第448話 (特別編)ノルテのパーティー①
(スヴェトラナ視点)
闇の中をどれぐらい歩いただろう?
もう手足はしびれ、感覚が麻痺し、この腕の中に抱えた聖鎖の球体が発するひりつくような魔力以外、これが悪い夢ではなく現実だと実感できるものは無くなっていた。
“神の声”に導かれるままに、私はひたすら歩いていた。
巫女のつとめに精進していた清い身の頃でさえ、ほとんど私には降りてこなかった神々の声が、なぜ罪を犯し奈落に落ち汚れきった今になって私に聞こえるのか?
もうそんな疑問さえ持つことは無かった。
ただ、神の声に“魔王の真体”たるこの球体を滅ぼせと命じられ、思ったより軽いそれを痩せ衰えた両の腕に抱えて、歩き出したのはいつのことだったか。
時間の感覚はとうに無い。
どこへ向かうのか?
それは神の声が教えてくれた。
あの地上の静寂の館から日々目にしていた“魔の山”。
時に噴煙を噴き上げていたあの山は、言うまでもなく火山だ。
その火山の火の源は地下にある。
そう、このモーリア坑道の地下深くには、あの火の源に至る道があったのだ。
この封印の地を築いた200年前の人々は、おそらくいざという時のために、このことも考慮に入れていたのだろう。
もちろん、聖鎖の球体に魔王が完全な形で封じられている間は、火山に投げ込んだぐらいでは滅びることなどないだろう。
それで滅ぼせるなら、最初からそうしているはずだ。
だから、何らかの事情で魔王の肉体がくびきを逃れて脱出してしまい、その魂魄とも言うべき真体だけが残された時に、はじめてこの“火山による破壊”という緊急避難的な措置が必要になる、おそらくそういうことなのだ。
なぜ、こんな奇妙な現象が生じたのかは私にはわからないが、きっとそれさえも神々の思し召しなのだろう。
私は私のつとめを果たすのみだ。
北の巫女としてのつとめを果たし損ね、多くの命を犠牲にした私が、最期にもう一度だけつとめを果たす機会を与えられたのだから。
暗く細い曲がりくねった洞窟を私はひたすら歩いた。
それは深く深く、黄泉の国へと下りていくような道筋だった。
途中で何本もの分岐があったが、神の導きで迷うことは無かった。
不思議と魔物には出くわさない。
この坑道迷宮には、復活した魔王のエサになることを幸運にも免れ、かつ魔王が引き連れていくほどでもなかった低レベルの魔物が、数え切れないほど棲み着いているにも関わらず。
おそらくは、この聖鎖の球が発する聖なる波動が、低レベルの魔物は忌避するような効果があるのだろう。
だが、それが万能でないことは予想していた。
魔王の真体などという、戦慄すべきもの。
それはおそらく、ある程度以上の力を持った魔物・魔族にとっては、さらなる深淵、さらなる魔の力をわがものにすべく、なんとしても手に入れたい、むしろ垂涎のものであるだろうから。
だから、“その気配”を察知したとき最初に感じたのは、“ああ、やっぱり”というものだった。
聖なる波動を忌避せず、逆にこの聖鎖の球の価値を知って向かって来る、力ある魔。
そのような強力な魔と出くわせば、私のような中途半端な力しか持たない堕落した巫女に抗するすべはない。
だが、これが私に与えられた試練であり罰であるのなら、たとえこの身を引き裂かれようとも使命を果たそうとあがき続けるほかはない。
むだな抵抗と思いながら一縷の望みをかけて、私は岩壁に身を寄せ結界を張った。
あわよくば、この魔力の持ち主が私に気付かず通り過ぎてくれることを願って。
そして、心の中で神々に、世界の破滅を避けるためお力を貸してくださることを祈る。
だが、重い足音は、既に何かを探しているのではなく確信しているように迷いなくこちらに近づいてきた。
瘴気と魔力の突風が押し寄せ、私の張った結界は木っ端微塵になった。
「無駄ナ抵抗ハスルナ」
非人間的な声が発した。
悪魔の口から。
洞窟の天井に着きそうなほどの背丈の悪魔。
いや、これは天井につかえずに済むだけの大きさに留めているだけだ。
本来はもっと大きく、もっと強力な存在に違いない。
私の腕の中の聖鎖の球が放つ淡い光が、その姿に陰影をつける。
私は判別や人物鑑定のスキルは持たないが、仮初めにも長く巫女の長を務めてきた者として、魔の者の見極めぐらいはできる。
これは、封印の地にも時折紛れ込んできたような下級悪魔はもちろん、ただの上級悪魔ですらあるまい。
おそらくは名のある魔王の眷属クラス。それだけの圧力と禍々しい瘴気を発している。
しかも、なにか私が知っているような気配を感じる。
そう私が認識したからだろうか?
