星垣多美の話
[2021年7月29日]
ソノ様よりファンアートをいただきました。ヒロインの星垣多美の姿を捉えていただきました。
本文トップに表紙として設置させていただきます。
ソノ様、大変雰囲気の良いイラスト、ありがとうございました。
謝辞
この作品は、かつて2chのNews速報VIP掲示板の『15、16歳位までに童貞を捨てなければ女体化する世界だったら』スレッドに、850としてはるきKが投稿した小説です。当時、ネタを投下してくれていた名も知らないスレッド住人の皆様に感謝をしつつ、この作品を捧げたいと思います。
なお、投稿当時から多少の表現変更が行われていますけれど、変更はなるべく軽微に留めています。ご容赦下さい。当時投稿できなかった続きの部分も含めて、これが今ある全文となります。また、この作品は未完です。今後加筆の予定もありません。ご容赦下さい。
初出は2006/10/10(火) 14:02:28.96になります。
さらに蛇足ですが、通称『保管庫』の主も私でした。
「おーい、のぶひこーぅ」
中学最後の朝、いつもとは違った緊張感の中で登校していた俺の後ろから、聞き慣れた声がした。
足を止めて振り返ると、渉がダッシュで追いついてきた。
「おはようさーん」
「おぅ、おはよう渉」
「いよいよ最終日だな」
「そうだな」
「これであの小うるさい数学の高橋ともおさらばかあ」
「へへ、それもそうだな…」
渉はいつもの調子で軽口を叩いてる。
けど、俺はちょっと感傷にひたりながら、今日が最後になる通学路の様子を目に焼き付けていたんだ。
「あゆみ!」
渉が突然声を上げた。
見ると、向こうのコンビニの角には一人の女子が立っている。
渉の彼女、歩美だ。
「朝から同伴ですか渉君。やるねえ。」
と冷やかしてみた。
「うっせい。伸彦も彼女くらい作らないと、マジやばいぞ?」
「う…」
返す言葉に詰まってしまった。
そうなのだ、男子はそろそろ相手がいないと大変なことになる…らしい。
『16才の誕生日』というのが、男子共通のメルクマールになっている。
つまり、この日までに童貞を捨てないと、女になってしまう、というんだ。
保健体育の授業でも習ったことだが、こうやって中学卒業の日になると、いよいよ待ったなしの重圧がのしかかってくる。
今放たれた渉のひと言が、頭の中で堂々巡りを始めた。
§
『次は、卒業証書授与です』
制服の左胸に赤いリボンを付け、卒業式は粛々と進んでいく。
コンビニから学校までの道、渉のひと言のせいで俺の心は揺れに揺れていた。
押し黙ったまま、前を歩く2人の後をついて校門をくぐり、どこからどう行ったのか記憶がないまま、今卒業生席に座っている。
『…石…哉』
『…沢…佳』
『林 伸彦』
「!」
「は、はいっ!」
隙を突かれた格好になって、返事の声が裏返る。
立ち上がるのが一瞬遅れた。
注目が集まったように感じる。
顔が真っ赤になる。
だが、次の瞬間、
『東 雅史』
名前の読み上げは淡々と続いていた。
ちょっと安堵しながら、しかし顔は真っ赤なまま、壇上に上がる。
「卒業おめでとう」
校長先生の声がかかった。
卒業証書を奪い去るように壇上から降りた。
§
「やーれやれ、やっと終わったあ」
式が終わって中庭に出ると、渉が話しかけてきた。
「やっと終わったなあ」
応える俺。
「これで本当に終わりだな」
「ああ、そうだな」
「色々いたずらしたよな」
「ああ、おまえほどじゃないけどな」
「おいおい、先陣切るのはいつも伸彦だろーが」
「あれっ?そうだっけ?」
「とぼけるなよおまえよー」
からからと笑う渉。
その様子を見てちょっと気が和んだ。
「まぁともかくも」
渉が続ける。
「高校に行ってもよろしく頼むぜ、伸彦ぉ」
「ああ、俺の方こそよろしく頼むわ、渉ぅ」
今度は2人で笑い合った。
「そういや彼女、歩美ちゃんはどの高校に行くんだ?」
と俺が聞く。
「ああ、同じさ。西高」
「そうか。じゃ、またみんな同じって事か」
「そういうことになるな」
「代わり映えがしないな」
「ほっとけ」
いつもの調子で喋っていると、向こうから渉を呼ぶ声がしてきた。
「おっと。伸彦、わるい、今日は母親と帰らないと、それじゃな」
「ああ、それじゃまた今度な」
時々こちらを見ては帰って行く渉を見送りながら、俺も母と一緒に学校を後にする。
もう、この校門をくぐることもないんだ。
そう思うとちょっと寂しい気持ちになった。
校門を出たところで感傷にふけっていると、母が口を開いた。
「伸彦、ちょっとお茶飲んでから帰ろうか」
少し考えてから
「あ、うん」
と返事をした。
こうして俺の中学生活はフィナーレを迎えたんだ。
§
家に帰る道をちょっと外れて、俺と母はバス道路に面したファミレスに入った。
「伸彦、なににする?」
「あー、うーん、俺、コーラ」
「またそんなもの飲んで…」
「いーじゃんか、卒業式の日ぐらい」
「もう、しかたないわねぇ」
母がテーブルのボタンを押すと、ウエイターがやってきた。
ほどなくコーラがやってきた。
母の前には、ホットティー。
ストローを刺してコーラを一口吸ったところで、母が口を開いた。
「伸彦もとうとう高校生だねぇ」
「なにしみじみ語ってんのさ」
「やっぱり腹を痛めた母としてはねー、こういう節目になるとしみじみするの」
「俺には分からないな」
「伸彦も親になったら分かるわよ」
「そんなもんですかねえ」
それから、高校にどうやって通うのかとか、準備の買い物をどうしようかとか言う話をした。
そろそろ帰る時間か、と思われたとき、母が話を振ってきた。
「…そういや、隣だった拓己君と、まだ連絡取ってる?」
ぐ、っと詰まってしまった。
隣に住んでいた拓己、幼稚園から中学まで一緒だった幼なじみの星垣拓己。
彼が引っ越してから、もう2年半を超えた。
引っ越していった直後に1、2度連絡したが、自然に沙汰止みになっていた。
「…と、ってない」
「そう…」
拓己は隣の市に移り住んでいっただけで、遠く離れてしまった訳じゃなかった。
なのに連絡を取らなくなってしまったことを、誰かに知られるのが気まずかった。
「彼も卒業だから、もしかしたら高校で会うかも知れないわね」
「そ、そうだね…」
母は、俺が連絡を取らなかったことには一切触れずに、話を続ける。
「もし、もしだよ、拓己君が同じ高校だったら、伸彦、彼を一回うちに連れてきなさい」
「ええ?」
「ほら、なんて言うのかな、お母さんも一回見てみたいのよ」
「なんなんだよそれ」
「単なる興味」
「ぶは」
趣味が悪いなと思いつつ、俺は母の申し出に同意した。
ファミレスからの帰り道、俺は昔のことを思い返していた。
すっかり忘れていた、小学生の日々を。
そういえばいつも隣りに拓己がいたっけ…
拓己…拓己?
