターン、レジデントともに、医療ミスを防ぐという観点から見ても、一日最低6時間は睡眠を取ることが推奨されている。もっとも、このあたりに関し、病院の体制として完全に守られているとまでは言えないにせよ、そのような厳しい限界を試され、医師というものは一人前になってゆく……という旧来型の教育制度は徐々にではあるが、年を追うごとに廃れていっているのは事実である。
ゆえに、1990年代まで旧来型の教育制度の中で医師になった者たちは、それ以後の医学生らに対し、「今どきの医学生ってのは生っちろくなっちまったもんだよな。俺たちが学生だった頃は24時間ぶっ続けで働き、その後一日待機当番なんてのも当たり前だったっていうのに……今じゃ、お役所から厳しく取り締まられるってことで、医療労働組合様が黙ってないんですと」と、あらゆる機会を見つけてブツブツ説教するというのは――今も、大学病院内のあちこちで見られる光景だったといえる。
ゆえに、この日午前中から三コマ分(計四時間)の講義を受け、その後昼食を済ませてのち、午後から四時間の実習を受けるというのは……他の学部では考えられない長い拘束時間であったにせよ、あくまで以前まであった医学部の教育方針と比べれば――これでも随分緩やかになったと言えたに違いない。
もっとも、この医学部の教育方針は外部からは一定の評価を受けているにせよ、大学病院内部からは不満と不評が非常に高い。何故かといえば、自分が担当になった患者をある程度連続して診続けないことには医療技術は身に着かないものだし、患者にしても一日に担当医師が二度も三度も変わったのでは病院の管理体制に不信を抱くからである。その点、二十四時間(+待機当番12時間)ずっと病院内にいて何かあればすぐ駆けつけられる体制というのは――今も一人前の医師になるためには欠かせないハードワークだと考える医学部の教育陣は多いのである。
この日、ギルバートが実習時間にERへ参上すると、すでに廊下が血まみれで、警官らが何人もロビーに詰めているといったこともなく……珍しく救急部は比較的穏やかな午後であった。彼はまず数人の医学生とともに会議室にて、インターンやレジデントらとミーティングを行った。それから、自分に振り分けられたレジデントに「ついて来い」と言われ、ICUへと向かう。
するとそこでは、ギルバートが先週気にしていた患者を巡り、ERの熟練看護師とシニア・レジンデントとが、言い争っているところだったのである。
「この状態で透析までするですって!?馬鹿も休み休み言ってくださいませんか、先生」
「いや、そこまでやる価値はあるよ。もちろん、君の言いたいことはわかる。キーン氏は状態も悪いし、このままいけば早晩亡くなる可能性のほうが高い。にも関わらず、これ以上看護師に負担のかかる治療までするなと、そう言いたいわけだろう?」
「わかってらっしゃるじゃありませんか。キーンさんは、五分五分の可能性どころか、もう明日にでも亡くなりそうなくらいですよ。あくまで人工呼吸器が彼を生かしているだけなんですから、わたしが先生のお立場であれば、キーンさんのことは一般病棟へ移し、もう亡くなるのは時間の問題だとして、家族のみなさんできちんとお別れできるようにしてくださいねって、そう言い渡すと思います」
ちなみにこのトマス・キーン氏というのは、足と腕がもげた上、頭部にも損傷が大きい、ギルバートが問題にしていた患者ではない。彼のことを跳ね飛ばしたトラック運転手の男性である。
「こんなこと、言いたくないんだかね。君が言いたいのはもしかしてアレか?キーン氏が、目を覚ましたあと、ひとりの人間をトラックで殺してしまったとして深く後悔するくらいなら、このまま目を覚まさないほうが彼にとっても幸せだろうという……」
