傍観者はいじめをどうすべきか
単刀直入に言うといじめに立ち向かうことが大切だ。なぜなら、その行動をとることによりいじめられている人の心と命が救われ、被害をおさえることに大きく関係するからである。
しかし、「いじめ」という現場に出会った時「ここでいじめられている人を助けたら、次は自分がいじめのターゲットになるのではないか。」また「返り討ちされてしまうのではないか。」と中々勇気が出ないことがあると思う。
そのような時には大人や友達に伝えたりすることが大切である。なぜなら、1人では勇気が出なくても周りの人たちの協力があれば、勇気が出てくると思うからだ。
しかし、自分で「ダメだよ!!」と声をかけられる人はいじめている人に声をかけてほしい。「いじめ」というのは時間がたてばたつほどどんどんエスカレートしていってしまう。だから、「いじめ」は早く止めなければならない。「いじめ」は鋭いナイフよりも、もっともっと恐ろしいものだ。だからいじめられる人はその恐ろしいいじめが「全て」だと思ってしまい、「死」まで追い詰められてしまう。
でも、そんな時に守ってくれる人や支えてくれる人がいるとその人の気持ちが楽になるはずだ。なぜならそれが「全て」と思わなくなるからである。だから傍観者は「いじめ」に立ち向かってほしい。
でも「いじめ」に立ち向かっている時にこういう意見も出てくるかもしれない。それは「いじめられている人にも原因があるのではないか」という意見だ。ここからは僕の偏見になってしまうが、僕はこの意見に対して反対だ。「いじめ」というのは放っておくと最悪の場合、「死」につながるからだ。だからたとえその人に何か原因があったとしてもいじめられている人の「命」が奪われるのはおかしいと考えたからである。
「いじめられている人にも原因はあるのではないか」という意見があったとしても、そこで立ち止まらずに「いじめ」に立ち向かってほしい。
『僕の願い』
見て見ぬふりをせず、いじめられている人を助けてほしい。
他人に任せるのではなく、自分がいじめられている人の気持ちに応えるためにいじめている人に声をかけたり、いじめられている人の悩みについて聞いて、励ましの言葉をかけて支えたりするなどの行動をしないと何も変わらない。
だから僕はいじめられている人を1人でも救うためにこのような行動をしていく。