思い出せなかった、拓己と遊んだ記憶はあったけど、俺は拓己の顔を思い出せなかったんだ。
§
卒業式から3日後。
4月になる一足先に、学校説明会があった。
4月から通う高校は、家からバスで15分の所にある。
通学の予行も兼ねて、バスに乗って学校へ向かった。
バスはわりあい平坦な道を快調に進んでいく。
これなら晴れた日は自転車でもいいかもな、そんなことを考えていると、高校の校舎が見えてきた。
バスを降りると、高校まではちょっとした上り坂だった。
道の両脇には桜並木が伸びている。
今年は暖かいせいか、もう咲き始めていた。
校門をくぐると、看板が出ていた。
『学校説明会は体育館です→』
指示されたとおりに進むと体育館があった。
入り口の前に受付がある。
受付に歩み寄ったところで、不意に声がかかった。
「伸彦ぉ!」
驚いて声の方を向くと、渉がいた。歩美ちゃんも一緒だ。
「渉ぅ」
「元気だったか?」
「元気もなにも3日会わなかっただけだろーが、大げさだな」
「いや、ちゃんとここに来れるか心配でさあ」
「バスで一本だぞ、迷う訳ないだろが」
「いや、それはそうだが」
「それにしても、えらく早いじゃないか渉」
「いや、歩美がさぁ…」
「ちょっと、渉でしょお、遅刻しちゃ大変だからって、2時間も前から行こう行こうって」
「なんだそりゃぁ、ちょっと心配しすぎだって」
「う、うるせぇ、ちょっと時間間違えただけだ」
「はは、まぁお前らしいけどな」
わずか3日ぶりだったけど、旧友の声を聞けたら、ちょっと元気が出たような気がする。
「じゃ…ちょっと受付すませてくるわ、悪いな」
「お、おう、引き止めてごめんな」
受付に行き、合格通知を差し出す。
「林 伸彦…はい、確かに」
受付係の事務員が、慣れた手つきで名簿にチェックする。
俺はチラと名簿を一瞥したけど、星垣の名前はなかった…
渉たちと一緒に着席するまで、辺りを見回していたが、それらしい生徒の姿は見えなかった。
…といっても、拓己の顔は相変わらず思い出せていなかったんだ。
「伸彦、誰か捜してるのか?」
「あ、いや、初めての場所だからさ、ちょっと気になってな」
「そうか、それもそうだ」
中学時代に見知った顔が、ちらほらと見える。
ほぼ満席になったところで入口が閉じられ、いよいよ説明会が始まった。
長々と続く説明を、俺はひたすら聞いていた。
自分でも不思議なくらい集中して。
最後に校章や生徒手帳、その他諸々の物品配布があって、説明会がやっと終わった。
§
「えらく集中して聞いてたな」
最初に口を開いたのは渉だ。
「え、ああ、まぁなんとなく集中してたな。聞き漏らしてあとで困るのもなんだしな」
「そうだな、しかしなかなか緊張するもんだ」
「まぁ最初は誰も似たようなもんだろ」
渉と話をしながら体育館を出ると、女子が2、3人固まっているのが見えた。
「あっ、サトーっ、りくーっ」
渉の横にいた歩美ちゃんが、一団の方へ走っていく。
どうやらうちの中学の女子だったらしい。
2言3言話していたかと思うと、歩美ちゃんはまたこちらに戻ってきた。
「ゴメン渉、友達と一緒に帰っちゃってもいいかな?」
「あー、うん、いいぜ」
「ありがとっ。それじゃ行くね、バイバイ」
「またな」
踵を返して去っていく歩美ちゃんを見送ると、あたりは人影もまばらになり始めていた。
「俺たちも帰るか、渉」
「ああ、そうだな伸彦」
坂を下ってバス停の前まで来た。
案の定、長い列ができていた。
「あちゃー、出遅れたか」
「こりゃー次の次くらいまでは乗れないぞ。どうする渉?」
「そうだな、確かこの近くにコンビニがあったはずだ。そこでヒマ潰すか」
「了解」
バスの時間を確認した俺たちは、道路を横断してコンビニに向かった。
「おおっと、そうだよヅャソプは今日発売じゃないか」
「そんな重要なことを忘れてしまうとは、伸彦にしては甘いな」
「ああ、うっかりしてた。どれ、今回のナインピースはっと」
しばらく2人で立ち読みしていたけど、店員の目線が痛くなってきたので止めた。
立ち読みしていた雑誌と、ペットのお茶を1本買ってコンビニを出る。
バス停の方へ2人でぶらぶらと歩き始めた。
そこで俺は、渉にこう切り出したんだ。
「なあ渉、星垣って、覚えてるか?」
「ほしがき?柿の実干したアレじゃないよな…。えーと?」
「中学1年の夏まで、俺らのクラスにいた男さ」
「えーと、ほしがき、ほしがき…。ああ、あいつか」
「思い出したか?」
「確か野球部だったよな」
「そうそう、それだ。やるな渉」
「で、その星垣が今更どうしたって言うんだ?」
「いや、うちの母さんがさ…」
俺は、渉に星垣がお隣さんで幼なじみだったこと、そして母が連れてこいと言っていたことを話した。
「で、そこで問題なんだが、その、星垣の顔を渉が覚えてないかってね」
「うーん…。いまいち記憶が定かじゃないなあ。坊主頭だったのは覚えちゃいるけども」
「…そもそも伸彦は幼なじみだったんだから、そう言うことは覚えてて良さそうだと思うんだが」
「それがどういう訳かすっぽり抜けてて思い出せないんだよ…」
「ふうむ…」
2人とも足を止めて悩んでしまっていた。
「…で、星垣はこの西高に入学してるのか?」
「…それが、分からないんだ」
渉がちょっとオーバーに天を仰ぐ
「おいおい、それじゃ意味ないじゃないか」
「すまん…」
ちょっと間があって、渉が何かに気づいた様子で言った。
「そうだ、あれだよ、小学校の時の卒業アルバムは見たのか?おまえ星垣と同じ小学校だろ?」
「!」
なぜそんな簡単なことに気がつかなかったのか。俺は自分を悔やんだ。
「その顔は、見てなかったな?」
「…すまん」
「まあいいさ、これで一件落着、だろ?」
「そ、そうだな。ありがとうな、変なこと聞いちゃって」
「いーやいや、親愛なる伸彦様のためですから」
俺たちは再び歩き始めた。バス停が見えてくる。
「今度なんかおごるわ」
「うほっ、いいねえー」
「あ、予算は150円までな」
「ちょっ、おいおい、それじゃペット茶1本しかねーじゃねー」
「俺も財政難なんだ、解れ」
「へいへい、まー期待はしないがよろー」
バス停にできていた行列は、今はすっかり消えていた。
俺たちは、ちょうどやってきたバスに乗って家路についたんだ。
§
家に着いた俺は、ただいまもそこそこに自分の部屋に上がった。
本棚の片隅から、小学校の卒業アルバムを引っぱり出す。
「6年…3組…3組、と。あああった」
そこには懐かしい面々がいた。
「なんで星垣のだけ忘れちゃうんだよ…」
「ほしがき、星垣、あー」
集合写真の最前列に、スポーツ刈りのやんちゃそうな男の子が映っていた。
隣は、俺だった。
「こんなんでも忘れちゃうもんなんだな…」
「伸彦ー、ご飯だよー」
母の声がした。
「お、うおーい。今行くー」
アルバムを本棚にしまって、俺は夕食を食べに部屋を出た。
