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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

ずるいお姉さまが死んだ

作者: 立草岩央
掲載日:2021/08/10

『ずるいわ! どうして、エリスお姉さまばかり! 私だって、あの人を愛しているのに!』

『イリス……ごめんなさい……』

『許さない! お姉さまばかり幸せになるなんて! 絶対に許さないから!』


かつての光景が思い浮かぶ。

泣き叫ぶ私。

謝るだけのお姉さま。

どうして私は、あんな事を言ってしまったのだろう。

どうして私は、お姉さまを嫌うようになったのだろう。


「ん……夢……?」


目が覚める。

時間が急速に戻って来たような感覚。

自分が何処にいるのか、思い返される。

あぁ、最悪な気分だ。

私は陰鬱な思考のまま、ベッドから起き上がる。

そして従者を呼び鈴で呼び、自らの着替えを任せた。


此処はカリスティアナ家の大屋敷。

一人で住むには広大すぎる屋敷に、私は女伯爵として此処にいる。

やる事は貴族としての責務ばかりで、変わり映えもしない。

富も名誉も十分にあるが、興味も関心もない。

あれから私の景色は、殆どが灰色に見えていた。

ただ、過去の夢だけはハッキリと色を帯びてくる。

私を責めているのか。

貶しているのか。

着替え終えて自室から出た私は、夢に見た光景を打ち払う。


「昔の夢なんて……どうして今更……」

「お義母さま! おはようございます!」


食堂へ向かう途中、背後から幼い声に呼び掛けられる。

知っている。

知らない訳がない。

私は一瞬だけ間を置いて、笑みを作って振り返る。

そこには金髪碧眼の幼い娘、マナがいた。


「おはよう、マナ。今日も元気ね」

「はい! 元気一杯です! お義母さまも、元気に頑張りましょう!」

「あら。そんなにはしゃいでは、はしたないわ。淑女たる者、時には落ち着きも必要よ」

「あっ! そうでした……! 落ち着いて……レディーらしく、ですね」

「そう。よく出来たわね。偉いわよ」

「えへへ。ありがとうございます」


マナは屈託のない笑顔を見せる。

私が知っている、数少ない色を帯びた子。

その彼女の様子には、天真爛漫という言葉がよく似あっている。

誰もがそう思う筈だ。

でも――。


――この顔、年々お姉さまに似てきているわね。

――あの、大嫌いなお姉さまに。


マナに微笑み続けながら、私は心の中に黒いモヤを抱えていた。

絶対に見せてはいけない、泥のような感情。

このモヤは、彼女が成長する度に大きくなっていく。

始まりは、全て唐突だった。


『視察中に起きた事故で……』

『そんな……まだあんなにお若いのに……』

『残されたマナ様が、あまりに可哀想だわ……』

『もしかして、孤児院へ?』

『いえ。エリス様には妹のイリス様がいます』

『イリス・カリスティアナ様。恐らくはあの方に引き取られるのかと』


お姉さまは死んだ。

私の大好きな人と一緒に。

全ては唐突で、崩れ落ちていくように無くなっていく。

私の前に残されたのは、あの人達の一人娘だけだった。


『私が引き取るのですか? お姉さま達の子を?』

『他に身寄りのない状況なのです。どうか、お願い致します』

『……』

『このままでは、あの子は孤児院に引き取られることになります。しかし、それではあまりに体裁が……』

『……分かりました』


お姉さま達の娘を、マナを、私は引き取った。

そもそも私に拒否する理由はなかった。

二度と恋をする気もない。

他の貴族達と親身になるつもりもない。

だからこそ育ての親として、私は正しくあり続けた。

決して憎んだり、妬んだりすることもない。

そんな事は有り得ない。

そしてマナはとても利口に、賢く育ってくれた。

母親として、これ以上の望みはない。

でも、それでも――。


「お義母さま! 本日のダンスは、いかがでしたか?」

「合格点よ。これだけの技量があれば、来年通う学院でも恥ずかしくないでしょう」

「やったぁ! これで私も一人前のレディーですね!」

「ふふ、そうね。マナ、よく頑張ったわ」

「ありがとうございます! これも、お義母さまのお陰ですっ!」


マナが私を見つめる。

蒼い瞳が、私を見つめてくる。

そこにあるのは、幼い少女の無垢な感情だ。

私は母親として、それに答えなければならなかった。

それなのに、異なる憧憬が浮かび上がってくる。


――あの透き通った蒼い瞳、デイヴィットにそっくりだわ。

――私が大好きだった、最愛の人に。


あぁ、こんな事は考えてはいけないのに。

黒いモヤが大きくなる、膨らんでいく。

あの時の光景が思い出す。


『またエリスと喧嘩したのか?』