「そんなこと言ってません!第一、キーンさんには、どんな形でもいいから目を覚ましてほしいという奥さんや子供さんだっているんですから……これはICU看護師として、チームとして全体を見渡して申し上げていることです。今日だってこれから、一体何人の患者さんが運ばれてくると思います?どのみち亡くなられるなら、早くそうなっていただいて、次の急患を受け付けたほうが、どうせ助からない患者さんに力を割くよりも、効率という意味で遥かに重要だということです」
「効率か。君、とうとう本音がでたな。だが、一度医療者が効率ということを考えはじめたら、ここはあっという間に殺人病棟になってしまうぞ!」
ここで、シニア・レジデントのサイラス・ディーン医師は、ギルバートの存在に気づいた。いつもように、「木偶の坊!どうだ、ちっとは仕事らしい仕事してるか?」といったように、流石にこの時ばかりは挨拶してこない。
「そういやおまえ、先週の金曜、トマス・キーン氏とジョン・ドゥのカルテを見てもいいかと、俺に聞いてきたよな。なあ、未来のフォード先生よ。俺とこの重鎮看護師さんの意見と、果たしてどちらが正しいと思う?」
「あんた、馬鹿じゃないの?こんなぺーぺーの医学生の意見なんか聞いたって、まるきり無意味、時間の無駄よっ」
ルナ・マクドナルドはギルバートのほうを一瞥さえしなかったが、ギルバートは点滴その他で管がスパゲッティ状態のキーン氏を見、ふと考えこんだ。といってもそれは、時間にしてほんの数秒、ということではあったが。
「可能性としてはたぶん……医学書のマニュアルを読む限りにおいては、ディーン医師のおっしゃることはもっともと思います。助かる望みが一縷でもあるのなら、医師はそこに向かって全力を傾けなければいけない。でも一方、現場レベルでものを見た場合、マクドナルド看護師の言い分ももっともと俺は思います」
(せめても、ジョン・ドゥがきのうあたり死んで、一床ベッドが空いてりゃ良かったのに)とは、ギルバートにも流石に言えない。
「ふふん。将来上司になるかもしれない俺と、口やかましい看護師両方の顔を立てたってわけか。いいぞ、小僧!大学病院ってのは結局、そういう世渡り上手な奴が生き残っていいポジションを得ていくものだからな」
「ふん!その点、ディーン先生は超のつく世渡り下手ですもんね」
「うるさい!とにかく、トマス・キーン氏には今日から透析を行なう。他の看護師にもそう通達しとけ」
――ちなみに、ジョン・ドゥというのは、バッグなどに身許のわかるものがなく、事故等でそのまま意識不明になった身許不明患者のことを医療者同士でそう呼ぶことがあるということだった(ちなみに女性の場合はジェーン・ドゥである)。
この、トマス・キーン氏の透析に関していえば、確かにディーン医師の意見のほうが正しかったことが、彼の回復によって数日後に証明されることになるのだが……ギルバートがICUやHCUといった場所で最先端の医療機器に囲まれ、患者への診断・処置の手業について学びつつ、それ以外のことで勉強になるとしたら――もしかしたら案外こうしたところだったに違いない。ディーン医師の言っていたような出世云々といったことを抜いて考えたにせよ、(全体を見渡して全員の顔と便宜を立てられるのがベスト)ではある。だが、医療スタッフから時にどんな文句が出ようと、医者はチームの司令塔として、仮にそれがのちに選択ミスだとわかっても、その全責任を負う覚悟を持っていなくてはならないのである。
この数日後にキーン氏が意識を取り戻した時……ルナ・マクドナルドは潔く自分の判断ミスを認め、「先生の勝ちですね」とあやまったという。だが、サイラス・ディーンにしても、「だから俺が言ったとおりだったろう」などとは決して言わない。彼は「勝ちとかなんとか、この場合関係あるか?俺だって、キーンさんが本当に目を覚ますまで、『ここまでしたってただ無意味なだけ、医療資源の無駄遣いなんじゃねえか?』と思いつつ、ずっと迷ってたんだから」と、自信なさげに返したという、それだけだったようである。