ダイニングに入ると、すでに親父が座っていた。
俺が席に着くか着かないかのうちに、親父が口を開く。
「伸彦、今度の高校はどうだ?」
「…どうって、まだ説明会に行っただけだし、様子なんてわかんないよ」
「広い学校だろ?」
「ああ、パッと見そんな感じはしたね…って、なんで親父が知ってるんだよ」
「そりゃー、西高は俺の母校だし」
「は?」
「言ってなかったか」
「初耳だよそりゃー」
「そうだったか、まあ、覚えといてくれ」
親父がさらに続けた。
「さすがにもう先生は皆替わってるだろうなぁ」
「だから知らないって」
母が口を挟む。
「ふふ、お父さんと私の思い出の学校だもんねぇ。忘れるわけないのよねー」
「ええっ!?母さんそれどういうことだよ?」
驚いた俺は、危うくご飯茶碗を落としそうになりながら尋ねた。
「要するに、お父さんのひ・と・め・ぼ・れ、ってやつかな?」
「おーいおい、俺だけじゃないだろ。お前だってそれなりに…」
親父が慌てた様子で割って入った。
「アプローチはお父さんからだったじゃないですか。あのときのあれ、まだ取ってあるわよ?」
「げっ、ちょっ、本当か!」
冷静だった親父の口調がうわずって、顔はもうてっかてかに赤くなっている。
こういう親父を見るのは初めてかも知れない。
「後生だから伸彦には見せるなよ。頼むよ淑美ぃ」
「はいはい、わかってますよ」
いたずらな笑みを見せる母とは対照的に、まるで雨に打たれた子犬みたいな表情で親父が縮こまっている。
意外な2人の力関係に、俺はただその場を見守るしかなかった。
夕食を終えた俺は、再び自分の部屋へと上がった。
そういえば帰ってきてから着替えもまだだった。
ベッドの上に放り投げられていた制服の上着をハンガーに掛け、家着に着替える。
「そうだ、マンガマンガ」
コンビニで買ってきたマンガ雑誌を取り出し、ベッドの上にゴロンと横になった。
いつものように読み始めたつもりだったが、いつものようには面白くなかった。
これから通う学校のこと。
星垣のこと。
そして父と母のことがまぜこぜになって、俺の心の中で渦巻いていたんだ。
そして、なんとなく、ただなんとなくだけど、新しい学校でなにかが起こりそうな予感がした。
§
いよいよ、入学式の朝が来た。
新しい制服に袖を通す。
新しいと言っても、似たような黒の学ランだからそんなに変わる訳じゃないけれど。
しかし前を留めるボタンは高校生らしく渋く光るボタンになった。
そして襟には校章が金色に光っていた。
「伸彦ー、用意できたー?」
母が呼んでいる。
「ああ、できた、今行く」
返事をしながら持ち物を最終点検。
今日は入学式とオリエンテーションだけだから学生鞄はいらない。
教科書が配られると聞いていたから、スポーツバッグだけ持ってリビングに下りた。
「ああ、新しい制服だとちょっぴり新学期って感じになるわね」
「サイズ合ってたから前ので良かったのに」
「だめだめ、こういう時くらいきちんと決めなきゃ」
「まぁ新品の方が嬉しいと言えば嬉しいけどさ」
入学式は10時から始まるが、朝9時には登校するように言われていた。
もう8時を過ぎている。
「急がないと、間に合わないわね」
「うん」
玄関の鍵を掛け、外に出た。
少し高さを増した朝の光が、今日も暑いぞと予告しているようだ。
母と2人、少し早足で歩く。
バス停に着くと、次のバスまで3分前だった。
「ぎりぎり間に合ったわね。これに乗れればいいわよね?」
「たぶん大丈夫でしょ」
息を整えていたら、バスがやってきた。
2人相次いで乗り込む。
ラッシュ時間帯を少し外したバスは、席に余裕があった。
母と二人並んで腰掛ける。
バスが走り出したところで、母が話しかけてきた。
「伸彦もいよいよ高校生かあ。ついこないだまでおむつ履いてたと思ったのに」
「一体いつの話だよそれ」
「だよねえ、高校入学ってことは、そっか、16か」
「まだまだ先だぜ?息子の誕生日くらい覚えてくれてるよな?」
「12月…」
「21日な。やっぱりちょっと忘れかかってるし」
「そんなことないわよ。一世一代の大仕事の日だからね、さすがに忘れない」
「大仕事って…」
「伸彦が生まれた日だからね」
母はにっこり笑って答えた。
「そうか、16才になっちゃうか…」
そう漏らした母の表情が一瞬だが、曇ったように見えた。
でも、すぐに元の顔つきになって、それ以上なにかを感じることはできなかったんだ。
§
学校前のバス停で下りると、他の新入生の姿もちらほら見えた。
校門までの坂道を登っていく。
桜の花はすでに散り始め、葉が出かかっていた。
入学式の会場は、説明会の時と同じ体育館だが、新入生はまず各自の教室に入るらしい。
受付に行くと式次第と学校見取り図、そして簡単な入場券が渡された。
すでにクラス分けはされているらしく、入場券には『1-B 林伸彦』と書かれている。
「新入生の方は教室の方へお入りください。ご父兄の方は体育館の父兄席の方へ」
俺は母と別れ、一人教室へ向かった。
教室は西校舎の3階だった。
教室に入ると、すでに何人も生徒がいる。
一瞬注目を受けたが、すぐに皆元の方向を向き、話を続けた。
机には出席番号順に各自の名前シールが貼られていた。
俺は自分の名前を捜しだして座った。真ん中前よりの席だった。
見回してみたが、知っている顔はなかった。
渉は何組になったのだろうか。
その後も次々に生徒が入ってくる。
どれも知らない顔だった。
9時になった。
相変わらずざわついた教室。
そろそろ先生が来る、と思われたその時。
一人の女生徒が入ってきた。
すでにほぼ満席だった教室の視線が、その女生徒一点に注がれる。
モデルでも通用しそうな整った顔立ちに、肩まである艶やかな黒髪。
そして少しおどおどとした仕草は男子生徒の興味を引くには充分すぎた。
いや、あまりの美しさに女生徒も目を引かれているようだ。
皆が、息を呑み、それまでの喧噪はウソのように静まりかえった。
その女生徒が、空いていた前入口近くの席に着くや、今度こそ先生が入ってきた。
皆の注目が女生徒から外れる。
だけど俺はその女生徒から目を離すことがしばらくできなかったんだ。
先生は、男の人だった。
40前半だろうか、ちょうど俺の親父と似たような歳のようだ。
「えー、私が君たち1年B組のクラス担任をする、山下と言います。はじめまして」
そう言って、山下先生は黒板に自らの名前を書いた。
『山下和洋』
「やましたかずひろ、と読みます。今日から1年間、よろしく。それから、担当科目は英語です」
「それでは、クラス名簿を配ります。前から順番に回してください」
前から紙が回ってきた。
1枚取って、後ろに回す。
名簿を一瞥すると、そこには『星垣』の文字があった。
心臓が高鳴り、息苦しくなる。
なんということだろう、いないだろうと高をくくっていた。
だが、下の名前を見ると、『多美』と書かれていた…
女?