『お姉さまが悪いのよ。私は悪くないんだから』

『たとえそうだとしても、飛び出していくのは良くないな。お互いにもっと話し合えば、分かり合えるものだってあるだろう?』

『だって……お姉さまと、分かり合うなんて……』

『俺も一緒に行くよ。イリスが嫌だと思っている事、俺も一緒に伝える』

『デイヴィット……』

『さぁ、手を出して』


私は、デイヴィットが好きだった。

我儘を言う情けない私を気遣ってくれる。

手を差し伸べてくれるあの人が、ずっと好きだった。

本当に愛していた。

でも、もう彼はいない。

何処にもいない。


――そんな瞳を、マナは持っている。

――私が恋焦がれた、あの人の瞳を。


懐かしい。

愛おしい。

恨めしい。


「お義母さま? どうかしましたか?」

「い、いいえ。何でもないわ。今日は疲れたでしょう? 汗を流していらっしゃい?」


我に返る。

不思議そうに首を傾げるマナが、そこにはいた。

私は必死に笑顔を取り繕うことしか出来なかった。

そうだ。

一体、何を考えているのだろう。

マナはデイヴィットではない。

ある訳が、ないんだ。

私は去り行く彼女の華奢な背中を見て、両手を強く握り締めた。


夜はいつだって訪れる。

灰色だった世界を、真っ黒に塗り潰していく。

まるで私の心を現しているかのようだった。

お前の本性は分かっていると、そう問い詰めるように。

純真なマナは彼女の個室で、ただただぐっすりと眠っている。

執務を終え、私も自室のベッドに横たわった。


擦り減っていく。

削られていく。

マナの姿が、成長するにつれ二人に近づいていく。

それが堪らなく辛かった。

私は服の上から胸を押さえた。

どうして――。


「どうして、あの子は……」

『女なんだろうって、思った?』

「!?」


思わず起き上がる。

そこには、私の姿とソックリの影がいた。

黒く塗り潰された、モヤの塊。

まるで写し鏡のように、影は私と同じ声で問う。


『もしマナが男だったら、あの人と同じだったら、心から愛せたのに』

「ち、違う……」

『自分の欲望を満たせたのに。そう思ったのでしょう?』

「違う! そんな事、思う訳がないわ! 私は母親として……!」

『母親? 女として、でしょう?』

「ッ……!?」

『自分の気持ちに正直になりなさい? 今の貴方、みっともないわよ? ずっとエリスに負けてばかり。引き摺られてばかりじゃない』

「やめて……」

『愛していた人を奪われて、ずっと復讐する機会を待っていたんでしょう? そのために、貴方はあの子を引き取ったんじゃないの?』

「やめてッ!!」


大声で叫んだ直後、朝日が差し込む。

時間の感覚がまた、巻き戻っていく。

いつの間にか夜は明けていた。

あるのは吐き気を催す程の罪悪感。

そしてほんの僅かな高揚感。

今の光景は全て、夢だったのだ。


「はぁっ! は! ッ! 最……低ッ……!!」


一体、何を考えたのだろう。

駄目だ。

ダメだダメだ。

考えるな、耳を貸すな。

私は、マナの母親なんだ。

母親でなくては、ならないんだ。


暫くして、私は医学書を広げるようになった。

精神的な苦痛を、幻覚を防ぐための薬。

何でも良い。

縋るものが、引き止めてくれるものが欲しかった。

灰色に染まる世界で、闇に落ちてしまう前に、私は探し続けた。


「苦痛を和らげる花……。確か、裏山に咲いていたような……」


ふと窓の外を見ると、マナが庭園で何かをしていた。

自由時間なのだから咎めるつもりはなかったが、何となく気掛かりだった。

庭園に降りると、彼女は私に笑顔を振りまく。

いつも通りだった。

いつも通り、そこには二人の娘がいた。


「マナ、何をしているの?」

「お義母さま! 見て下さい! 私、占いを覚えたんです!」

「占い? どんなものなの?」

「はい! 花占いです!」


私に一輪の白い花を見せる。

マーガレットだ。

花言葉は何だったか。

彼女は笑顔で私に占いの方法を教えてくる。


「こうやって花弁を取りながら、こう言うんです! 好き、嫌いって!」

「……」

「そうしたら、相手の人がどう思っているか分かるんです! 先ずはお義母さまを占ってあげますね!」


一点の穢れもない少女の声が、私の心に突き刺さる。

痛い。

痛いわ。

痛いって言ってるでしょ。

突き刺さった心の穴から、黒いモヤが漏れ出す。

耳の奥で、聞き覚えのある声が甦った。


『ねぇ、イリス。花占いをしましょう』


そうだ。

昔、お姉さまも同じように私にやって見せた。

そして私達は恋占いを語り合ったのだ。

誰が好きなのか。

嫌いだったのか。

マナ、やっぱり貴方はお姉さまに似ているのね。

本当に、本当に貴方という子は。


――どうして、そこまで似ているの?

――そんな事、私は教えていないのに?


