第9話 保健室
カァー、カァー
消毒薬の匂いがする。カラスの鳴く声で目が覚めると、保健室にいた。打ったところが、まだ、ジンジンして頭を撫でる。
ジャッ
起き上がって、徐にカーテンを開けると、そこにも寝ている人がいた。
あれ? 尾田さん?
どうして彼女がここにいるんだ?
布団からのぞく赤い襟で、体操着を着たまま、だという事が分かる。
もしかして、尾田さんもボールにぶつかったのか? でも、あのとき、確かに、ボールは尾田さんには、当たってないはず。
なのに、どうして。
『いま起きた。あの後、どうなった? なんで、尾田さんもいるんだよ』
オレは届けられている荷物から、スマホをとりだして、大翔にメッセージを送った。すると、直ぐに返事はかえってきた。
『お? 生きてたな』
そりゃ生きてるだろ?!
『お前の吹き出した鼻血を見て、尾田さん、気絶したんだよ』
マジか……超、恥ずかしい。
でも、怪我をした訳じゃないと分かって安心した。恐る恐る近づき、彼女を見おろす。昨日までは、ほとんど話さなかったのに、ホント、分からないもんだ。
顔を覗き込んでいると、桃花が『オタクさん』と言った事に、腹を立てた事を思い出す。
あれは、今日だったから。もし、あれがもっと前なら、オレも笑って済ましていたんじゃないかと思った。
自分の事は棚にあげて。
あんなにイラついたのは、オレが、尾田さんに、好意があったかないかの違い。
今度、桃花ちゃんと謝らなきゃな。
「……今日も、コノミちゃんねるを、見てくれてありがとう」
聞き慣れた声が聞こえて驚いた。声の主はもちろん尾田さんだ。いつも癒しをくれる、コノミの声と似てる子。
オレは、その寝言に小さく吹き出した。
たぶん彼女の事だから、昨日言った動画をちゃんと見てくれたんだろう。本当によく似てる。重度のファンであるオレが言うんだから間違いない。
今まで、『コノミ』で占められていた脳内に、『尾田さん』という小さなエリアができたかと思えば、一日たっただけで、それは、締め損ねたの蛇口のように、緩やかに、何かを溜めていく。
枕元に置かれた、いつもかけている、黒縁のメガネ。電車の時は、それどころじゃなくて、よくみてなかったけど。
可愛いな……尾田さん。
じんわりと何かが灯って、くすぐったい。思い出すのはやっぱり、先日見た、笑った顔。同じクラスで、毎日見ていたのに、日直というきっかけで彼女のことを知れて、よかった。
少し、ぽやっとしてて、小さいのにがんばり屋。
ベッドに座って、寝顔を堪能する。綺麗な黒髪が、ピンク色の陽にあたって、今は、少し茶色くみえる。
ぽこリンっ。
大翔から、また、メッセージが届いた。
『保健室の先生、今日は休みらしいぞ』
『そうなんだ』
『押し倒すチャンス! 応援してるからな』
ご丁寧にハートまでついてやがる。
だから、そういうんじゃなくて、ただ……
『バカ言ってんじゃねえ!』
オレはスマホを鞄に放り入れた。
ただ……もっと。
「うぅ……ん」
尾田さんが寝返りをうち、顔を向けた。
もっと、彼女の事を知りたい。こんなの、ガラでもないのに、夕日が、シリアスさを醸し出し、自然と腕をのばしていく。
頬に触れた手から伝わる、柔らかくて、彼女をとり巻く空気と同じ、静かな温かさ。
長い睫毛が震えて、口から小さく呻き声が零れる。指の背を頬に這わせて、その、赤くなった唇を指で触ると、少し湿り気を帯びた、ぷにぷにとした感触が、情欲を掻き立てた。
かわいい。
この気持ちがなんなのか? それに、名前をつけるのは、オレにはまだ、その権利がないような気がする。だけど、きっとそう遠くない未来、名前をつける日が来るんだろう。
赤紫色になったベッドの上の、2つの影が、段々とひとつの塊になっていく。ギシッ、と軋むベッドの音にさえも、遠慮しながら、オレは、自然と顔に近づけて、目を閉じていた。