ということは、奴じゃないのか?。
しかし星垣なんて名字、そうそういるものじゃない。
親戚かなにかなのだろうか。
「よーし、回ったか?じゃ、窓際の方から簡単に自己紹介を頼む。あ、前から順番にな」
先生の声で我に返る。
そうか、自己紹介があるから誰が星垣さんなのかわかるな。
女だった、ということで、俺の心臓は落ち着きを取り戻しつつあった。
自己紹介と言っても、名前と出身校くらいのもので、1人1分と掛からずにさくさく進む。
あっという間に俺の番までやってきた。
「林 伸彦といいます。出身は山県中学です」
俺は起立してそれだけ言うと、さっさと着席した。
ま、こんなもんだよな、と心の中で納得した。
そして最終列の番になった。
先ほどの女生徒の番だ。
再び皆の注目が集まる。
女生徒はおどおどした様子で立ち上がると、うつむきかげんのまま後ろを向いた。
そして、消え入る声でしゃべり始めた。
「は、はじめまして…」
「すいません、もうちょっと大きい声でお願いします」
後ろの方から声が掛かる。
彼女は声のトーンを少し上げて続けた。
「ほ、星垣多美と言います…。出身校は、あの、県外で……静岡県です」
彼女はそれだけ言うと、すぐに席に着いた。
教室の後ろの方から女子のヒソヒソ声が聞こえる。
すぐに次の女子が自己紹介を始めた。
それから5分後には、全員の自己紹介が終わった。
「よーし、それじゃ時間も来たことだし、体育館へ移動します。名簿順に廊下で列を組むように」
山下先生がそう告げると、皆ぞろぞろと廊下に出た。
「それじゃ2列になる。番号1番から18番までは左の列。19番から35番までは右の列だ」
先生の手助けで順に並んでいく。
女子は男子の後ろに付く形だが、2列になるので俺の隣には女子が来た。
そして、なんと俺の隣には星垣さんが並ぶことになった。
彼女が俺の隣に立つ。
背は、俺とほとんど変わらないんじゃないか?
なのに大柄な感じがしないのは身体の線が細いからだろうか。
特に言葉を交わすこともなく、隊列は体育館に向かって進む。
体育館に入ると拍手で迎えられた。
父兄席の間を通って指定の席に座る。
周りを見ている余裕はほとんど無かった。
G組まで着席すると、いよいよ入学式が始まった。
§
式の進行よりも、隣が星垣さんだってことに俺は気が気じゃなかった。
なるべく意識しないようにとは思うものの、やはり悲しい男の性でちらちらと見てしまう。
彼女は壇上を見つめているので、俺から見えるのは横顔だけだ。
しかし見れば見るほど「美しい」という形容がぴったり来る。
まずもって肌のきめ細かさに目が奪われそうになる。
『生まれたて』という形容がふさわしいのかも知れない。
シミ一つ無く透明感がすごいのが、こんな俺でもよく分かる。
袖口から少しだけ覗く手の肌も顔と同じ様で、まるで外に出たことがないように見える。
額から鼻を通り顎に至るシルエットが、心地よいバランスの曲線を持っている。
外国人モデルのような厳つさはない、日本人のラインだ。
唇は、口元が少し下がって不安感を表しているけど、きれいなピンク色。
艶の感じではリップは付けていないとわかる。
目は、アイラインを引いているわけではないのにクッキリとした目元だ。
まつげがすごく長い。
いつしか俺は魅入ってしまっていた。
さすがに彼女も見られているのに気がついた。
目線でこちらを伺うと、顔を下げてしまった。
俺はあわてて姿勢を正す。
しまった、と心の中で舌打ちした。
今の時点から嫌われたくはなかった。
それからは彼女の方を見ないように努めた。
ただそのせいでひどく退屈したのは事実だ。
ただただ隣の星垣さんに嫌われまいと、責め苦にも似た時間をじっと堪えていた。
どれだけ堪えただろう。
永遠に続くかと思われたこの時間も、終わるときが近づいているようだ。
式は教職員紹介までたどり着いていた。
『それでは入学式を終わります』
その声が響いた瞬間、俺はため息と共に椅子の上でへたっていた。
「だ、だいじょうぶ?」
女の子の声がする。
目を開けると、隣りに座っていた星垣さんが、俺の顔を下からすくい上げるような目線でのぞき込んでいた。
俺は一瞬で立ち直ると、
「あ、だ、大丈夫だから…」
そう答えるのが精一杯だった。
こうして俺と星垣さんは初めて会話をした。
式が無事終わり、新入生は退場していく。
この後、A組から順番に記念撮影をするらしい。
A組とB組は体育館の外で待機し、C組から後は教室へ入って先にオリエンテーションをする。
俺たちはB組だから待機することになった。
待機している間、星垣さんの周りには当然他の生徒の影はなかった。
男子はもちろん女子からちょっと間を開けているし、その女子もまた、彼女からは間を開けているからだ。
その代わり、今度はその場にいたA組の生徒達の目にも彼女の姿が晒されることになる。
案の定、その場にいたほとんどの生徒の好奇の目が彼女一人に注がれることになった。
俺はその場でどうしようもなく立ちつくしながら、彼女をどうにかして守ってやりたいと思っていた。
できれば彼女を連れて、どこか人目のないところまで飛んでいってしまいたかった。
初対面だというのにこんなことを考えてしまった俺はそのとき、どうかしていたのかも知れない。
彼女は、やはり少しうつむき加減になりながら、所在なげに一人立っていた。
そして実際の俺は、ただどうすることもできずに、やはり彼女を見つめることしかできなかったんだ。
撮影の時も、教室に戻ってからも、彼女は他の生徒から距離感があった。
そして俺はあいかわらず、彼女から目をそらせないでいた。
§
全ての日程が終わり、わずか半日の、しかしものすごく長く感じた入学式の日が終わった。
生徒達が、校門で待っていた父兄と共に三々五々家路につく。
俺は彼女を見失わない程度の距離について、昇降口を出る。
校門まで行くと、母が待っていた。
「おつかれ、伸彦」
「お待たせ、母さん」
母と言葉を交わすうちに、彼女は視界から消えていた。
「そういえばね、拓己君のお母さんらしい人を見たわ」
「え…?」
どういうことだろう。
やはり拓己は入学していたのか。
