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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ずるいお姉さまが死んだ

作者: 立草岩央

『ずるいわ! どうして、エリスお姉さまばかり! 私だって、あの人を愛しているのに!』

『イリス……ごめんなさい……』

『許さない! お姉さまばかり幸せになるなんて! 絶対に許さないから!』


かつての光景が思い浮かぶ。

泣き叫ぶ私。

謝るだけのお姉さま。

どうして私は、あんな事を言ってしまったのだろう。

どうして私は、お姉さまを嫌うようになったのだろう。


「ん……夢……?」


目が覚める。

時間が急速に戻って来たような感覚。

自分が何処にいるのか、思い返される。

あぁ、最悪な気分だ。

私は陰鬱な思考のまま、ベッドから起き上がる。

そして従者を呼び鈴で呼び、自らの着替えを任せた。


此処はカリスティアナ家の大屋敷。

一人で住むには広大すぎる屋敷に、私は女伯爵として此処にいる。

やる事は貴族としての責務ばかりで、変わり映えもしない。

富も名誉も十分にあるが、興味も関心もない。

あれから私の景色は、殆どが灰色に見えていた。

ただ、過去の夢だけはハッキリと色を帯びてくる。

私を責めているのか。

貶しているのか。

着替え終えて自室から出た私は、夢に見た光景を打ち払う。


「昔の夢なんて……どうして今更……」

「お義母さま! おはようございます!」


食堂へ向かう途中、背後から幼い声に呼び掛けられる。

知っている。

知らない訳がない。

私は一瞬だけ間を置いて、笑みを作って振り返る。

そこには金髪碧眼の幼い娘、マナがいた。


「おはよう、マナ。今日も元気ね」

「はい! 元気一杯です! お義母さまも、元気に頑張りましょう!」

「あら。そんなにはしゃいでは、はしたないわ。淑女たる者、時には落ち着きも必要よ」

「あっ! そうでした……! 落ち着いて……レディーらしく、ですね」

「そう。よく出来たわね。偉いわよ」

「えへへ。ありがとうございます」


マナは屈託のない笑顔を見せる。

私が知っている、数少ない色を帯びた子。

その彼女の様子には、天真爛漫という言葉がよく似あっている。

誰もがそう思う筈だ。

でも――。


――この顔、年々お姉さまに似てきているわね。

――あの、大嫌いなお姉さまに。


マナに微笑み続けながら、私は心の中に黒いモヤを抱えていた。

絶対に見せてはいけない、泥のような感情。

このモヤは、彼女が成長する度に大きくなっていく。

始まりは、全て唐突だった。


『視察中に起きた事故で……』

『そんな……まだあんなにお若いのに……』

『残されたマナ様が、あまりに可哀想だわ……』

『もしかして、孤児院へ?』

『いえ。エリス様には妹のイリス様がいます』

『イリス・カリスティアナ様。恐らくはあの方に引き取られるのかと』


お姉さまは死んだ。

私の大好きな人と一緒に。

全ては唐突で、崩れ落ちていくように無くなっていく。

私の前に残されたのは、あの人達の一人娘だけだった。


『私が引き取るのですか? お姉さま達の子を?』

『他に身寄りのない状況なのです。どうか、お願い致します』

『……』

『このままでは、あの子は孤児院に引き取られることになります。しかし、それではあまりに体裁が……』

『……分かりました』


お姉さま達の娘を、マナを、私は引き取った。

そもそも私に拒否する理由はなかった。

二度と恋をする気もない。

他の貴族達と親身になるつもりもない。

だからこそ育ての親として、私は正しくあり続けた。

決して憎んだり、妬んだりすることもない。

そんな事は有り得ない。

そしてマナはとても利口に、賢く育ってくれた。

母親として、これ以上の望みはない。

でも、それでも――。


「お義母さま! 本日のダンスは、いかがでしたか?」

「合格点よ。これだけの技量があれば、来年通う学院でも恥ずかしくないでしょう」

「やったぁ! これで私も一人前のレディーですね!」

「ふふ、そうね。マナ、よく頑張ったわ」

