transition 0 下積みの前 2
2
「おらあ!素太!早くしろ!」
「素太!シャベルもってこい!」
「素太!モルタル作ったか?」
「じゃまだよ素チン!」
現場の朝は元気だ。そして必要以上に声がでかい。
「素太!俺のお茶もってこい」
「早く食えよ。とろいな」
「足くせえよお前」
現場の昼は賑やかだ。休憩も休憩ではなくなる。
「これじゃねえよ!何回言わせるんだよ素チン!」
「これぐらい一人で持てよ!だらしねぇな」
「おい!素!早く片付けろや!」
現場の夕刻は味気ない。この時間帯になると、もはや名前ですらなくなっている。
そして何より体がきつい。きつくてきつくてたまらない。全身バキバキだ。
親方の送迎で帰路につく。
「お疲れした」
「おう。しっかり休めや。明日は6時に迎えくっから」
走り去るハイエースを見送り、思わず天を見上げる。溜息と同時に流れ星。
六畳一間の安アパートに入るやいなや、万年床になっている布団の上にダイブする。っていうより、自然にそうなる。
なんで土木なんかやっているのだろう。そうだ、その話の途中だった。
高校へ進学した僕は、充実した生活を送っていた。部活動のヲタ芸研究を通じて、好きなアニメ繋がりの友人もでき、勉強にもうちこみ、校内で10位内に入るほどの成績まで上る事ができた。
高校生活も残り少なくなった冬、学校の帰り道で、健三を見た。以外な姿を。それは、かつて自分をおもちゃのように持て遊んでいたやつとは思えない姿だった。健三よりひとまわり大きな巨体の男から襟ぐらを掴まれ、今にも泣きそうな顔をしている健三だった。
本当にあの健三か?僕は信じられない面持ちで、その光景を見ていた。
「おいおい、ケンゾー君、仕事ナメてんのか?」
「ううう。すみません」
健三が人に謝っている姿を初めて見た。
「お前生意気なんだよ。早く死んでくれよ」
僕はビルの陰に隠れて、聞き耳をたてた。
「やり返してみろよ?出来んのか?」
「……」
きっと仕事の先輩であろうその巨体は軽々と健三を持ち上げて、今にもボコボコにしそうな雰囲気だ。
「それぐらいにしておけや尚也。バレるとやばいぜ」
奥から出てきた年配の作業員が止めに入った。
「ふん」
そう鼻を鳴らして、巨体の手から健三が離された。
ビルの陰からこっそり覗くと、巨体の男は年配の作業員と奥に消えていくところだった。健三は地面に放り出され、小刻みに震えていた。あの健三が?はっきりは見えなかったがきっと、泣いていたのかもしれない。僕は見てはいけないものを見た気がして、逃げるようにその場を離れた。
帰って目を瞑っても、昼間見た健三の姿が目に焼き付いていた。
気になるのか?何故だろう?奴がどうなろうと、知った事ではない筈なのに。
次の日も工事現場を通ると、健三が周りの作業員からやかましく叱責を受けながら働いていた。叱責というより罵倒に近かった。
健三の目からはかつての勝ち誇った輝きは失われ、虚な目をしていた。
2週間ほどして、現場から健三の姿が見えなくなった。休んでるのか、僕からは見えない位置で作業しているのかとも思ったが、あの様子なら辞めたのかもしれないと思った。
健三の襟ぐらを掴んでいたあの巨体の男が、他の作業員とでかい声で談笑しているのが聞こえた。
「ケンゾーとんだな。とうとう。ウケる」
「お前やりすぎたんじゃね?」
「あいつ横着なんだよ。クソガキだからな。調教してやんねーとwww」
「親方にばれなくてよかったな」
「そんなトロいミスしねぇよ。あーせいせいするわwww」
「お前、まじの悪だな」
「でもよ、これマジで真剣にだけどよ。あいつは俺がいじらなくたって、仕事から逃げ出したでしょ?これ、絶対」
「それは間違いない。遅かれ早かれ、あいつは長続きは絶対しなかったろうな」
「マジでよ。かき板ひとつも掻けないし、土木なんて最初からあいつにはむいてないね」
「入ってきた時はいきがって、何でもやってやるって言ってたけどな、そんな奴ほど骨なしチキンだもんな」
あの言い方からして、とんだというのは黙っていなくなった、という事だろう。健三が、あの健三が、逃げた。逃げ出した。
つまりだ、
僕が勝ちたくて、倒したくて、やり返したいと思っていたあの健三が、
スポーツができて、イケメンで、いつの間にか同級生の中心になっていたあの健三が、
土木の世界では通用しなかった。
この事実が僕を大きく転換させた。
その日から、僕は大学受験をやめ、土工の道を志した。成績の面から担任からは勿体ないから、就職よりお前は進学するべきだと強く勧められたし、親からは体が華奢だから無理だと再三にわたり言われたが、僕の意思は固かった。
僕はずっとこのチャンスを待ち望んでいたのだ。健三に勝つ日を。
健三が逃げ出したという事実。僕が土工で一人前になれば、健三に勝つ事ができる。これも若気の至りだろうが、その時は真剣にそう考え、妙にテンションが上がった。
そして、いつか健三の前に現れ、この事実を突きつけてやるんだ、と意気込んだ。
これが、僕が土方になろうと決めた理由。
だが、現実はこの通りだ、甘くなかった。