母が続ける。
「でも、新入生の入場を見てたけど、拓己君らしい子はいなかったのよね」
「他人のそら似じゃないか?」
「うーん、そうなのかな…」
「まぁとりあえず、お昼に行きましょ、お昼に」
「ああ、そっかもうお昼だった」
緊張と彼女のことで、俺はその時まで空腹を全く感じていなかった。
母と会って緊張が解けたのか、一気に空腹感が出てきた。
「なんか急に腹が減ってきた」
「ははは、男の子よねー。よし、ちょっと駅まで出ようか」
「おー、俺なに食べようかな」
母とそんな会話をしながら、俺たちは坂を下りていった。
§
俺と母は駅近くのデパートにいた。
時刻は既に午後1時を少し過ぎていたので、デパートのレストラン街も人が減ってきたところだ。
「伸彦、なに食べたい?」
「俺、ステーキがいいな」
「なに馬鹿言ってんの!昼からそんなもの食べれるわけないでしょ」
「ちえー」
「まったく高校生は食い意地が張ってて困るわー」
「へいへい。じゃ、トンカツでいいよ」
「トンカツね。たしかこの辺に良いお店があったはずね」
母が辺りを見回しながら歩く。
「ああ、あったあった」
母の指した方向にはトンカツ店があった。
が、まだ4、5人ほど待っている様子だ。
「まだ待ってる人がいるわね…」
「もう腹減って死にそうだから、歩きたくない」
「オーバーねえ。まぁもうピークは過ぎてるし、並んで待ちましょうか」
列に並んで待っていると、次々人が出て行く。
母の予想通り、5分と待たずして店内に入ることができた。
「おれWロースカツ」
「食べるわねえー。私は『彩り膳』でお願いします」
「かしこまりました」
ウエイトレスさんが下がると、さっそく母が口を開いてきた。
「で、どうだった?初日のご感想を」
「どうって、緊張したさ。あ、それから一つ気になることがあった」
「なになに?」
「俺と同じクラスに、『星垣』っていう…」
「男の子?」
「いや、女の子がいた」
「…女の子、ねぇ」
「静岡出身だって、言ってたな」
「ふうん」
話が途切れた、と思った直後、母が何かに思い当たったようだった。
「ちょっと、裏がありそうね」
「なにそれ?」
俺は分からずに聞き返す。
「これは私の推測だし、ちょっと込み入った話だから、続きは家で」
「なんだそれー」
俺の言葉を遮るように、トンカツがやってきた。
「Wロースのお客様ー」
「あ、おれおれ」
2つのお盆がテーブルいっぱいに広がる。
「それでは、ごゆっくりどうぞ。ご飯とキャベツはおかわり自由となっております」
ウエイトレスのお姉さんは軽く会釈をして引き下がった。
「おかわり自由かあー」
「食べ過ぎると、さすがのあんたでも太るよ?」
「へーきへーき、鍛えてるし」
俺は会話もそこそこに、カツにかぶりついた。
俺がカツをモリモリと食っている間、母はゆっくり食べながらケータイを操作していた。
「どこにメールしてんの?早く食べないと冷めるよ」
「ああ、ちょっとお父さんにね」
「買い物なら今から買って帰ればいいじゃん」
「買い物抱えて重たいじゃない?お父さん車なんだしいいって」
「うは、悪人だ」
「こんなんで悪人呼ばわりされちゃ、私も立つ瀬がないわ」
「はは、冗談だって」
ちょっとおちゃらけてみて、俺は再びカツをほおばる。
「よし、これでいいかな」
母はメールを送信し終わると、いつものペースで食べ始めた。
俺はというと、ちょうどカツが半分無くなったところだ。
そしてご飯が早くもなくなってしまった。
「わ、食べるの早すぎ」
「食い盛りだしな。ご飯おかわり頼もっと。すいませーん」
「ちょっと食べ過ぎじゃない?わ、野菜に全然手を付けてないし。全くこの子は」
「野菜は後で食べるから…」
「はい、お呼びでしょうか?」
さっきのお姉さんだ。
「ご飯、お代わり頼みます」
「はい、かしこまりました」
空のご飯茶碗をお盆に載せて、お姉さんが奥へ引っ込んだ。
そしてすぐに代わりの茶碗を乗せて戻ってくる。
「お待たせいたしました」
「どうもありがとう」
ここで初めて気がついたが、にっこりと微笑みながら茶碗を置くお姉さんは、かなり美人だった。
俺は奥へ引っ込んでいくお姉さんの後ろ姿をいつの間にか追っかけていた。
「ふうん、伸彦も色気が出てきたか」
母の一言で我に返る。
「な、なんだよいきなり」
「いや、ずっと追いかけて見てるから、素直な感想としてね」
「ちょ、まってよ」
「まぁそういうお年頃、だよねえ。わかるわかる」
「母さんに言われるセリフじゃないよな…」
俺はばつが悪くなって、残りのカツを猛然と食べ始めた。
「ごちそうさまでした」
箸を置いた俺の目に見えたのは、苦笑しながらもなんとか箸を進める母の姿だった。
「ぐえっぷ」
「ホラホラ、あんなに急いで掻き込むからよ」
俺はなにも答えられずに母の一歩後ろを歩く。
そして帰りのバスに乗り込み、家路に付いた。
バスに揺られながら今日のことを思い返してみた。
彼女が教室に入ってきたときのこと…
整列して体育館に行ったときのこと…
体育館で彼女に見とれていたこと…
拓己の母らしき人がいたこと…
しかし拓己はいなかったこと…
そして母の『推測』…
もう一つ繋がってないよな…
満腹で眠いせいもあって、今ひとつ考えがまとまらないまま、午後の黄色い光の中バスに揺られていた。
§
「あーっ、疲れたーっ」
家に帰り着いた俺は、リビングに入るなりソファーに倒れ込んだ。
母はそのままキッチンへ回り、お茶のコップを2つ持ってリビングへやってきた。
「はい、おつかれさま」
「ありがと母さん」
俺はお茶を一気に飲み干すと、コップをサイドテーブルに置いた。
そして一呼吸置いてから、母に質問をぶつけてみた。
「母さん、昼に推測がどうとか言ってたけど、母さんはいったいなにを考えてたのさ?」
「それを話す前に、伸彦に話しておかなくちゃいけないことがあるわ」
「話しておかなければ、いけないこと?」
母は空になったコップを手に握ったまま、話し始めた。
「そう、これは重要なことね」
「…」
母の顔がゆっくりこちらを向いた、声が出る、と思った刹那…
「でも、やっぱりお父さんが帰って来てから話すわ」