「ありがとうございます! これも、お義母さまのお陰ですっ!」


マナが私を見つめる。

蒼い瞳が、私を見つめてくる。

そこにあるのは、幼い少女の無垢な感情だ。

私は母親として、それに答えなければならなかった。

それなのに、異なる憧憬が浮かび上がってくる。


――あの透き通った蒼い瞳、デイヴィットにそっくりだわ。

――私が大好きだった、最愛の人に。


あぁ、こんな事は考えてはいけないのに。

黒いモヤが大きくなる、膨らんでいく。

あの時の光景が思い出す。


『またエリスと喧嘩したのか?』

『お姉さまが悪いのよ。私は悪くないんだから』

『たとえそうだとしても、飛び出していくのは良くないな。お互いにもっと話し合えば、分かり合えるものだってあるだろう?』

『だって……お姉さまと、分かり合うなんて……』

『俺も一緒に行くよ。イリスが嫌だと思っている事、俺も一緒に伝える』

『デイヴィット……』

『さぁ、手を出して』


私は、デイヴィットが好きだった。

我儘を言う情けない私を気遣ってくれる。

手を差し伸べてくれるあの人が、ずっと好きだった。

本当に愛していた。

でも、もう彼はいない。

何処にもいない。


――そんな瞳を、マナは持っている。

――私が恋焦がれた、あの人の瞳を。


懐かしい。

愛おしい。

恨めしい。


「お義母さま? どうかしましたか?」

「い、いいえ。何でもないわ。今日は疲れたでしょう? 汗を流していらっしゃい?」


我に返る。

不思議そうに首を傾げるマナが、そこにはいた。

私は必死に笑顔を取り繕うことしか出来なかった。

そうだ。

一体、何を考えているのだろう。

マナはデイヴィットではない。

ある訳が、ないんだ。

私は去り行く彼女の華奢な背中を見て、両手を強く握り締めた。


夜はいつだって訪れる。

灰色だった世界を、真っ黒に塗り潰していく。

まるで私の心を現しているかのようだった。

お前の本性は分かっていると、そう問い詰めるように。

純真なマナは彼女の個室で、ただただぐっすりと眠っている。

執務を終え、私も自室のベッドに横たわった。


擦り減っていく。

削られていく。

マナの姿が、成長するにつれ二人に近づいていく。

それが堪らなく辛かった。

私は服の上から胸を押さえた。

どうして――。


「どうして、あの子は……」

『女なんだろうって、思った?』

「!?」


思わず起き上がる。

そこには、私の姿とソックリの影がいた。

黒く塗り潰された、モヤの塊。

まるで写し鏡のように、影は私と同じ声で問う。


『もしマナが男だったら、あの人と同じだったら、心から愛せたのに』

「ち、違う……」

『自分の欲望を満たせたのに。そう思ったのでしょう?』

「違う! そんな事、思う訳がないわ! 私は母親として……!」

『母親? 女として、でしょう?』

「ッ……!?」

『自分の気持ちに正直になりなさい? 今の貴方、みっともないわよ? ずっとエリスに負けてばかり。引き摺られてばかりじゃない』

「やめて……」

『愛していた人を奪われて、ずっと復讐する機会を待っていたんでしょう? そのために、貴方はあの子を引き取ったんじゃないの?』

「やめてッ!!」


大声で叫んだ直後、朝日が差し込む。

時間の感覚がまた、巻き戻っていく。

いつの間にか夜は明けていた。

あるのは吐き気を催す程の罪悪感。

そしてほんの僅かな高揚感。

今の光景は全て、夢だったのだ。


「はぁっ! は! ッ! 最……低ッ……!!」


一体、何を考えたのだろう。

駄目だ。

ダメだダメだ。

考えるな、耳を貸すな。

私は、マナの母親なんだ。

母親でなくては、ならないんだ。


暫くして、私は医学書を広げるようになった。

精神的な苦痛を、幻覚を防ぐための薬。

何でも良い。

縋るものが、引き止めてくれるものが欲しかった。

灰色に染まる世界で、闇に落ちてしまう前に、私は探し続けた。


「苦痛を和らげる花……。確か、裏山に咲いていたような……」


ふと窓の外を見ると、マナが庭園で何かをしていた。

自由時間なのだから咎めるつもりはなかったが、何となく気掛かりだった。