その悪魔の姿が変化した。
場違いな貴族の男の正装が、闇の中、聖鎖の球が放つ淡い光に浮かび上がった。
「!!・・・あなたは!?」
そうだ。
この男は昨年、静寂の館を訪ねて来たガリス公国の貴族・・・たしか、フート侯爵と名乗った男だ。
多額の喜捨をしてくれたのみならず、アイテムボックスのスキルを持つのか、若い巫女たちが喜ぶような装身具や珍しい菓子などを手土産に持って来たことで、たいへんな歓待を受けた。
少し考えてみれば、プラト北部の街から魔物の領域を通り抜けて何日もかかる封印の地まで、供も連れずに貴族の男が現れるなど、あるはずが無い。
そんな異常な出来事だったのに、あの時もその後も、誰もそのことを不思議に思わなかった。
それが既にこの男の、つまりはこの悪魔の術中に落ちていたということだったのだろう。
メトレテスがこの男とずいぶん親しげに話をし、メティの案内で男は封印の地のあちこちを視察して行ったのだ。
なのに私は、そのことに疑問を抱くのではなく、ただメティと親しげにする男に嫉妬心をかき立てられていた。
なんとおろかだったのだろう。
「まさか、貴女とこのような所で再会しようとはな。北の巫女スヴェトラナよ。覚えておいでか?ガリス公国のフート侯爵としてお目にかかったことを」
薄笑いを浮かべた男は、やはり私の記憶通りあのガリスの貴族だった。
いや、もちろん、そのような偽名はどうでもよい。
これは人間の男ではない。
そして、この男の後ろに影のように控える女も。
この女の方はどうやらアンデッドだ。
聖なる波動を苦にして距離をとっているのがわかる。
「・・・本名は何というのです?そして、今さら何の用です?」
男の姿をとった悪魔が、今度こそ酷薄な嘲笑を浮かべた。
「ふ、いまだ公女きどりか。有象無象の魔物の玩具と化した売国の女が」
その不躾な視線が、ボロボロの布きれに包まれた私の膨らんだ腹部に向けられた。
私はただ唇をかみしめる。
血の味がする。
「我が名はゲルフィム。魔王の使徒などと呼ばれることもあったがな、それも仮の姿、きょうここまでの名に過ぎぬ」
「ゲルフィム!?使徒ゲルフィムっ・・・そう、そうだったのね!」
魔王を封じる巫女の長として、魔王の配下の中でも最上位に位置する使徒の名前ぐらいは知っていた。
私たちはどうやら、魔王の使徒にまんまと騙され、その復活のために利用されていたのだ。
メトレテスも手駒にされたに過ぎなかったのだろう。
私はようやく、昨年来の悲惨な転落の筋書きを理解した。
この男は魔王の命で、遅まきながらその真体を取り戻しに来たのか?
だが、それにしては先ほどの台詞は腑に落ちない。
「おとなしくそれを渡せ。さすれば見逃してやろう」
「・・・これを手に入れてどうしようと?魔王に命じられたのですか?」
私はつとめて平静な声で尋ねた。
「そなたには関わりのないことだ」
そのゲルフィムの返事に、私は奇妙な違和感を感じた。
何というか、これは“悪魔らしくない”。
「・・・あなた、人間なの?」
「!」
目の前の使徒とその背後の女アンデッドの2人が、同時にびくりと反応した。
なにかが核心に触れたらしい。
だが、どういうことなのかはわからない。
「なにを言っている。先ほどの我が姿を見ていなかったか」
悪魔の姿を、ということだろう。
だが、それこそ妙に言い訳くさい。
私にも自信があっての物言いではなかった。だが、この時確信した。
理由はわからないが、この悪魔には、誰か野心家の人間の魂が同居しているかのようだ。
悪魔は狡く悪賢いが、それは人間の男が持つような権勢欲や上昇志向とは異なる種類のものだと思う。
悪魔も人間の男も、お前が理解しているのか?と問われれば自信は無いが、今感じている違和感にはなぜか確信がある。
ゲルフィムはしばらくの間、冷たい目で私を見つめると、こう口にした。
「よかろう、ではそなたの望むとおり、人として話し合うとしようか」
そして、まるで別人のような口調になって、言葉をつないだ。
《スヴェトラナよ、汝の手に持つそれを渡せ》
美しい声。
天上の楽の音のように美しく蠱惑的な声。
その言葉を聞いた途端、私は至福の喜びに包まれた。
ああ、神の言葉だ。
私は神の命を受けたのだ。
なんという喜び!なんという光栄!
私はその場にかしずくと、腕の中のずっしりと重い金属の鎖で編まれた球体を、神の代理人へと差し出そうとした。
だが、その時、私の体に電撃が走った。
はっとする。
私は何をしようとしていたのだ?
神の言葉に従って、これを滅ぼすことが私のつとめではなかったか?
目の前の男の目が赤く光った。
《よこせ!》
私は無意識のうちに、“心の守り”の魔法を行使し、蠱惑的な声に耐えていた。
ゲルフィムの体が膨れ上がり、人間の姿から、再び洞窟を埋めるような悪魔の姿に変化していく。
聖なる波動は、魔王の使徒にとってもやはり不快なものだったらしく、力尽くで奪う前に私自身に差し出させようとしたのだろう。
だがしょせんこの悪魔が本気になれば、私がどう抵抗しようと寸秒も持ちこたえることはできまい。
もう火山の地下の火口までそう遠くないはずだが、堕ちたる巫女たる私には最期のつとめさえ果たせないらしい。
それでも、最期だからこそ死の瞬間まで神を信じよう、そう思うことで、私は目の前の悪魔の魔力と瘴気に必死に耐えていた。
だが、あとで思えば、この時の意味のない会話でかせいだわずかな時間が、世界の行く末を変えたのだ。
ゲルフィムの体から強烈な殺気が発したその時、背後の闇の中から別の声がかかったのだ。
「そこまでじゃ。魔王の腰巾着よ、決着をつけに来たぞ」