実際、ギルバートにしても「透析だって、信じらんな~いっ!」、「ディーンの奴、一体何考えてんの」、「それじゃなくても忙しいってのにさあ、これ以上余計な負担増やすなっつの!」と、意識不明の患者の前で、看護師たちがぶうぶう文句を言うのを聞いていた。そしてこう思った。(やれやれ。スタッフからどんな文句が出ようと、己の信念を貫かなきゃならない医者ってのは、まったくツライもんだな)と。この場合、ディーン医師の立てた治療計画がうまくいったから良かったようなものの、もちろん患者が結局亡くなる可能性だって十分あったろう。また、ギルバートはその後、この逆のパターンとして……ジュニア・レジデントの医師が看護師たちに似たような件で文句を言われ、「早晩亡くなるなら、一般病棟に移して家族と対面してもらおう」と決断を下すシーンも見た。だが、ギルバートにしても意識不明の重症で運ばれてきて、「この患者はもう死地から回復しないだろう」と思ったのに死の淵から甦ってきたり、あるいは「このまま順調にいけば、近く一般病棟へ移れそうだぞ」と思った患者が突然心停止したりと――人の生き死にについては、「誰も背後でサイコロなぞ振っていない」という、運命の偶然とデタラメのような不可思議さについて、その後も学んでいくということになる。
* * * * * * *
ERでの実習が終わったその翌週(終わったなどと言っても、ローテーションですぐ回ってくるのだが)、ギルバートは今度、脳神経外科病棟で実習を受けることになった。自分をいぢめる怪獣がいるため、ギルバートとしては彼女が非番であればいいと、脳外科病棟での実習が回ってくるたびに、そう願わずにはいられない。
思えばあれは、去年二回生となり、内科や外科や手術室にERと、順に各病棟を巡り、最初に脳神経外科で実習を受けることになった時のことだった。自分たちの担当がダイアナ・ロリスという女性医師であると知り、少しばかり医学生らは医療ドラマに出てくるような美人医師というのを――なんとはなし、想像しなくもなかったようである。
また、ギルバートにしてみれば、自分が母とも慕うダイアナ・ハーシュと同じ名前ということで、相手に会ってもみないうちから好印象を勝手に胸に抱いてしまった。ところが彼女、もうひとりのダイアナは、身長が180センチ近くあるのみならず、全体にがっちり・むっちりした体格で、まるで男のように逞しい女性だったのである。
だが無論、故ダイアナ王妃のような美人なのに凄腕医師……などという妄想を抱いていたのは彼らの勝手であって、いずれ女性として初めて、このユト大脳神経外科において教授職に就くのではないかと目されている彼女は、貧弱なもやしのような医学生たちを所構わず顎でこき使ったものである。
そしてそれは、大体次のような具合だった。
「IVH(中心静脈栄養)の処置の手順は?」
そう訊ねられたのは、カテーテルを手にしているインターンではなく――ギルバートの他にふたりいた医学生、彼の悪友のディック・デヴィッドソンとシェルドン・ギーガーであった。
一瞬、ディックとシェルドンはどちらに聞かれたのかと、互いに顔を見合わせている。だが、長いつきあいからディックにはわかっていた。シェルドンが(俺にゃわかんねえよお)と、必死に目線で訴えてきているのが。そこで、「ごほん!」とひとつ咳払いしてから、ディックはこう答えた。
「IVHというのは、患者さんに高濃度のカロリー輸液を行なうことでして、高濃度の栄養輸液を中心静脈から投与することで、体に必要な栄養素を補給することが出来るものであります。栄養状態の悪い患者さんや、経口摂取の出来ない患者さんに用いられるものであり、通常、糖質・アミノ酸・脂質・電解質その他、必要な一日のビタミンなどを中心静脈から24時間かけて投与します」
「わたしが聞いた主旨と、木偶の坊の答えは一致しない!そんな教科書のどっかに書いてあるようなことを言えとは言ってないぞ。次、ハンス・ギーガー」
もちろん、ギーガーの名前はハンスではなくシェルドンである。だが、「ハンス・リューディ・ギーガーはエイリアンのデザインなんかで有名な人ですよね?」などと突っ込む者は、この病室には誰もいない(そしてそれは、四人部屋にいる患者四名が全員、人工呼吸器に繋がれているか、あるいは気管切開した状態にあるからでもあった)。