庭園に降りると、彼女は私に笑顔を振りまく。

いつも通りだった。

いつも通り、そこには二人の娘がいた。


「マナ、何をしているの?」

「お義母さま! 見て下さい! 私、占いを覚えたんです!」

「占い? どんなものなの?」

「はい! 花占いです!」


私に一輪の白い花を見せる。

マーガレットだ。

花言葉は何だったか。

彼女は笑顔で私に占いの方法を教えてくる。


「こうやって花弁を取りながら、こう言うんです! 好き、嫌いって!」

「……」

「そうしたら、相手の人がどう思っているか分かるんです! 先ずはお義母さまを占ってあげますね!」


一点の穢れもない少女の声が、私の心に突き刺さる。

痛い。

痛いわ。

痛いって言ってるでしょ。

突き刺さった心の穴から、黒いモヤが漏れ出す。

耳の奥で、聞き覚えのある声が甦った。


『ねぇ、イリス。花占いをしましょう』


そうだ。

昔、お姉さまも同じように私にやって見せた。

そして私達は恋占いを語り合ったのだ。

誰が好きなのか。

嫌いだったのか。

マナ、やっぱり貴方はお姉さまに似ているのね。

本当に、本当に貴方という子は。


――どうして、そこまで似ているの?

――そんな事、私は教えていないのに?


あの時のように。

マナは私に向けて、笑顔で花占いを始める。

その小さな手で、一つずつ花弁を手に掛けていく。


「好き!」

『イリス、私はいつまでも貴方を愛しているわ』


ねぇ。

私はいつからお姉さまを憎むようになったの。


「嫌い!」

『お姉さまばかり幸せになるなんて! 絶対に許さない!』


どうして私は、お姉さまを許さなかったの。


「好き!」

『私はデイヴィットを、こんなにも愛しているのに……!』


ねぇ。

私はいつからデイヴィットを愛してしまったの。


「嫌い!」

『すまない、イリス……。俺は……エリスを……』


どうしてデイヴィットは、私を選んでくれなかったの。


「やめなさい」

「え?」

「やめて……お願い……」

「お義母さま……?」


私は震える手で花占いを止めていた。

お願いだから。

もう、私を責めないで。

必死に、静かに告げた言葉に、マナは不思議そうにするだけだった。

代わりに私は足元に散らばる花弁を見て、歯を食いしばった。


また、夜になった。

徐々に夜の時間ばかりが長くなっていく。

きっと周りからすれば、そんな感覚はないだろう。

ただ私だけが、心の中だけが、夜と同化しているのだ。

深い闇と泥が、私を侵していく。

もう、どうすることも出来ない。

夜中、マナは既に寝床についている。

私は彼女の部屋の前に立っていた。


「これ以上は……」

『耐えられない?』


気付けば黒いモヤが、背後に立っていた。

私の背中を押すように。

私の耳元で囁きかける。


『楽になりましょう? 貴方はずっと耐えて来たじゃない?』

「……」

『今までよく頑張ったわ。辛かったわね』

「……」

『この先に続く地獄に比べれば、ほんの一瞬よ。少し手に掛ければ良いだけ。簡単でしょう?』


私は無言で、マナの自室へ入った。

あの子はぐっすり眠っている。

警戒する様子も、私が来たことにも気付かない。

健気ね。

本当に可愛らしいわ。

大人になれば、もっと美しくなるのでしょう。

お姉さまと、同じように。

私は、マナの寝ているベッドに圧し掛かった。


『イリス……ごめんなさい……』


謝らないで。

憐れまないで。

お姉さまはいつもそうだった。

私を置いて、私よりも何歩も先に行く。

身分も。

恋愛も。

命すらも。


どうして私ばかりがこんな思いをしなくてはならないの。

ずるい。

本当にずるいわ、お姉さま。

私に全て押し付けるなんて。

お姉さまの顔が、貴方にそっくりな顔が、私を責めるのよ。

貴方は母親なんかじゃないって。


何処まで私を苦しめれば気が済むの。

私が何をしたと言うの。

ねぇ。

どうすれば、私は許されるの。

どうすれば、愛されるの。

教えて。

教えて下さい。

誰か助けて下さい。

私はマナの可愛らしい首に手を掛けた。




――ねぇ、マナ。




――花占いをしましょう?