あの時のように。

マナは私に向けて、笑顔で花占いを始める。

その小さな手で、一つずつ花弁を手に掛けていく。


「好き!」

『イリス、私はいつまでも貴方を愛しているわ』


ねぇ。

私はいつからお姉さまを憎むようになったの。


「嫌い!」

『お姉さまばかり幸せになるなんて! 絶対に許さない!』


どうして私は、お姉さまを許さなかったの。


「好き!」

『私はデイヴィットを、こんなにも愛しているのに……!』


ねぇ。

私はいつからデイヴィットを愛してしまったの。


「嫌い!」

『すまない、イリス……。俺は……エリスを……』


どうしてデイヴィットは、私を選んでくれなかったの。


「やめなさい」

「え?」

「やめて……お願い……」

「お義母さま……?」


私は震える手で花占いを止めていた。

お願いだから。

もう、私を責めないで。

必死に、静かに告げた言葉に、マナは不思議そうにするだけだった。

代わりに私は足元に散らばる花弁を見て、歯を食いしばった。


また、夜になった。

徐々に夜の時間ばかりが長くなっていく。

きっと周りからすれば、そんな感覚はないだろう。

ただ私だけが、心の中だけが、夜と同化しているのだ。

深い闇と泥が、私を侵していく。

もう、どうすることも出来ない。

夜中、マナは既に寝床についている。

私は彼女の部屋の前に立っていた。


「これ以上は……」

『耐えられない?』


気付けば黒いモヤが、背後に立っていた。

私の背中を押すように。

私の耳元で囁きかける。


『楽になりましょう? 貴方はずっと耐えて来たじゃない?』

「……」

『今までよく頑張ったわ。辛かったわね』

「……」

『この先に続く地獄に比べれば、ほんの一瞬よ。少し手に掛ければ良いだけ。簡単でしょう?』


私は無言で、マナの自室へ入った。

あの子はぐっすり眠っている。

警戒する様子も、私が来たことにも気付かない。

健気ね。

本当に可愛らしいわ。

大人になれば、もっと美しくなるのでしょう。

お姉さまと、同じように。

私は、マナの寝ているベッドに圧し掛かった。


『イリス……ごめんなさい……』


謝らないで。

憐れまないで。

お姉さまはいつもそうだった。

私を置いて、私よりも何歩も先に行く。

身分も。

恋愛も。

命すらも。


どうして私ばかりがこんな思いをしなくてはならないの。

ずるい。

本当にずるいわ、お姉さま。

私に全て押し付けるなんて。

お姉さまの顔が、貴方にそっくりな顔が、私を責めるのよ。

貴方は母親なんかじゃないって。


何処まで私を苦しめれば気が済むの。

私が何をしたと言うの。

ねぇ。

どうすれば、私は許されるの。

どうすれば、愛されるの。

教えて。

教えて下さい。

誰か助けて下さい。

私はマナの可愛らしい首に手を掛けた。




――ねぇ、マナ。




――花占いをしましょう?




「貴方ばかり、ずるいわ……。そうよね……? お姉さま(マナ)……?」