そしてこの時ギルバートは、悪友に助け舟をだすつもりで、つい横からこう口を出してしまっていた。すぐにロリス医師から叱責の言葉が飛ぶに違いないと、覚悟の上で。
「投与ルートとなるカテーテルは、鎖骨下静脈から挿入し、先端部を上大静脈(中心静脈)に留置します。上大静脈は心臓に近い太い血管で、血液量が多くて血流も速いため、糖濃度の高い輸液も投与できます。鎖骨下静脈は血管が比較的太く、カテーテルの血管内走行距離も短いので、血栓の形成が少なくなる。また、IVHポート留置の利点は、詰まりにくいことや感染が生じにくいこと、入浴できることなどです」
(ギルバート・フォード、おまえには聞いていない!)とは、ダイアナ・ロリスも言わなかった。ただ、インターンに対し「さっさとやれ!」とばかり、一睨みしたというそれだけである。
「ぼんやりしてないで、見れる時にしっかり見て、手順をよく覚えておけよ。次はこれをおまえらにもやってもらうが、『刺すところ間違っちゃった。てへ』では済まない話だからな」
IVHポート留置術が済むと、気管切開している向かい側のベッドの老人がごほごほと喉を詰まらせているのに気づく。
「おい、ギーガー!看護師を呼んでもいいが、サクション(痰取り)くらいおまえがやれ」
「は、はい!」
たかだか痰取り業務ではあるが、ギルバートはシェルドンに代わって自分がそれをやりたいくらいだった。シェルドンは吸引ビンに繋がっているサクションと呼ばれる細い管を気管切開した患者の喉あたりに入れ、痰を取り出している。うっすらピンク色の薬液の入った吸引ビンが、黄色い痰の色と混じりあう。
「フォード、おまえは49ersへ行ってラルフ・ウォードマンさんの胃ろう増設術の予約を入れてきてくれ。三日以内でな。ギーガーはインターンのシャーロックに、デヴィッドソンはわたしについてこい」
IVH留置術を施したインターンは、シャーロックなどという名前ではもちろんない。本名のほうはマイク・ホームズという。本人の言によれば彼もまた、「名探偵ホームズ、おまえならわかるだろう?」などと医学生時代にダイアナから相当いぢめられたようである。
廊下へ出ると、ダイアナはレジデントたちと何ごとかを話し、ナースステーションの角を曲がりどこかへ行ってしまう。ギルバートとしてはこの瞬間も(また自分だけ外された)との思いとともに、三階にある手術室のほうへ向かう以外にない。
(しかも、胃ろうの手術だって?)
八階にある脳神経外科病棟のエレベーターから、医局や手術室のある三階へ降りるまでの間――やはり自分だけ馬鹿にされているのではないかとの思いがこみ上げ、ギルバートは少しばかり苛立った。もちろん、それがもっと難しい覚醒下手術であったり、摘出困難な悪性腫瘍の手術であれば予約の取り甲斐もあるのに……といった、これはそうした話ではまったくない。
(思えば、あの怪獣女は最初に会った時から俺に対してだけやたら感じが悪かったんだ)
話のほうは、今から約一年前のことに遡る。実習生として初めてギルバートが他の医学生らと脳外科病棟へやって来た時――『看護師たちに随分大人気なようね、フォード先生』と、ダイアナは軽蔑しきった口調で言った。ギルバートには心当たりなどまるでなかったが(あるとすれば、看護学生のコニー・レイノルズ、あとは以前関係を持ったことのある某外科病棟の看護師ひとりだけである)、実は事はこういうことだった。ギルバートは脳外科病棟へやって来る前まで、内科・外科・整形外科・小児科・ERなどなど、順番に回っていたわけだが、脳神経外科へやって来たのは一番最後だったのである。ゆえに、この間看護師らの間で「医学生にひとり、すっごく格好いい子がいる」ということが噂になり、看護師間の噂が女性医師らにも伝わり、彼女たちが医局にあるロッカールームで話したことが……ダイアナ・ロリスの耳にもとうとう入ったというわけだった。