「貴方ばかり、ずるいわ……。そうよね……? お姉さま(マナ)……?」


私の両手が、その小さな首を絞めようとした瞬間だった。

マナが目を覚ました。

気配に気付いたのか。

ぼんやりと開かれた視線で、真っ黒な私を見つめる。


「あれ……お義母さま……?」


そこには蒼い瞳が。

デイヴィットの瞳が、あった。


『一緒に謝りに行こう。さぁ、手を出して』


私は思わずベッドから仰け反る。

急速に温度が下がった。

両手が徐々に、凍えるように震えていく。

鉛の塊のようなモノが、下腹部に圧し掛かる。


今、私は何を。

何をした。


「あ……ぇ……?」

「お義母さま、どうしたんですか? 眠れないのですか?」


デイヴィット(マナ)が、私を案じた。

何も知らない、凛々しく、そして純粋無垢な瞳で。




あぁ。

誰か。




誰か私を殺して。







こんな思いをする位なら、代わりに私が死んでいれば良かった。

そうすればお姉さまも、デイヴィットも。

マナも幸せに暮らせたはずだ。

でも、私はまだ生きている。


あの子を愛したい。

愛せない。

愛してあげたい。

愛してあげられない。

生き恥だ。

永遠に、過去に囚われたまま、私は生き地獄を味わい続けている。


翌日、私は厨房に忍び込み、マナを絞め殺そうとした汚らわしい指を切り落とそうとした。

もう二度と、あの子を傷つけないために。

でも、出来なかった。

力が緩み、包丁が手から滑り落ちる。

包丁が宙を舞い、何処かへ飛ばされていく。

何故だろう。

分からないが、代わりに吐いた。


ポタリ。

ポタリ。

頭の中に黒いシミが落ちる。

染め上げる。


なんて無様なのだろう。

何のために此処にいるのかすらも、分からなくなっていく。

暫くして私は、自室から窓の外を見た。

灰色だ。

炭だ。

炭の雲が、全てを覆い尽くしていく。

どうやら、嵐が近いらしい。


「い、イリス様! 大変です!」

「……どうしたの?」

「マナ様が、見当たらないのです!」


突如、従者がそう言った。

いつものように庭園で遊んでいた筈が、急に姿を消したのだという。

私は思わず飛び出した。

そんな馬鹿な事があるものか。

あの子が勝手にいなくなるなんて、今まで一度もなかった。

どうして、今になって。


私の身体が重くなる。

やはり、深夜のことを覚えていたのだろうか。

全く知らないような素振りをしていたのに、やはり誤魔化していたのね。

利口な子。

私がマナを手に掛けようとしていたと、分かっていたのだ。

様々な感情を拭い、私は従者と共にマナを探した。


「マナ!? 何処に行ったの!? お願い! 出て来て頂戴!」


心当たりのある場所は当たったが、何処にもいない。

色は、ない。

それに、出て来てどうすると言うの。

今更、母親面をする気なのかしら。

無理よ。


『ムリムリ』

『もう二度と、あの子は貴方を母とは思わない』

『愛さない。愛されない』

『貴方の本性を知ってしまったのだから』


――そうでしょう? お姉さま?


