第429話 罠
モルデニア北部は、ゴツゴツとした岩山の間に、夏でも苔や地衣類しか生えないツンドラ地帯が広がっている。
湿地帯がそこここにあるため、足場の良いところを選ぶと大軍の進行ルートは自ずと限定されてしまう。
連合軍の将兵は、そこを概ね三路に別れて慎重に北進していた。
中央をレムルス帝国軍、東側の右翼はパルテア帝国軍、西側の左翼はメウローヌ王国を先頭に、アルゴル王国軍が続いている。
後続はカテラ、モントナ、都市国家勢など、後詰めとして予備兵力の位置づけになったのがエルザーク王国とアンキラ王国の軍だった。
ただし別働隊的な位置づけで、7千の兵全て騎兵のメサイ首長国勢がパルテア軍よりさらに右翼を、大森林地帯とウェリノールの亜人、エルフたちは最左翼を、独自のペースで進んでいた。
街道らしい街道の無い領域を慎重に進むため、地図上の空白域たる魔王の本拠地の領域に入るのは、早くて翌日の午後と見られていた。
だが――――
「どうも嫌な感じが強まっているわ」
ルシエンは、粘土トリウマに騎乗して出発した直後から顔色が悪かった。
遠話で大森林勢のエレウラスやウェリノールのルネミオンらと連絡を取ると、同じように高位のエルフ族は“悪い気”を感じている者が多かった。
ウリエル山脈の亜人軍の中からも、マゴルデノアの孫の孫の孫だっけ、とにかくマルディルが、良くない風が吹いている、と言っているらしい。
一方で、このあたりはもう魔王の版図だ。
魔王の放つ瘴気が濃い土地では精霊たちが気が立っていたり怯えるのも当然だ、という考えもあって、はっきりしたことはわからなかった。
ワイバーン騎乗兵も索敵のために飛び立ったが、北進するに連れ霧が濃くなり、ほとんど情報が得られなくなった。
敵の偵察に違いないヤミガラスや下級悪魔の群れが散発的に現れるが、特に攻撃してくることも無い。
俺たちからもエヴァがドラゴンに乗って偵察隊に加わったが、ファイアドラゴンの威容を目にするとヤミガラスなどは逃げ散ってしまい、視界の悪い中でなにも新たなことはわからなかった。
こうした中、総司令部は判断をつけかねたまま、「十分気をつけて進め」との指令だけがあらためて伝えられ、連合軍は前進を続けていた。
先頭部隊のひとつであるメウローヌ王国の騎士団を自ら率いるシャルル王太子は、特に積極的だった。
「魔王と戦うのだ、悪い気とやらを感じるのは当然であろう。臆しておっては勝てる戦も勝てぬ」
もともと騎兵が多く機動性に富む左翼のメウローヌ軍は、全体の中でもやや突出して進んでいた。
それは唐突だった。
集結地を出立してわずか半日、最後尾の部隊はまだ夜営地を出て数クナートしか進んでいなかった時のことだ。
左翼先頭のメウローヌ軍の前に、1人の男が現れた。
場違いに煌びやかな貴族の正装。
それが戦場に。魔王の版図たる極北の地に、何の前触れも無く。
馬も馬車も無く、どうやってここに現れたのかもわからなかった。
「な、何者だ!?」
「おい、そこの者、いや・・・」
明らかに貴族であろう男に、兵たちはどう声をかけていいものか一瞬迷い、上官を通じてメウローヌ軍幹部を呼んだ。
その間、男は何も名乗らず、薄ら笑いを浮かべてたたずんでいた。
「・・・ここか」
半白のひげをきれいに整えた初老の魔導師、メウローヌ軍を指揮するオーギュスト元帥が側近を引き連れて馬を飛ばしてきた。
その目がすっと細まった。
隣りに馬を寄せた、判別スキルを持つ兵の報告を聞き、おそらくは自分でも判別魔法でそれを確認していたのだろう。
「アンゲリオス・フート・・・っ!ガリス公国のフート侯爵か!?まさか!」
その反応を見て、男は満足げに頷いた。
「うむ、私のことを知っているようだな、重畳重畳。そなたはメウローヌのオーギュスト元帥だな。・・・後ろに見えるのはシャルル王子か。せっかくならレムルスの皇太子がよかったのだが、最初の贄はこの程度で我慢してやっても良い」
まるで世間話でもするような口調で、フート侯爵を名乗った男は口にした。
「な、なんだとっ!?この男を捕らえよ!いや、殺せ!!直ちに!見かけに騙されるな!奴はっ・・・魔王の使徒だ!!」
オーギュスト元帥が叫び、まわりの騎士らが痩身の貴族へと殺到する。
だが、それよりも早く、男の右手がギラリと輝くと、火山の噴火のような灼熱の炎の塊が手のひらから発し、元帥へと飛んだ。