『あんたみたいな感じの医者の卵、確かにいるわね。というか、わたしが医学生だった頃にもいた。それで、看護学生の取り巻きなんかを作って、まだ中途半端な自分の医学知識をひけらかしたり、小っ恥かしいことやりだすってわけ。少しくらい女にモテるからって、ここじゃ実力最重要視。むしろしっかり目をつけてしごかせてもらうから、そのつもりでいて!』
初対面で突然そんなふうに言われても――どちらかというとギルバートにとっては「ぽかーん状態」だったと言える。看護学生とは廊下ですれ違うことはあったが、それでも話したことがあるといえば、コニーひとりくらいなもので……その彼女にしてもギルバートと病院で話すことについては非常に気を遣っていた。これはあとから聞いたことだが、もしこれ見よがしに彼とベタベタしていようものなら、明日から看護部において村八部になる可能性もあるという。
また、ギルバートのみならず、脳外科病棟での実習においては、医学生誰しもが『怪獣』と仇名される彼女から不愉快な思いをさせられていることから――特にその強い標的となっている彼に対しては、随分同情が寄せられていた。ディックにしてもシェルドンにしても、帰り道でハンバーガーを奢ってくれたりしながら、『ありゃ女じゃない。いや、そもそも人間ですらない。みんなが言ってる通りの怪獣……女ドンキーコングか女ゴジラってところだ』、『ウホウホ。男になんかモテなくっても全然平気!アンギャーオオオッ』などと言って、よく慰めてくれたものだった。
とはいえ、これもある種のパワーハラスメントではないかとしか、ギルバートには思えない。『ちょっと格好いいからと自惚れて』、『看護学生の取り巻きを作った』のはギルバートではなく、あくまでダイアナ・ロリスの同窓生の誰かだろう。そのようなところを見咎められてからの指摘というのであれば、ギルバートにしても納得できる。簡単にいえばこれはこうした話だった。『あんたみたいな女たらし、将来この脳外科の医局で部下になど持ちたくないから、今のうちから外させてもらう』という……だが、仮にも指導医と呼ばれる立場の人間が、そんな偏狭なことで果たしていいのだろうか?
(そうだ。これは言ってみればセクハラとも言えるぞ。たとえば、『これだから女の外科医はダメなんだ』と、怪獣の上司に当たる医師が発言するのの逆バージョンみたいなものじゃないか……)
医局と同じ階に位置する手術室は、手術室の数の総数が49個であることから、別名49ersと呼ばれている。本当はキリよく手術室の数を50個としたかったらしいのだが、設計段階でスペースとして49室にしかどうしても出来なかったという。無論、このことを知っている人物は今ではすっかり少なくなり、これも昔誰かが言った「理事長や医師の幹部連中の中にサンフランシスコ・49ersの気の狂ったファンでもいたんだろ」という説が、一般に流布しているようである。
手術室を入ったところに受付があり、その奥、ないし隣のほうは中央器材室と呼ばれるスペースとなっている。受付から奥には専用のガウンを着たり、靴を履き替える必要があったが、ギルバートの用があるのはこの受付エリアのみだった。彼としてはあくまで、(今のところ)と心の中で呟きたいところではあったが。
受付のところには、手術室の管理をしているディレクターとかコーディネーター、あるいはマネージャーと呼ばれる人間が通常ひとりかふたりいて、いつでもパソコンの前に陣取り、スクリーンと睨めっこしている。そして、この受付では大抵の場合、医師や看護師の誰かしらがカウンターにいて、押し問答するのに多くの時間を費やしている場所でもあった。
「おい!さっき、子宮全摘出術を三日後に延ばしてくれないかと連絡があったが……こっちはなあ、『手術なんかしたくない。もうこのまま死んでもいい』っていう鬱病気質の患者を、ようやくのことで説得したんだぞ!その三日の間にまた相手の気が変わったりしたら、一体どうしてくれる!!」