明るく言い放つ母。
俺は、軽くずっこけた。
「ちょ、人がこんなに身構えてるのにそれかよ」
「もう前振りは充分だけど、1対1で話すにはちょっと重いからね。まぁ多かれ少なかれショック受けるだろうし」
「なんなんだよ、ショックって。よけい気になるじゃないか」
「今はヒ・ミ・ツ♪」
「なにが『♪』だよー。高校生の息子持ちのクセして」
「むー、これでもまだ30代なんだからね!」
「はいはい、四捨五入すりゃ40だっ…」
言い終わらないうちに母が俺の方に飛びかかる、やばっ…
「そんなこと言うのは、この口かっ、この口かあぁ~」
「ひてっひたいってぇ」
次の瞬間、俺の口は母に思いっきり引っ張られていた。
久しぶりに喰らったせいか、ものすごく痛い。
「ほめん、もう言わらい、言わらいはら、放ひてっ」
「ほんとーだな?」
「ふほんと、ふぉんとだって」
「なら、よろしい」
「あ゛ー、マジ痛てぇ」
「変なこと言うからよ、もうっ」
「事実じゃねーか…」
「なんか言ったっ?」
母がギロっと睨む。
「いえなんにも」
母の睨んだときの目は気の弱い奴ならすくみ上がるだろう。
実際それだけの迫力がある。
俺も今でこそ慣れたが、小さいときはその目が怖くて泣いたもんだ。
単に瞳が大きいというだけではなさそうだけれど。
「さて、晩ご飯の準備しなきゃ」
母は何事もなかったかのようにキッチンへ向かった。
俺は何もすることがなかったので、夕方のTVを点ける。
しかしこの時間、やっているのは古いアニメの再放送か、時代劇の再放送くらいの物だ。
一通りザッピングして見てみたが、どれも面白くなさげだった。
俺はTVを消して、新聞を開いてみたけど、こっちも面白い記事がなかった。
「やることがないんなら、教科書の整理でもしたら?」
母がキッチンから声を掛ける。
明後日から早速授業がある。
「うん、そうする」
俺は教科書で重くなったスポーツバッグ片手に、自室へ上がっていった。
部屋に入って家着に着替え、それから教科書をバッグから取り出し始めた。
教科書の数は中学時代に比べるとやはり多い。
国語が2冊、数学も2冊、英語は…3冊、理科3冊、社会2冊あった。
それに補助教材の類が英語を中心に何点か。
時間割表を見ると、毎日1回は英語の時間がある。多い日だと2回あった。
1日は6時限。
月曜日から金曜日までびっしりとカリキュラムが組まれていた。
「はー…」
思わずため息が出た。
見るんじゃなかったと軽く後悔したが、もう待ったなしだ。
英語の1冊を取り出して、パラパラとめくってみた。
当然、絵はほとんど無い。
文字の多さと細かさにめげそうになるが、わかる単語も結構ある。
なんとかなりそうだなと、ぼんやり考えていたら、車の帰ってくる音がした。
「親父帰ってきたな…」
父が帰ってきたということは、いよいよ母の言う秘密が明らかになる、ということだ。
悪い秘密じゃ、なければいいんだけど…
俺は秘密への半ば恐怖と半ば興味とで困惑していたんだ。
「おーい伸彦、母さんを手伝え」
「あーい、今下りる」
親父に呼ばれ、俺はリビングへ再び下りた。
俺はダイニングへ回り、台ふきでテーブルを拭き始めた。
吹き終わると次はお茶の用意だ。
その間、親父はクロゼットで家着に着替え、再びダイニングに姿を現したときには、俺は全ての準備を終えて料理が出るのを待っていた。
親父が椅子に腰掛け、お茶を一口すすると俺に聞いてきた。
「伸彦、入学式どうだった?」
「んー、まぁ、疲れたw」
「そうかw」
俺は話を続けた。
「式の間中、ものすごく美人の女子と並んでさあ、目のやり場に困ったさw」
「おー、いいねいいね。で、どんな女の子だった?」
「なんか、話してると照れるよ…」
「おいおい、訳わからんなぁ…ははぁ、早速惚れたか」
「えっ、なっ、そんなんじゃねえって!」
親父が身を乗り出して聞き入っている。
俺は一呼吸入れて、ちょっと自分を落ち着かせてから切り出した。
「んー、まずね、名前が『星垣』って言うんだ、『星垣多美』」
「ほほう、珍しい名字だな」
「だろ?で、表現難しいんだけど、今生まれてきたばっかりみたいに綺麗なんだよ」
「ほほー」
「肌とかすべっすべで、目はくっきりぱっちりだし、あんなの見たことない」
「お前にしちゃ、詳しく見てるじゃないか」
「式の間ヤバイくらい見つめちまってたからな」
「わははは。どうせ最後はその子に気づかれたんだろ?」
「う、なんで分かるんだよ…」
さすがは俺の親父だ、俺の行動パターンを見抜かれてる。
「俺の息子だからな、だいたい分かるんだよ。やること同じだし」
子の親にしてこの子あり、その時の俺の顔は、たぶんとっても情けなかったに違いなかった。
「伸彦の性質って、お父さんとよく似てるものね」
母がキッチンから料理を持って現れた。
「伸彦、運ぶの手伝ってちょうだい」
俺は椅子から立ち上がり、ご飯やら味噌汁やらをキッチンから運び込む。
食事の用意が揃ったところで、3人揃っていただきますを言った。
食べ始める前に俺は聞いてみた。
「母さん、親父が帰ってきたら話してくれるんだろ?」
母は汁椀を持ったまま答えた。
「うん、食べ終わったらね」
「ん、わかった」
俺は素直に引き下がり、もくもくとご飯を口に運ぶ。
親父はそのやり取りを正そうともせず、やはりもくもくと食べている。
うちの家族にしては珍しく、静かな食事の時だった。
「ごちそうさま」
最初に声を上げたのは俺だ。
食べ終わった皿をシンクに置きに行く。
「ごちそうさまでした」
次は親父。さらにしばらくして母が食べ終わる。
各自が皿を片づけるので、テーブルの上はすぐに片付いた。
母が台拭きでテーブルを拭き、夕食は終了した。
お茶を一口含んで、母が口火を切った。
「さあ、約束だから話さなくてはね…」
父は無言で母の方に目線を向けている。
俺はテーブルに目を落として聞いていた。
「単刀直入に事実を言うわ。伸彦、お母さんはね、高校生まで実は男の子だったの」
俺はテーブルを凝視したまま固まっていた。
無言が時を支配する。
確かに、1対1で話すには少々重い話題だった。
俺は、男と男の…子供?
