第210話 (特別編)夜の娘の回想
ガリス辺境の小領主 ベルワイク男爵令嬢の回想
自分が人とは違う、と最初に気づいたのはいくつの時だっただろう。
思春期の少年少女ならありがちな妄想とも言えるけど、私の場合、それは文字通りの意味だった。
もちろん、物心ついたときには母がいなかったことや、私が世の大多数を占める平民ではなく、少領とは言え領主貴族の一人娘であることなどは、珍しいことではあっても、そういう意味ではない。
母について言えば、ごく希に、それも夜中に突然、ちゃんと警備の兵もいて誰も勝手には入れぬはずの館の奥の私の部屋に、ふらりと現れる女性がそれであるらしいと、3、4歳頃には察していたけれど、その話は父以外にはどうやらしてはいけないことだというのも間もなく悟った。
小さい頃から、同年代の男の子たちよりずっと力が強いことや、怪我をしてもすぐに治ってしまうこと、暗闇の中でも目が見えること、など、他の子はそうじゃないのだ、と徐々に理解していった。
父が新たに迎えた女性が子どもを産めないとわかり、私が10歳になったとき、父は2人で遠乗りに出かけた際に、初めて母の話をしてくれた。
それまでに半分ぐらいは察していたことだったけど、初めて知ることも多かった。
若くして男爵家を継いだ父が、生涯たった1人だけ心の底からひかれ、愛した女性が吸血鬼だったこと。
それも、夜の一族の始祖と伝説の中で恐れられる吸血鬼の王の愛娘であり、既に数百年を生きる女であったこと。
その住まう場所が、たまたま辺境にある当家の所領の外れの深い森にあり、若き日の父は、狩りの獲物を追って1人踏み込んでしまった森の奥で、初めて彼女に出会い、一目で恋に落ちたのだと。
父の激しい想いは相手の素性を知ってもいささかも変わらなかった。
当初は「虫けら同然の人間など、妾がエサに過ぎん」と相手にもしなかった女吸血鬼に、幾たび死ぬほどの恐怖にさらされ、さらに自分をまことに愛していると言い張るなら、と課された無理難題に応え続けている間に、いつしか彼女の心も開き、ついに2人は結ばれたのだという。
それでも、日の光を浴びられず、数百年もの間勝手気ままに生きてきた吸血女王と共に暮らすことはできなかった。
リリスは森の奥に創り出した結界内の屋敷で、夜の眷属とアンデッドらを従えて生きていた。2人の逢瀬は、森の中が多かったが、時にその不死者らの屋敷を訪れたこともあったという。
そして、リリスはあるとき神託を下すように告げた。
子をのぞむか、と。
父が迷うそぶりも無く肯定すると、リリスはこう言ったそうだ。
「その子どもはそなたの命数を奪うであろう。そして、そなたが後継者として人の子を望むのなら、妾は共にその子を育てることはできぬ。それでも本当にのぞむか?」と。
それから姿を消していたリリスは、十か月後の新月の晩、領主の館の父の寝所に生まれたばかりの赤子を抱いて現れた。父はその時、不死身の女吸血鬼が初めて憔悴している様を見たという。
父のいたわりの言葉にまんざらでも無さそうな様子だったリリスは、明け方まで
父の血と精を吸って絡み合い、赤子にたっぷり乳を吸わせると、朝露のように姿を消したと言う。
その赤子が私だった。
父は優しく頼もしく、私の理想の男性だった。
ベルワイク領は文化の低いガリスでもさらに辺境、白嶺山脈の麓にあり、不自由極まりない田舎だったが、父は民と共に荒れ地を開墾し、川の水を引き、慎ましくも実り豊かな領内の暮らしを実現していた。
私は父から狩りや武芸を学び、読み書きを習った。
幼い頃は、森の奥に入ると、幾たびか母に会うこともあった。
リリスは気まぐれに武芸を教えるというか、単にじゃれ合うようなものだったが、一度として歯が立たなかった。