「だから、先生の部下に説明したはずですよ。緊急手術が一件入って、どう考えてもそちらの心臓手術のほうが緊急性が高い。むしろ、こちらとしては感謝して欲しいですね。患者さんに麻酔までかけて待機してもらってたのに、患者の容態が急変したから、緊急度の高いのはこっちだ!なんてことになることだって、十分あるんですから」
「あ~もう、アッタマくんな!俺も、他の先生たちだってみんな言ってる。一度入れた手術室の予約をそう簡単に取り消すなってんだ。何より、患者の身になって考えてみろ。たとえばだな、エマ。あんたのおっかさんが子宮がんになって、ようやくのことで手術の決意をしたとする。ところが、明日手術と思って眠れぬ夜を過ごしたというのに、一日ずれたってだけで、一体どんな気持ちがする!?ええ?」
「だから、毎度毎度言ってるでしょう。手術室は常に24時間稼動中で、ユト大病院には全部で千床もベッドがあるんです。いつでもお互いさまの精神で、そのかわりオーウェル先生の手術のほうが緊急性が高いとなったら……他の、もう少し緊急性の低い手術の患者さんの日程をずらしてもらうってことになるんですからね」
「そりゃそうかもしれんが、エマ!そいつはあくまで建前ってもんだ!!」
(まったく、コイツらときたら話にもなりゃしない)といったように、腫瘍外科医師、リロイ・オーウェルが両手と両目を天井に向け、失神しそうな振りをした時のことだった。若い受付嬢、エマ・キャラウェイが、(あら)といったように、若干態度を変える。
「あら、フォード先生じゃありませんの。今日は一体どんなご用?」
自分と話している時より、ブロンド娘エマの態度が優しく、やわらかになったのみならず、そこに若干のハートマーク的雰囲気を感じて――リロイは対象の男のほうをギロリと眺めやった。何科のフォード医師かくらい、突き止めておきたかったのである。
「ええと、その……三日以内に胃ろう増設術の予約を入れていただけないかと思いまして……」
「三日以内ねえ。困ったわねえ。でも胃ろう増設術なら、ほんの一時間……いいえ、三十分もかかりませんものね。どうにかぎゅう詰めしてみましょ。執刀する先生はどなた?」
(脳外科のダイアナ・ロリス医師――)
ギルバートがほっとして、そう言いかけた時のことだった。オーウェルが「到底容認できない」とばかり、噛みついてきたのは。
「おい、待てよ!エマ、こんなのひどいじゃないか。俺の子宮ガンの患者は緊急患者のせいで後回しだってのに、ふらっと色男がやってきたら、『じゃあ、なんとかしましょ。うふふふふっ』てか?冗談じゃねえぞ」
「んもう!ちゃんと聞いてらっしゃいました、オーウェル先生?フォード先生がおっしゃったのはね、ただの簡単な胃ろうの手術。一番小さいタイプの手術室で、ちょちょいのちょいで終わってしまう程度のことですもの。子宮ガンの子宮全摘出術とは、かかる時間も危険度も、全然比べものにならないわ」
「違う!俺はそんなこと言ってるんじゃない!!エマ、そもそもあんたはなあ、まだここへ来て三年やそこらだからわからんのかもしれんが……」
「いいえ、わかってますとも!毎日朝から遅くまで働かされて、ここで一番大変なのは、手術の予定をどうにかうまくやりくりすることなんかじゃございません。オーウェル先生みたいに無理をいう先生たちのことをうまく宥めてどうどうとなんとか落ち着かせ、納得していただくってことですもの。このことに毎日、わたしたちがどれだけストレスを溜め込み、神経をすり減らしているか……」
(ああ、そのせいで今日も頭痛がする)とばかり、エマが貧血でも起こしたような振りをした時のことだった。後ろのドアが開き、マスクをした手術室専属看護師と、エマと同じ事務員の制服を着た中年女性がやって来たのは。
「さっきから一体どうしたの、エマ?あら、オーウェル先生ったらお久しぶり」
これは、手術室の受付における最高責任者のスー・ウォルシュの嫌味だった。彼女はきのう、大体同種のことで、この腫瘍専門外科医と電話でしつこくやりあったばかりだったのだから。
