04.初めての感覚
「……どうしてあなたが一緒に帰ってくるんですか」
ある日、帰宅したアルを出迎えるとなぜかギルが隣にいた。
「いいだろう、マリーナ! 二人はせっかく婚約したのにデートもあまりしていないようだから、俺が連れてきたんだ!」
もう、アルったら。そんな気遣いしてくれるなんて、本当に優しいのね。だけど私たちにはそんなこと無用なのよ。
「それに父上と母上もいないし、寂しいだろうと思って」
「アル……」
父と母は今、祖母のところにいる。
いよいよ具合がよくないのかと、私も一緒に行こうかと思ったのだけど、そのときはすぐ報せるからと、私はこの家の留守を預かることにした。アルも日中は仕事で家にいないし。
仕方なく三人で夕食をとり、ワインをグラスに注ぐアル。
今日もとても楽しそうにしている。
「そういえば来月王城で開かれる夜会だけど、大規模なパーティーだからぜひ二人で参加するといいよ」
「え……? 夜会?」
ご機嫌にワインを飲みながらそんなことを言うアルの言葉に、私はギルに視線を向けた。
「……俺は別に構わないが」
「え!?」
いいの!? 社交の場は苦手じゃなかった!?
「よかったなマリーナ! じゃあその日は特別におしゃれをしようね」
「アルも一緒に行ってくれるの?」
「エスコートはギルに任せるけど、俺も参加するよ」
「本当? じゃあ行くわ」
今までパーティーに参加するときは必ずアルにエスコートしてもらってきた。
アルは交友関係が広くフットワークも軽いから、よく社交の場に参加している。
言うまでもなくアルはモテるから、そんな場に出る度に変な女に引っかかるのではないかとひやひやしていたけれど、アルは女性を見る目がちゃんとあるから大丈夫。
まぁ、アルと行っても一緒に踊りたがる令嬢が多くて私はあまり楽しめないから、パーティーはそんなに好きじゃない。それに興味のない男と踊るのもつまらないし。
「――アルフレート様、よろしいでしょうか」
「ああ、どうした?」
そんな中、執事長がアルを呼んだ。何か深刻な顔でアルを部屋の外へと促し、室内には私とギルの二人だけが残る。
「…………」
「随分不満気な顔だな」
「いいえ。今夜はアルと二人きりで食事ができるはずだったのに……なんて思っていたわけではありませんよ」
「……そんなに好きなのか、兄貴のことが」
「好きですよ。忙しくてあまり私に構えなかった両親の代わりに、小さい頃からずーっと優しくしてくれていましたから」
「では親代わりみたいなものか」
「……いえ、親だとは思っていませんけどね」
そんな言葉を返したけれど、どことなくギルの表情が緩やかに見えた。
怒ったような怖い顔のイメージとは違う。
「…………?」
「なんだ」
「いえ、あなたもそんな顔をするのだなぁ、と」
「どんな顔だ」
「……」
やっぱり気のせいかも。またすぐに口元を引き締めて腕組みをするギルに、早くアル戻ってこないかなぁと、小さく溜め息をつく。
「あ、アル。おかえりなさい、なんだったの――」
そのときちょうど部屋の扉がバタンと閉まる音が耳に届き、そちらに目を向けると暗い表情のアルが立っていた。
嫌な予感に胸がざわつく。
「……祖母が亡くなったそうだ」
「――え」
「たった今、報せが届いた。急だったらしい」
「…………」
本当に、急すぎる……。だって、両親が祖母のところに行ってまだ二日も経っていない。
それならやはり私も一緒に行けばよかった……。
アルの言葉にただ呆然として何も言えない私に、アルはゆっくりと歩み寄ってきた。
「大丈夫か、マリーナ」
「……ええ」
「……ごめんな、俺はすぐあちらに向かわなければならないから先に行くが、おまえも落ち着いたらおいで」
「ええ……」
静かな口調でそう言って座っている私の頭を撫でるように優しく抱きしめると、アルは一度ギルに視線を向けて何かを交わし、すぐに部屋を出て行った。
「……――」