私の両手が、その小さな首を絞めようとした瞬間だった。

マナが目を覚ました。

気配に気付いたのか。

ぼんやりと開かれた視線で、真っ黒な私を見つめる。


「あれ……お義母さま……?」


そこには蒼い瞳が。

デイヴィットの瞳が、あった。


『一緒に謝りに行こう。さぁ、手を出して』


私は思わずベッドから仰け反る。

急速に温度が下がった。

両手が徐々に、凍えるように震えていく。

鉛の塊のようなモノが、下腹部に圧し掛かる。


今、私は何を。

何をした。


「あ……ぇ……?」

「お義母さま、どうしたんですか? 眠れないのですか?」


デイヴィット(マナ)が、私を案じた。

何も知らない、凛々しく、そして純粋無垢な瞳で。




あぁ。

誰か。




誰か私を殺して。







こんな思いをする位なら、代わりに私が死んでいれば良かった。

そうすればお姉さまも、デイヴィットも。

マナも幸せに暮らせたはずだ。

でも、私はまだ生きている。


あの子を愛したい。

愛せない。

愛してあげたい。

愛してあげられない。

生き恥だ。

永遠に、過去に囚われたまま、私は生き地獄を味わい続けている。


翌日、私は厨房に忍び込み、マナを絞め殺そうとした汚らわしい指を切り落とそうとした。

もう二度と、あの子を傷つけないために。

でも、出来なかった。

力が緩み、包丁が手から滑り落ちる。

包丁が宙を舞い、何処かへ飛ばされていく。

何故だろう。

分からないが、代わりに吐いた。


ポタリ。

ポタリ。

頭の中に黒いシミが落ちる。

染め上げる。


なんて無様なのだろう。

何のために此処にいるのかすらも、分からなくなっていく。

暫くして私は、自室から窓の外を見た。

灰色だ。

炭だ。

炭の雲が、全てを覆い尽くしていく。

どうやら、嵐が近いらしい。


「い、イリス様! 大変です!」

「……どうしたの?」

「マナ様が、見当たらないのです!」


突如、従者がそう言った。

いつものように庭園で遊んでいた筈が、急に姿を消したのだという。

私は思わず飛び出した。

そんな馬鹿な事があるものか。

あの子が勝手にいなくなるなんて、今まで一度もなかった。

どうして、今になって。


私の身体が重くなる。

やはり、深夜のことを覚えていたのだろうか。

全く知らないような素振りをしていたのに、やはり誤魔化していたのね。

利口な子。

私がマナを手に掛けようとしていたと、分かっていたのだ。

様々な感情を拭い、私は従者と共にマナを探した。


「マナ!? 何処に行ったの!? お願い! 出て来て頂戴!」


心当たりのある場所は当たったが、何処にもいない。

色は、ない。

それに、出て来てどうすると言うの。

今更、母親面をする気なのかしら。

無理よ。


『ムリムリ』

『もう二度と、あの子は貴方を母とは思わない』

『愛さない。愛されない』

『貴方の本性を知ってしまったのだから』


――そうでしょう? お姉さま?