「ふふん。この際だからちょうどいい。確かに、胃ろう増設術なんざ、手術のうちにも入らんような、すぐ済む程度のものかもしれん。だが、やっぱりあんたらは人の足許を見るんだ。『いつもブルドッグみたいにしつこくてうるさいオーウェル先生は、だからあとまわし。今回もキャンキャン喚いていただきましょ』ってな具合にな。ところがどーだ!若くてイケメンの気障野郎がやって来ると、『ちょっと無理でもがんばっちゃいましょう』みたいになるってことだろ!?絶対そーなんだっ!!」
「相変わらず被害妄想も甚だしいようですわね、オーウェル先生ったら。おほほ。ここは仮にも国立の大学病院の手術室ですよ。わたしたちはえこひいきなんて一切致しません。ただ、執刀医によっては……たとえば人徳輝かしい心臓外科医のパトリック・ラウ先生の手術などではね、『先生のためなら時間を延長して手術室に入ってもいい』という看護師その他のスタッフがいくらもいるのです。先生の要求がいつも通るとは限らないのは、そうした事情もあってのことと、ご理解していただかないと……おほほ」
(とんだタヌキババアだな)というのは、今の段階で毛ほども不愉快な思いをしてないギルバートにですら、はっきり感じられることだった。頭の後ろできっちりとめた若干白髪の混じった髪に、小じわが目許や口元に見られるものの、どこか好感の持てる小さな顔――だが、五十代半ばと思われるこの小柄な女性は、ワシのように鋭い目つき、それに有無を言わせぬキビキビした口調をしていた。おそらく、ギルバートにしても「三日以内……」と言ったのが、「いいえ、一週間後になります。他は空いておりません。絶対に」と彼女に申し渡されたとすれば、一発ですごすご引き下がったに違いない。
「ふん!どうせ俺如きは人徳も低くて、手術室のオペ看からも評判が悪いんだろうよ。『やだ~。今日わたし、オーウェル先生の器械出しだって。あの先生、短気で何かっちゃ切れやすいのよ』なんて具合でな」
「そこまでひどくないですよ」
マスクをしているせいで、若いのか中年かすらもわからぬ看護師が、ぷっと笑って言った。彼女が受付にきたのは、実はただの物見遊山である。本日最後の手術が終わり、超過勤務の手続きを事務室のほうでしていたところ、面白い会話をスー・ウォルシュとともに小耳に挟んだというわけだった。
「それに、どうやらスーの言ったことも当たらずも遠らずといったところなんじゃないかしら?オーウェル先生は被害妄想が強いのよ。腫瘍外科になくてはならないカリスマ外科医、リロイ・オーウェルっていうのが、一般的な周囲の評価でしょうしね」
「…………………」
手術室のベテラン看護師にそのように褒められたせいか、オーウェル医師は若干機嫌を直したようである。そこで、何か一言いいかけて――彼は、ギルバートの胸元にある実習生のネームタグに気づいたのだった。
「あ~っ!もしかしてオマエかあ。脳下のロリスに睨まれてる小僧っ子の色男ってのは」
今度はギルバートが黙り込む番だった。看護師や看護学生の間には<ギルバート・ファンクラブ>なるものがあるらしいだの、どうも自分の知らないところで噂が一人歩きしているとしか思えない。
「そりゃ災難……いやいや、俺はロリスとは同期なんだ。ああ見えてあいつ、怪獣なりに可愛いところもあるんだぜ。女ゴリラだのゴジラだの陰で言われちゃいるが、毛深い女ってのはまあ大抵情が深いもんだし、ゴジラだって何も怪獣に生まれたくて生まれたってわけじゃないだろうしなあ」
「はあ……」
何をどう言っていいかわからず、ギルバートとしてはそう答えるのが精一杯だった。なんにせよ、すっかり上機嫌になったオーウェル医師は、その場にいた三人の女性が(相変わらず単純……)と思っているのも知らず、「ま、がんばれや!」とギルバートの背中を叩き、そのまま去っていった。例の子宮全摘出術を受ける患者には、これから事情のほうを説明するのだろう。