私は頭に響くシミを振り払う。

そして自然と、あの子の部屋に辿り着いていた。

誘われるように扉を開けると、部屋の真ん中に見覚えのある本が転がっていた。

私が以前、読んでいた医学書だ。

どうして、こんな所にこの本が落ちているの。

訳が分からず拾い上げると、精神鎮静剤となる花のページに、付箋が差し込まれていた。


「こんな付箋をした覚えは……ま、まさか……?」


思い至った私は、裏山へと足を踏み入れた。

既に雨が降り始め、風も強くなっている。

雨に濡れながら、私は覚えのある場所に向かった。

険しくとも、転びそうなろうとも、進み続ける。

すると崖の近く。

花々が咲いている野原で、金色の髪を靡かせ、しゃがみ込むあの子を見つけた。

彼女もまた、雨に濡れていた。


「マナっ!」

「お、お義母さま……?」

「一体、何をしているの! 許可なく屋敷の外に出てはいけないと言っておいたでしょう!? 貴方はやっぱり……!」


言葉を詰まらせながら、私はマナに近づく。

そう、私が恐ろしいのね。

そうに決まっている。

だって当然だもの。

私は、貴方を――。

言い掛けた私に、マナは立ち上がって一輪の花を掲げた。

表情に恐怖はなかった。


「ごめんなさい! でも、やっと見つけたんです……!」

「見つけたって……何を……」

「お義母さまが読んでいた本のお花! 見つけました!」


幼い手に握られていたのは、医学書で見た黄色の花。

鎮静効果のある、薬となる素材だった。

呆気に取られていると、マナは一歩一歩近づいて来た。


「お義母さま、ずっと辛そうでした。悲しそうで、どんどん遠くなっていく気がしたんです。だから私、ずっとずっと、何かしてあげたくて……!」

「え……?」

「このお花があれば、元気になれるんですよね? 傍に、いてくれるんですよね?」

「なん……で……?」

「だって私には、お義母さましかいないから……!」


マナは真っすぐな瞳で、そう言った。

どうして。

どうしてそんなことが言えるの。

理解できない。

止めて頂戴。

まだ、酷く罵倒された方が良かった。

殺そうとしたクセに、と罵ってくれた方が安心できた。

そうなれば、自分が許された気がするから。


それなのに、貴方は。

貴方という子は。

私という女は。

私は一歩一歩近づき、そしてしっかりとマナを抱き締めた。

その身体は誰のものでもない、幼い少女のものだった。


「ごめんなさい……マナ……」

「お義母さま?」

「私は、貴方の母親になり切れなかった……。私は貴方に、酷い事ばかり……」

「酷くなんてありません!」


私にそんな資格はない。

そう言うと、蒼い瞳が私を見上げた。


「お義母さまは、私を大切に育ててくれました! 私にお勉強を、ダンスを沢山教えてくれました! お義母さまは、私のお母さまです!」

「ま……ナ……」

「良い子でいます! 立派なレディーになります! だからお願い! 私を一人にしないで!」


いつの間にか、マナは涙を流していた。

それとも雨のせいか。

分からない。

あれだけ純粋だったはずの彼女が、悲観の感情を露わにしている。

そして気付く。

私はお姉さま達が涙を流した所を、一度も見たことがないと。


『イリス……ごめんなさい……』

『すまない……イリス……』


まさか。

まさか貴方達は、ずっと我慢していたの。

泣きたい気持ちを、ずっと堪えていたというの。

私は愕然とした。


どれだけ痛かったの?

お姉さま?

デイヴィット?

私は?

私はどれだけ耐えれば良いの?