いや、母は今確かに女だ。だからこそ俺がここにいる。尊敬すべき俺の母親、それは間違いない…
『女体化』という言葉が俺の脳裏をかすめる。
言葉では分かっていたけど、ここに実例があったんだ。しかもその子供まで生まれて…
子供、子供は、俺だよな。じゃ、俺はなんだ、女体化した人間から生まれた俺は…
-俺は、ナニモノなのか-
「あのな、伸彦」
沈黙を破ったのは父だった。
父は続ける。
「おまえ、だいぶショックなのはものすごくわかる」
「だがな、お前は今れっきとした男だ。人間の男だ。それは保証する」
「母さんだって、人間だ。ただ、本当にたまたま女体化した、ただそれだけだ」
「しかし、この俺が、その人間『河野淑美』を好きになった」
「この人となら、一生やっていける。いや、この人でないと、ダメだ。そう思ったんだ」
「だから、俺は淑美と結婚した。そして、お前が生まれた。そういうことだ」
「だれもお前を責めたりはしない。だから、変な考えで自分を責めるな」
うつむいたまま固まっている俺の顔から、光る物がひとしずく落ちた。
悲しいのか、悔しいのか、嬉しいのか、俺自身まったく分からなかった。
霞む目でなんとか横を見ると、母もまた嗚咽を隠しながら泣いていた。
時がゆっくりと刻まれる。
俺は光るしずくを肩でぬぐうと、おもむろに顔を上げた。
父も顔をゆがめていた。
今苦しいのは、俺だけじゃない。
多分一番苦しいのは、母さんだ。
そして俺よりも苦しいのは、親父だ。
俺は天井を見上げ、深呼吸をするとこう言った。
「ありがとう」と。
§
皆、徐々に落ち着きを取り戻していた。
親父はまだ微妙な表情だったが、苦しそうな表情は消えていた。
母さんは目を赤く腫らしながらも、顔を上げて前を見据えていた。
そして俺は、黙ったまま前の壁を見つめていた。
俺は喉がすっかり渇いていることに気がつき、すっかり冷めていた自分のお茶を一気に飲み干した。
飲み干した勢いで、母に聞かねばならないもうひとつの話題を振ってみた。
「母さん、昼に言ってた『推測』って、何?」
母さんの目が、普段の輝きを少し取り戻す。
「そう、それよ。伸彦も薄々勘づいてるかも知れないけど…」
「いや、まだ考えがまとまってない」
「そっか…。じゃ、これから言うことをよく聞いてね」
「わかった」
母の声がいつもの張りのある声に戻っていく。
「私が気になったのは3点よ、『星垣』姓の女の子、拓己君のお母さんに似た人、そして女の子はあり得ないほど美人だった…」
「そう、でもそれだけじゃ繋がりが弱いんだ…」
俺が答えると、母が続けた。
「キーワードは『女体化』よ」
「え、ぇ?」
「女体化すると、基本的にはものすごく美人になる、と言われているの。もちろんそうじゃない人もいるけれど…」
「私もそうだった。顔の造作がどうとかってのもあるけど、肌の質とかもごろっと変わっちゃう」
「彼女の肌、ものすごい透明感ときめの細かさだったでしょ?」
「う、うん、俺が見ても分かるほどだったから…」
母が頷きながら続ける。
「やはりそうね、だから私が言いたいのは、彼女は拓己君よ」
「なっ…」
俺は、絶句した。
「で、でも彼女静岡県から来たって…」
「そんなモノはウソを並べてるだけよ。学校は本当のことを知っているとは思う。けど、誰が調べるわけでもないし、学級名簿だって最近は住所が書いてないでしょ?」
「そ、そうか」
「もう世間に認知された現象だとは言っても、やはり女体化してしまったと判ると人の態度は変わるからね、警戒してるんでしょうね」
俺はちょっと考えながら言った。
「俺は、どうすればいい?」
「伸彦が?伸彦はとりあえず普段通りで良いんじゃないの?ただ、彼女が困ってるときはさりげなくサポートしてあげると」
「さりげなく、ねぇ…難しいな。相手は女の子だし」
「伸彦なら大丈夫。お父さんとこの私の子供だもの。きっとうまくやれる」
母が続ける。
「ひとつ注意するとすれば、相手から告げられるまでは絶対に伸彦の方から『お前拓己だろ』みたいなことは言っちゃダメだからね」
「わかった」
「もし、その一言を漏らしたら、破局が待ってるわ」
「う、プレッシャー掛けないでよ」
「ゴメンゴメン、でも大事だからここ」
母はすっかりいつもの調子に戻っていた。
「でも、拓己じゃない可能性もまだあるんだよな?」
「まぁ、十中八九当たってると思うよ」
「なんでそんなに自信たっぷりなんだよ?」
「えへ、女の勘♪」
「聞いた俺がバカでした。てか、元男でも女の勘あるのかw」
「あら失礼ね、これでも女歴23年あるんだから。バカにしないでよね」
「へいへい、お見それしました母上様」
「わかればよろしい伸彦君」
親父が温かい目で俺たちのやり取りを見ている。
もうすっかり、いつもの家族に戻った。
いや、前よりもずっと絆は強くなった気がした。
§
その晩、俺は湯船に浸かりながら考えていた。
拓己が、女体化…まだ確定じゃないけど。
でも、男は15、6までに女とヤらなければ自分が女になってしまうんだ。
俺も、女体化しちまうのかな…。
母親が元男だってことは、俺はすでにその切符を手に入れてるも同然だな…。
「ふうぅーー…」
長い長いため息が漏れる。
渉みたいになれればな…。
結論の出ない考えを巡らせていたが、さすがにのぼせそうになってきたので、俺は風呂を出た。
脱衣所の鏡の前で、じっと顔を見る。
口の上のひげが、いつの間にか微妙に濃くなっているのに気がついた。
一応、身体はまだ男をしている。
そう思うとちょっとホッとした。
§
次の日、朝からあわただしく1日が始まる。
朝は8時半にSHRで始まる。
間に合うためには最悪5分前には坂の下にいる必要があって、そこから逆算すると8時には家を出ていないとマズイ計算だ。
もっとも坂の下で残り5分ということは、坂の上にある学校の、さらに3階にある教室まで全力で走らないと間に合わない。
朝食をとる時間も計算すると、朝7時半。この時刻に起きれば余裕で間に合う。
…はずだった。
俺は初日から寝坊をし、目が覚めたのは7時50分。
当然朝食は摂れないし、着替えがやっとで家を飛び出した。
バス停までダッシュ。
ちょうどバスが来たところだった。
結構混んでいたが、これに乗れないと今度は地獄の登坂ダッシュが待っている。
俺はちょっと無理矢理気味に、バスの中に身体をねじ込んだ。
満員のバスは想像してたより辛かった。
ただでさえ揺れるところに思うように掴まるところもない。
そして重くはないとはいえ荷物も持っている。
カーブにさしかかる度に、右に左にと身体を持って行かれそうになった。
学校下のバス停に着くと、乗っていた生徒がどっとバスから吐き出される。
俺もその中の1人となって、学校への坂に挑む。
坂を登っていくと、後ろから自転車通学の生徒が追い抜いていく。
半数は坂の8合目ほどで力尽きてしまって、あとは押して登っているが、男子生徒の大半は坂を登り切れているようだ。
俺も自転車にするかな…
そんなことを考えながら昇降口を上がって教室に向かった。
教室の前まで来ると人だかりができていた。しかも男子限定の。
そしてよく見ると知った顔がいる。渉だ。
「おい渉!」
渉はギョッとした顔でこっちを向いた。
「あ、伸彦…おはようさん」
「人の教室の前でなにやってんだおまえ?」
「…あ、いや、ちょっとな」
気まずそうに照れ笑いをする渉。
群がっている男共の視線の先には星垣さんがいた。
星垣さんはやはりうつむいたまま、視線に耐えている。
そして彼女は今日も例によって一人っきりだったんだ。
俺は一瞬逡巡したが、渉に「すまん、あとでなんかおごる」と早口で囁いてから、群がっている男共の視線に身体を割り込ませ大声で言いはなった。