ギルバートは、胃ろう増設術の件について、あらためて日時を確認すると、エマに「また来てね!」と、奇妙な言葉とともに送りだされることになった。彼女は前にそうだったように、オペ看のクラウディア・シスと上司のスー・ウォルシュがいなかったとすれば――「暇な時に食べて!」と、引出しの一番下にあるクッキーやチョコを彼に渡していたに違いない。
「エマ!あなたねえ、まだ医師でもない医学生にデレデレしちゃって恥かしいと思わないの。そんなんだから、オーウェル先生に微妙なところを突っ込まれたりするんですよ」
「だってえ。こんなところにずっと座ってたら、フォード先生みたいなイケメンとまみえること以外、楽しいことが何もないんですもの。でも、大丈夫ですよ。わたし、先生たちからデートに誘われたからって、無理に手術時間を移動させたりとか、そんな鬼畜みたいなことはしませんもの」
「当たり前です!というより、もしそんなことがわかったとしたら、即刻クビですからね、クビ!!」
スーとエマのそんなやりとりと、クラウディアが笑う声を聴きながら――ギルバートはエレベーターがやって来るのを待った。そもそも、自分がここへパシリのような形でやって来なくとも、事は院内の内線ででも話せば済むことであったろう。何時間もかかる大手術を無理にでも入れてくれと言うのであれば、執刀医自らが直接オペ室の受付までやって来る必要もあったにせよ。
実をいうと、ギルバートは手術室の器具を洗浄・滅菌する中央器材室という場所が大好きだった。手術室が24時間稼動しているからには、その場所にも24時間必ず誰かしらがいて手術室や院内のすべての外来・病棟などで使われる医療器具を洗浄したり、あるいはそれを滅菌するための装置が動いている。人手が足りなかった時、ギルバートはその仕事を手伝ったことがあるが、有鉤鑷子や無鉤鑷子、メスやクーパー、ペアン、コッヘル、モスキート止血鉗子などなど、今はまだ握ることさえ出来ないそうした医療器具を見ているだけでも――何か妙に興奮するところがあったものである。
(さて、と。俺は一体これからどうしたらいいものやら……)
言われたとおり、胃ろう増設術の予約日時を伝えても、ダイアナ・ロリスはただ事務的に頷いてみせたという、それだけだった。もしかしたらギルバートの被害妄想だったかもしれないが、彼女はもし自分が三日以内ではなく、四日後にしか予約を取れなかったと言ったとすれば――鬼のように……いや、ゴジラが東京の街々を破壊したように、自分を叱りつける気満々でいたのではないだろうか。
正直なところを言って、ギルバートはダイアナ・ロリスという指導医のことが嫌いではない。最初にあった、医療ドラマに出てくるような美人の凄腕脳外科医というのは、単なる自分の妄想による理想像である。実際のところ、今では彼女がそのような異性として憧れを抱く存在でなくて良かったと思っているくらいだった。何分、彼女はギルバートに対しては別として、他のインターンやレジデント、さらには医学生に至るまで、態度にまったく分け隔てがないのだ。そのあたりの男だからとか女だからとか、年上だからとか年下だからといったことに囚われない、あの若干意地の悪いところのある厳しさというのは――女の上司として好もしいとさえ感じられるところがあった。
何より、ギルバートも三度しか見たことはないが、周囲の評判通りダイアナ・ロリスの外科医としての腕前は相当なものだった。脳外科学会にも、画期的な論文をいくつも発表しているということだったし、脳外科手術について、彼女になら厳しく仕込まれても本望だとすら感じている。
(けどまあ、なんの因果か前世の業か、俺のほうで一方的に怪獣からは嫌われてるみたいだしな……)
この日の帰り道、正門通りに新しく出来たハンバーガー屋で、ギルバートはディックやシェルドンを相手にこのあたりの相談をした。シェルドンは結局のところ医師である父親の意向を汲み、心臓外科医を目指すのだろうし、ディックはガン専門医になろうかどうか、迷っている……という、そうしたことだったから。
>>続く。