「もう……」


雨が痛い。

黒い雨が、私の頭の中を描き回していく。

ドロドロと重く。

沈み零れていく。


愛したい。

愛せない。

愛し切れない。

全ての感情が、私の逃げ道を塞いでいく。

十分だった。

憧れも。

憎悪も。

嫉妬も。


「もう……何も……」




ブツッ。




瞬間、頭の中で何かが切れた。

分からない。

ただ全身の力が抜けていく。

抱き締めていたあの子の身体が、手から放れていく。


駄目よ。

駄目なの。

私は決めたのよ。

あの子だけは絶対に、守ってみせるって。

あの子を育てて、ずるいお姉さま達を、見返してやるって。

そうして天国でこう言ってやるの。

あの子はもう、立派になったよって。


それが私の、本当の復讐。


雨の中、私は視線を上げた。

見覚えのある顔が、私を案じてくれている。

私を、見てくれている。




あぁ。

やっと、縋れる。




「そこにいたのね、マナ」

「そこにいたのね、お姉さま」

「そこにいたのね、デイヴィット」




私の意識は、途切れた。







数日後。

マナは屋敷の医務室にて、女医から説明を受けていた。

女医はとても辛そうな顔をしながら、幼い少女に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。


「マナ様、お聞き下さい。イリス様……貴方のお義母さまは、記憶を失ったのです」

「記憶……?」

「はい。命に別状はありません。しかし精神的な……あまりに大きな負担によって、昔のことを殆ど忘れてしまったのです」

「……」

「覚えているのは、マナ様の事。そしてごく僅かな、昔のことだけです。幸い、一般的な知識や教養は維持されているので、これからの生活には一切支障はありません。ですが……」


思わず言葉を呑み込んだ。

既にイリスは、以前のイリスではなくなっていた。

従者達が駆け付けた時、彼女はマナを抱きかかえたまま倒れていた。

次に起きた時、彼女は全てを忘れていた。

自分を苦しめていた現実、過去から。

その一切を切り離した。

たとえ女伯爵としての体裁は崩れずとも、その人柄は完全に乖離してしまった。

両親を亡くした幼い少女には、あまりに酷な現実。

だが――。


「お母さまは、このままで良いんです」

「え……? し、しかし……」

「だって今のお母さまは、とても幸せそうなんです。辛そうには見えないんです」

「……」

「見ていて下さい。私はお母さまのような、誰にでも優しくなれる、立派なレディーになります。それがお母さまと、私を生んでくれたお母さまたちへの、精一杯の恩返しだから」


マナは真剣な表情でそう言った。

たとえそうだとしても、構わないと。

幼いながらも、自分の思いを伝えた。

彼女はペコリとお辞儀をして、医務室を立ち去る。

残された女医はただただ、苦しそうな顔をしていた。


「マナ様が知っているのは、優しいイリス様だけ。貴方は知らないのです……イリス様が、貴方にどれだけの愛憎を抱えていたのか……何も……」


その言葉は誰にも聞こえない。

そして医務室を出たマナは、この屋敷の主と出会う。

彼女が大好きな、たった一人の家族に。


「お母さま!」

「あら、何処に行っていたの、マナ? もしかして、具合が悪いの?」

「はい……この前の大雨で、少し風邪が長引いちゃって……。でも大丈夫です! もう、元気一杯です!」

「あらあら、勝手に屋敷を出てはいけないと言ったでしょう? これからは、お母さんの言う事はキッチリ守るのよ? そうでないと、立派なレディーにはなれませんからね?」

「はい! 分かりました!」

「良い子ね。今日の夕食は、特製ハンバーグよ。私が一から作ったの」

「ハンバーグ!? やったぁ! 楽しみですっ!」

「ふふ。そうね、楽しみにして頂戴」






さぁ、歌いましょう?

さぁ、踊りましょう?


マーマ・ノン・マーマ。

マーマ・ノン・マーマ。


好き? 嫌い?

嫌い? 好き?


マナ、知っていた?

茎も合わせれば、花占いは絶対に『好き』になるのよ?

だから私達は――。




ずっと。

ずっと。




『愛しているわ、イリス』


はい。私も愛しています、お■さま。


『愛しているよ、イリス』


はい。私も愛しています、デ■ヴィ■ト。


「お母さま、大好きです!」

「うふふっ。私も大好きよ、マナ」






あ い し て る







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― 新着の感想 ―
[一言] 後味悪すぎる だがそれが持ち味
[良い点] 愛してあげたい、という事は愛しているという事。 自分の正気を殺して、義娘を愛せる自分を選んだのですね。
[一言] マナは良い子に育ちそうですが… マナが真実を知ったとき、果たしてどうなるんでしょうか…?
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