私は頭に響くシミを振り払う。

そして自然と、あの子の部屋に辿り着いていた。

誘われるように扉を開けると、部屋の真ん中に見覚えのある本が転がっていた。

私が以前、読んでいた医学書だ。

どうして、こんな所にこの本が落ちているの。

訳が分からず拾い上げると、精神鎮静剤となる花のページに、付箋が差し込まれていた。


「こんな付箋をした覚えは……ま、まさか……?」


思い至った私は、裏山へと足を踏み入れた。

既に雨が降り始め、風も強くなっている。

雨に濡れながら、私は覚えのある場所に向かった。

険しくとも、転びそうなろうとも、進み続ける。

すると崖の近く。

花々が咲いている野原で、金色の髪を靡かせ、しゃがみ込むあの子を見つけた。

彼女もまた、雨に濡れていた。


「マナっ!」

「お、お義母さま……?」

「一体、何をしているの! 許可なく屋敷の外に出てはいけないと言っておいたでしょう!? 貴方はやっぱり……!」


言葉を詰まらせながら、私はマナに近づく。

そう、私が恐ろしいのね。

そうに決まっている。

だって当然だもの。

私は、貴方を――。

言い掛けた私に、マナは立ち上がって一輪の花を掲げた。

表情に恐怖はなかった。


「ごめんなさい! でも、やっと見つけたんです……!」

「見つけたって……何を……」

「お義母さまが読んでいた本のお花! 見つけました!」


幼い手に握られていたのは、医学書で見た黄色の花。

鎮静効果のある、薬となる素材だった。

呆気に取られていると、マナは一歩一歩近づいて来た。


「お義母さま、ずっと辛そうでした。悲しそうで、どんどん遠くなっていく気がしたんです。だから私、ずっとずっと、何かしてあげたくて……!」

「え……?」

「このお花があれば、元気になれるんですよね? 傍に、いてくれるんですよね?」

「なん……で……?」

「だって私には、お義母さましかいないから……!」


マナは真っすぐな瞳で、そう言った。

どうして。

どうしてそんなことが言えるの。

理解できない。

止めて頂戴。

まだ、酷く罵倒された方が良かった。

殺そうとしたクセに、と罵ってくれた方が安心できた。

そうなれば、自分が許された気がするから。


それなのに、貴方は。

貴方という子は。

私という女は。

私は一歩一歩近づき、そしてしっかりとマナを抱き締めた。

その身体は誰のものでもない、幼い少女のものだった。


「ごめんなさい……マナ……」

「お義母さま?」

「私は、貴方の母親になり切れなかった……。私は貴方に、酷い事ばかり……」

「酷くなんてありません!」


私にそんな資格はない。

そう言うと、蒼い瞳が私を見上げた。


「お義母さまは、私を大切に育ててくれました! 私にお勉強を、ダンスを沢山教えてくれました! お義母さまは、私のお母さまです!」

「ま……ナ……」

「良い子でいます! 立派なレディーになります! だからお願い! 私を一人にしないで!」


いつの間にか、マナは涙を流していた。

それとも雨のせいか。

分からない。

あれだけ純粋だったはずの彼女が、悲観の感情を露わにしている。

そして気付く。

私はお姉さま達が涙を流した所を、一度も見たことがないと。


『イリス……ごめんなさい……』

『すまない……イリス……』


まさか。

まさか貴方達は、ずっと我慢していたの。

泣きたい気持ちを、ずっと堪えていたというの。

私は愕然とした。


どれだけ痛かったの?

お姉さま?

デイヴィット?

私は?

私はどれだけ耐えれば良いの?