長男なのだから、父に何か頼まれたのかもしれない。やらなければならないことが色々とあるだろう。
私も、しっかりしなきゃ。何かアルの手伝いになれることは――。
そう思って立ち上がるも、勢いよく立ったせいかクラ、と一瞬よろけてしまう。
「……っ」
咄嗟にテーブルに手をついたけど、瞬時に反応したギルに肩を支えられた。
「大丈夫か」
「……大丈夫、です」
大丈夫。どうしたのよマリーナ。しっかりしなくちゃ。早く支度して、会いに行かなきゃ。お祖母様に……お祖母様……。
忙しい両親の代わりに、私を可愛がってくれたのはアルだけではなかった。祖母が、母親のようによくお話を聞かせてくれた。
「……」
こんなときなのに、優しく微笑んでくれる祖母の顔がぱっと浮かんだ。
どうして私は、最後に会いにいかなかったのだろうか。
「……ごめんなさい」
気がついたら涙がこぼれていた。
ギルが私の肩を掴んでいるから、見られたくなくて顔を伏せる。
「とりあえず座れ」
「……はい」
ギルは私の肩を抱いたまま、そばにあったソファに移動すると私を座らせ、自らも隣に腰を下ろした。
「私も、早く支度して向かわないと」
「まずは落ち着くんだ」
のんびりと休んでいる場合ではないと、もう一度立ち上がろうとしたけれど。まだ肩に乗っていたギルの手に力が込められた。
「……」
顔を上げた私の視界には、いつものように無表情なのにどこかあたたかい、ギルの瞳が映った。
「……落ち着いています、大丈夫です。だいじょうぶ……」
「その顔のどこが大丈夫なんだ」
「あれ……?」
ギルにハンカチを差し出され、ぽろぽろと止めどなく涙が溢れていたことに気がついた。
やっぱり少し、頭がぼんやりしているかもしれない。
「大丈夫だ。アルがすぐに向かった。君はゆっくり行けばいい」
「……でも」
頭ではわかっているのに、溢れる涙が止まらない。
ギルのハンカチを素直に受け取って目の下に当てるけど、それはどんどん濡れていく。
歪む視界を閉じると、少し乱暴にギルの大きな手のひらが私の頭に触れた。
「今は思う存分泣け」
「……っ」
そして頭に乗せた片手で少し強引に自分の胸に私の顔を引き寄せ、そのままの姿勢でそう呟いた。
泣き顔を見ないようにしてくれているんだと思う。
何よ、アルだったらもっと優しく頭を撫でてくれるわよ。
何よ……、女嫌いのくせに、なんでこんなことするのよ……。
「……ふっ、うう……っ」
心の中でギルに悪態をついて、私はその胸で思い切り泣いてやった。
*
「……ごめんなさい。もう本当に大丈夫」
どれくらいの時間泣いただろうか。
ようやく落ち着きを取り戻した私は、涙と鼻水でぐしょぐしょになったハンカチを握りしめながらギルの胸から顔を上げた。
「あの……、これは洗ってお返しします」
「別に構わない。俺たちは結婚するのだから、それは君のものだ」
「……」
そうですか。そうですね。じゃあ、遠慮なく……。
また泣いてしまいそうになったから、心の中でそう呟いて、そっとギルを見つめる。
「酷い顔だな」
「……女性にそんなこと言うなんて、酷い男ですね」
きっと今の私はとても不細工だ。アルに見られなくてよかった。
けれどギルは、そんな私の顔を見ると、ふっと小さく笑みをこぼした。その笑みは不細工な私を小馬鹿にしたものではなく、なんだか愛しいものでも見るような笑顔に見えた。
……この人、こんな顔もするの……?
「マリーナ様、もう夜も遅いですから、出発は明日の朝にいたしましょう。今日はゆっくりお休みください。ギルベルト様もお部屋をご用意いたしましたので、本日はお泊まりになってください」
私たちの邪魔をしないようにと、タイミングを窺っていたのだろうか。執事長にそう言われ、私は素直に頷いた。
大丈夫。本当にもう落ち着いて、冷静さは取り戻した。
ギルは執事長に、私は侍女に誘導されて、私たちは別々の部屋へと向かう。
「……」
彼の大きな背中を見送りながら、私は今までアルにも感じたことのない胸の高鳴りを覚えたのだった。