「うおっッ」
さすがに百戦錬磨の高レベルの魔導師、オーギュストは全く老いを感じさせぬ反応で魔法盾を張ったが、馬まではかばいきれず、溶岩のような塊のひとつが乗馬に直撃し、元帥の体は投げ出された。
「閣下っ!」
「・・・逃がすなっ!フートを!使徒ゲルフィムを仕留めよ!!」
後方で親衛隊に守られていたシャルル王太子が、身を翻して逃げ走ったフートを追うよう直接命令の声をあげた。
精鋭の騎士団、続いて魔法部隊も馬を走らせる。
馬にも乗らず、さほど全力で走っているようにも見えぬ貴族に、全力の騎馬がなぜか追いつけない・・・
メウローヌ陣中は大騒ぎとなり、フートが逃げた方向、レムルス帝国軍が構える前列中央方向へ多くの兵が向かった。
「殿下、我らにお任せ下さいっ」
「・・・くっ、決して逃すな!あれを放置しては大きな禍根、討ち取れば褒美は望み放題ぞっ!」
自らもフートを追っていた王太子に魔法兵の指揮官が自重を求め、ようやくシャルルは馬を止めた。
用兵を一手に担っていたオーギュストが重傷を負わされ、メウローヌ軍の隊列は大きく乱れていた。
(おろかな、赤子の手をひねるようなものだな。人間には人間の思考がこれほど簡単に読めるものか)
「なにっ!?」
いつの間にか、そばに親衛隊もまばらになっていると気付いたシャルルの背後から、ゾッとするような声が響いた。
振り向くとそこには、逃げたはずのフートが悠然とたたずんでいた。
そこには先ほどの貴族とは、微妙に異なる雰囲気を持つ男の表情があった。
あたかも、二つの人格が1人の体内に同居しているように。
鮮血が飛んだ。
まわりの親衛隊の者たちがフートの姿に気付いたのは、シャルル王太子の首が体から離れ、放物線を描いて飛んだ後のことだった。
「殿下!!・・・貴様っ!」
だが、護衛の騎士たちが殺到したときには、まるで今見た姿が幻だったかのように、“フート侯爵だった者”の姿は消え失せていた。
***
緊急事態を告げる呼び子とホラ貝が、霧の中に鳴り響く。
指揮官クラスには一斉に魔法の遠話が飛び交った。
俺たちはその時、中央前列のレムルス軍の本体、つまりは全軍の総司令部近くにいた。
「メウローヌ軍に襲撃!?たった1人?フート侯爵っ!?」
「ゲルフィムが現れたわっ・・・あたしは先に行くっ!」
モモカとサヤカ、そしてリナにも、それぞれ別ルートでほぼ同時に遠話が入った。
サヤカに続いてリナも“飛翔”し、それを見たエヴァがファイアドラゴンのオラニエを召喚する。
「・・・みんな乗って!飛べっ、左翼前方へ!」
混乱の極にあるメウローヌ軍からは、正確な位置情報が得られないから、視界が悪くても飛んで直接見つけるしか無い。
「えっ!」
霧に包まれた空に舞い上がり、パーティー編成したサヤカたちの視界も加わりスキル地図に移る範囲が広がっていく。
そこに俺は、突然多数の赤い点がプロットされたのを見て息をのんだ。
ただ視野が広がったからじゃないだろ、これは?
「なに?この波動は」
「・・・どういうこと?強い魔力が連続発生している」
ルシエンとモモカが、異常ななにかを感じ取っていた。
霧の中、見下ろす大地のあちこちに微かなオレンジ色の光が浮かんでいる。
スキル地図上、そこから数え切れないほどの赤い点が次々発生している。
(リナ、聞こえるか?あそこへ、オレンジ色に光ったところに!)
(おけーっ)
急行したリナが見ているものがパーティー連携を通して認識されてくる。
「まさかっ」
「うそでしょ!?」
それはすぐに、ドラゴンの上の俺たちの肉眼でもはっきりと見えてきた。
「オークの群れ、次々湧き出てる?」
カーミラが見たままを目にする。
「転移魔方陣だわ・・・いったい幾つあるの?」
モモカが呆然とつぶやいた。
オレンジ色の輝きは、魔方陣が連続的に発動して、魔物を吐き出す時のものだった。
メウローヌ軍の兵たちは、突然あらゆる方向に出現したオークリーダーの大群に大混乱に陥っている。
《みんな、ここだけじゃないわっ!》
サヤカの遠話が響いた。
《もう、全軍が囲まれている!!》
その言葉を聞いた途端、脳内でぐっと広がったスキル地図に、無数の赤い点が、連合軍を取り囲むように、広大な領域に出現していることが表示された。