「もう……」


雨が痛い。

黒い雨が、私の頭の中を描き回していく。

ドロドロと重く。

沈み零れていく。


愛したい。

愛せない。

愛し切れない。

全ての感情が、私の逃げ道を塞いでいく。

十分だった。

憧れも。

憎悪も。

嫉妬も。


「もう……何も……」




ブツッ。




瞬間、頭の中で何かが切れた。

分からない。

ただ全身の力が抜けていく。

抱き締めていたあの子の身体が、手から放れていく。


駄目よ。

駄目なの。

私は決めたのよ。

あの子だけは絶対に、守ってみせるって。

あの子を育てて、ずるいお姉さま達を、見返してやるって。

そうして天国でこう言ってやるの。

あの子はもう、立派になったよって。


それが私の、本当の復讐。


雨の中、私は視線を上げた。

見覚えのある顔が、私を案じてくれている。

私を、見てくれている。




あぁ。

やっと、縋れる。




「そこにいたのね、マナ」

「そこにいたのね、お姉さま」

「そこにいたのね、デイヴィット」




私の意識は、途切れた。







数日後。

マナは屋敷の医務室にて、女医から説明を受けていた。

女医はとても辛そうな顔をしながら、幼い少女に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。


「マナ様、お聞き下さい。イリス様……貴方のお義母さまは、記憶を失ったのです」

「記憶……?」

「はい。命に別状はありません。しかし精神的な……あまりに大きな負担によって、昔のことを殆ど忘れてしまったのです」

「……」

「覚えているのは、マナ様の事。そしてごく僅かな、昔のことだけです。幸い、一般的な知識や教養は維持されているので、これからの生活には一切支障はありません。ですが……」


思わず言葉を呑み込んだ。

既にイリスは、以前のイリスではなくなっていた。

従者達が駆け付けた時、彼女はマナを抱きかかえたまま倒れていた。

次に起きた時、彼女は全てを忘れていた。

自分を苦しめていた現実、過去から。

その一切を切り離した。

たとえ女伯爵としての体裁は崩れずとも、その人柄は完全に乖離してしまった。

両親を亡くした幼い少女には、あまりに酷な現実。

だが――。


「お母さまは、このままで良いんです」

「え……? し、しかし……」

「だって今のお母さまは、とても幸せそうなんです。辛そうには見えないんです」

「……」

「見ていて下さい。私はお母さまのような、誰にでも優しくなれる、立派なレディーになります。それがお母さまと、私を生んでくれたお母さまたちへの、精一杯の恩返しだから」


マナは真剣な表情でそう言った。

たとえそうだとしても、構わないと。

幼いながらも、自分の思いを伝えた。

彼女はペコリとお辞儀をして、医務室を立ち去る。

残された女医はただただ、苦しそうな顔をしていた。


「マナ様が知っているのは、優しいイリス様だけ。貴方は知らないのです……イリス様が、貴方にどれだけの愛憎を抱えていたのか……何も……」


その言葉は誰にも聞こえない。

そして医務室を出たマナは、この屋敷の主と出会う。

彼女が大好きな、たった一人の家族に。


「お母さま!」

「あら、何処に行っていたの、マナ? もしかして、具合が悪いの?」

「はい……この前の大雨で、少し風邪が長引いちゃって……。でも大丈夫です! もう、元気一杯です!」

「あらあら、勝手に屋敷を出てはいけないと言ったでしょう? これからは、お母さんの言う事はキッチリ守るのよ? そうでないと、立派なレディーにはなれませんからね?」

「はい! 分かりました!」

「良い子ね。今日の夕食は、特製ハンバーグよ。私が一から作ったの」

「ハンバーグ!? やったぁ! 楽しみですっ!」

「ふふ。そうね、楽しみにして頂戴」






さぁ、歌いましょう?

さぁ、踊りましょう?


マーマ・ノン・マーマ。

マーマ・ノン・マーマ。


好き? 嫌い?

嫌い? 好き?


マナ、知っていた?

茎も合わせれば、花占いは絶対に『好き』になるのよ?

だから私達は――。




ずっと。

ずっと。




『愛しているわ、イリス』


はい。私も愛しています、お■さま。


『愛しているよ、イリス』


はい。私も愛しています、デ■ヴィ■ト。


「お母さま、大好きです!」

「うふふっ。私も大好きよ、マナ」






あ い し て る







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― 新着の感想 ―
[一言] 後味悪すぎる だがそれが持ち味
[良い点] 愛してあげたい、という事は愛しているという事。 自分の正気を殺して、義娘を愛せる自分を選んだのですね。
[一言] マナは良い子に育ちそうですが… マナが真実を知ったとき、果たしてどうなるんでしょうか…?
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