だが、父が都の公爵様の命で他領の貴族から後添えというか、そもそもリリスとは結婚の形を取っていなかったようだから正室なのだが、妻を迎えてからは、リリスはまったく姿を見せなくなった。
そして、リリスの話をすることはタブーになった。
悲劇は私が13の時に起きた。
所領の奥の山から金銀の鉱石が見つかったのだ。
父はすぐに鉱山を開こうともせず慎重に地元の者だけで周辺を調べていたが、義母が実家に情報をもらしたらしい。そこから貴族社会にどのように鉱山の権益の話が広まったのかはわからない。
父はある日、他領の祝い事に呼ばれた帰路、襲撃を受けて殺された。
それと同時に領地を接する、以前から険悪な関係にあった伯爵家の軍が、領内に攻め込んできた。
領兵の隊長らは奮戦したものの全滅し、私は館になだれ込んできた敵兵を護衛の者たちと迎え撃って、ほとんどの者が息絶えるまで戦ったが、義母や侍女らを人質に取られ、降伏した。
私は父の敵である伯爵の妾にされた。
紛れもない侵略であるはずなのに、どのような貴族社会の力関係によるものか、父は街道の盗賊の手にかかって不慮の死を遂げ、跡継ぎである娘が伯爵の側室となったことで、ベルワイク男爵領は合法的にヒュードラ伯爵領に併合された、という話になっていた。
私は人質にされた家中の者たちのために純潔と誇りを捨て、おぞましい伯爵の愛玩物の境遇を受け入れたつもりだった。
だが、伯爵は異常性癖の持ち主だった。いつしか行為はエスカレートし、私は裸身に首輪をはめられて鞭打たれたり、時には人前でも淫らな格好をさせられるようにさえなった。
しかも、いつしか家中には、忌まわしい淫魔が生んだ娘、私の存在故に神罰が下って男爵領が滅ぼされたのだという噂が広まっていた。
あろうことか、その噂を広めていたのは、伯爵の情婦になっていた義母だった。
そしてある日、私にさらなる辱めを与えようとした伯爵を、私はついに殺してしまった。
気づくと血まみれの生首が私の手の中にあったのだ。
それからのことは、夢かうつつかわからない。闇に紛れて館を飛び出し、ひたすら駆けた。
駆けて駆けて逃げ続け、生まれ故郷を遠く離れた都会の片隅で、名を捨て、身分を隠し、息をひそめて生き続けた。
あれほど、この身を穢した伯爵を憎悪していたのに、温室育ちで働いたこともなかった私にできたことは、結局男に身を売って生きることだけだった。
貴族を殺して逃亡した私は、日の当たる場所には出られないし、まっとうな職に就くことは難しい。
ガリスは特に、街への出入りや国境を越える際のチェックの厳しい国だ。
商人に体を提供して、なんとか顔見知りのいない公都へ潜り込むことは出来たとは言え、この先、どう生きる望みも持ちようが無かった。
公都で再会したリリスは、“人間など見限って吸血鬼として生きるがよい”と無責任なことを言っていた。
でも、私は人の血を吸いながら永遠に夜の闇に生きるなんてまっぴらだし、父の危機に気づきもせず、結果として見殺しにしたあの女を、母として受け入れることも出来るはずがなかった。
そんな中でこの数日、我が身に起きたことは、まだ信じられない。
何が起きたのか、そしてこれから何が変わろうとしているのか。
ただ、言えるのは、私にもはや失うほどの価値のあるものはないのだから、恐れることもない、ということだ。
父が死んでから、初めてリリスとちゃんと話が出来た気もする。
そして、あのシローという男。私よりひとつ年上らしいけど、ずいぶんと甘ちゃんで行動にも一貫性が無いし、3人(いや4人?)もの女を侍らせた、いいかげんそうな男だ。
でも、助けてくれた恩義にはしばらく報いるとしよう。そして、どっちにしろ男にすがって生きるなんて気は無いのだから、私が強くなればいいのだ。
まずは娼婦のジョブを変えられる所まで経験を積む。
そしてかなうなら、父の名誉を取り戻し、私の誇りをも取り戻すのだ。
そう、もう後悔することの無いように。