「悪いなーっ!うちのクラスは見せ物小屋じゃないんだ!帰って帰って!」
「そら渉もなんとかしてくれー。こいつら連れて行ってくれよ」
俺は渉を強引に味方に巻き込み、男共を押しのける。
男の群れは目立った抵抗もなく無事に散ってくれた。
作戦終了とともに予鈴が鳴った。
渉は怒った目で何か言いたげだったが、俺は奴を何度も拝みながら教室に入った。
星垣さんはあいかわらずうつむき加減でじっと座っている。
俺は教壇の前を通って自分の席に腰を下ろした。
ほどなくして山下先生がやってきた。
朝最初の時間はSHRだが、今日は時間を延長して各種連絡や届け出の確認、クラス委員の選出をするのだという。
連絡の伝達や届け出は、なんの問題もなくさくさくと進む。
そして委員の選出へと時間が移った。
先生が教壇の上から問いかけた。
「クラス委員に立候補する者はいるか?」
誰も返答がなかった。
そりゃそうだろう、クラスの面倒ごとを一手に引き受けなくちゃならなくなる。
誰だってそんな面倒はごめんだ。
俺ももちろんごめんこうむる。
が、俺の知らないところで事態は進行していた。
皆が無言のまま5分ほど経過した。
山下先生はヤレヤレといった表情で、次にこう言った。
「それでは、推薦で決めたいと思います」
クラスに動揺が走る。
推薦と言っても、ほとんどの人間は知らない者同士だ。
推薦する方もされる方も気まずくなるに決まってる。
教室が軽くざわつく中、先生は続けた。
「誰かを推薦する者は、手を挙げて発言を」
ここでもしばらく沈黙が流れる。
誰も手を挙げないのか、と思われた時、1人の手が挙がった。
手を挙げたのは女子だった。
「お、手が挙がったな。誰を推薦する?」
その女子はゆっくりと立ち上がると、まっすぐ前を見てこう声を上げた。
「林くんが、良いと思います」
なっ…。
俺はその女生徒を見つめたまま動けなくなった。
先生が続ける。
「推薦の理由はなんだ?」
「今朝教室の入口に他のクラスの男子が群がって迷惑していたんですが、彼がうまく追い払ってくれたので…」
「…だから人の扱いはうまいだろうと思いました」
最悪の展開だ。
俺は心の中で今朝のことに悪態をつきながらも、事態の推移を見守るしかなかった。
「他に推薦は…いないようだな」
先生が俺の方を向いて話しかける。
「それじゃ林、悪いがやってくれないだろうか?」
俺は、半ばあきらめていたが、最後に一矢報いたくなった。
「先生、その前に信任投票やってもらえませんか?」
無駄だとはわかっていたけれども、一人の意見で決まってしまうよりはマシだと思った。
出席番号1番2番の奴らが急遽選挙管理員となった。
わら半紙の切れ端がみんなに配られる。
信任なら○、不信任なら×を書くことになった。
俺は当然×を書く。
他のみんなはたぶん○だろう。
選管が回って票を回収した。
そして早速開票が始まる。
結果は30対5で信任。
見事に完敗だった。
俺はもう腹を決めることにして、壇上に上がった。
「えー、クラス委員に選ばれた、林です。皆さんよろしくお願いします」
ぱらぱらと拍手が湧いた。
その音で、俺もちょっとだが気が和んだ。
これから、もう一人副の委員と書記1人、そして保健委員男女1人ずつを決めなければいけない。
俺はひとつの策を考えていた。
「それでは、もう一人、副委員を決めなければいけません。なるべくなら女子にしたいんですが、誰か立候補はいませんか?」
さっきの女子の方を見るが、我関せずと言った表情だ。
俺はもう一度聞いた。
「誰か、いませんか?」
誰も応えなかった。
予想通りの反応で、俺は内心ホッとする。
ここで推薦を諮ることもできたが、時間もないので先生に一言聞いてみた。
「先生、時間もないので指名で良いですか?」
「え?まぁいいが、本人の意思は尊重してくれよ」
「わかりました」
生徒達に嫌厭感が広がる。
俺はそれにはお構いなしに教室中を見回す。
ほとんどの生徒が目をそらす中、どういうわけか星垣さんだけは、こちらをまっすぐ見ていた。
なぜ星垣さんは俺の方を見ているのか。
すぐには答えが見つからなかったが、今の状況からすればそれは好都合だった。
俺は一呼吸置いてから、静かに意中の人の名前を口にした。
「星垣さん、副委員をお願いします」
教室がどよめいた。
全員の注目が星垣さんに集まる。
いつもだったらうつむくはずの彼女は、このときはまったく違っていた。
座ったままだったが、はっきりとした声が聞こえた。
「はい、お受けします」
教室が今度は静まりかえった。
俺は応えて言った。
「ありがとう。助かります」
星垣さんが俺の隣に並んで立つ。
男子の視線が少々痛いのが気になるが、時間がない。
次は書記1名だ。
正副の委員が決まったことで安心感が出たのか、これは立候補が出てくれた。
加藤君と言った。
細い眼鏡の奥に光る目が鋭い。
俺と違ってかなりできそうな感じだ。
加藤君は早速先生からノートを受け取って、今回の様子を書記として書き留め始めた。
そして保健委員もなんとか決まり、ようやく俺は一息つくことができた。
「それでは、これで委員選出を終わります」
締めの言葉を発すると、改めて教室に拍手が響いた。
俺は自分の席に戻り、どっかと腰を下ろす。
後ろの席の奴が、ご苦労さんと声を掛けてくれた。
それにしても、星垣さんがあっさり受けてくれたのは予想外だった。
俺としては賭けだったわけだけれど、彼女が受けてくれたおかげで助けられたのは事実だ。
とにかく彼女がこの教室の中で居るべき場所を作らなければならなかった。
でなければ彼女は本当に居場所をなくしてしまう。
一番簡単確実なのは、彼女をなにかのポジションに据えること。
俺が委員に選ばれたのは全くの誤算だった訳だけど、結果として彼女を副委員というこれ以上ないポジションに据えることができた。
それに、俺が正委員、彼女が副委員となれば、俺が彼女を守る大儀も付くだろう。
こうして俺の新生活は劇的な幕開けとなったんだ。
§
HRが終わって廊下に出ると、渉がむすっとした顔で出迎えてくれた。
「伸彦ー、さっきはなんだよ俺まで巻き込みやがって」
口調が本気っぽい。
俺は素直に謝った。
「え、えらく素直だな」
渉は逆に驚いた風に俺を見る。
「なんか訳ありだったか?」
鋭いところを突かれた。
俺は逆に渉に聞くことにした。
「渉こそ、今朝はなんであんなところに群がってたんだよ?」
強気だった渉の目が急に泳ぐ。
どうやらやましいことらしい。
俺は意に介さず続けた。
「さては、あの超美人な女子を見に来てたな?」
「わわわわっ」
渉の顔が赤くなる。
図星を当てたようだ。
「まぁ彼女はとびきりだからな、無理もないよなぁ」
「そ、そうだろっ?伸彦もそう思うよなっ?」
「しかしなー、クラス委員としてはクラスの平和を乱す奴は困るんだよな」
「へっ?今おまえなんて言った?」
「あ?クラス委員だが、それがどうかしたか?」
「えええええええっ!?」
「こらっ、渉デカい声だすなよっ!」
俺は渉の口を無理やり押さえて黙らせた。
「おっおまえがクラス委員だなんて、こりゃー地震でもくるかぁ?」
「おーいおい、なんだよそりゃ。俺が委員やっちゃ悪いか?」
「いや、悪くはないけどさ…。そういうの大嫌いだった伸彦がねぇ、ほおー」
「ま、そう言うことだ」
§
初日に続いてとんでもない展開になった2日目だったが、この日も予定の日程は無事終わった。
帰りのSHRが終わると、俺は猛烈に腹が減っていることに気がついた。
…そういや朝食抜いてたんだっけ。
色々ありすぎて今の今まで朝食抜きだったことを忘れていた。
思い出した途端によけいに腹が減る。
…こりゃ途中で何か食べないと辛いな…
今日は昼までの予定だったので当然弁当は持ってきていない。
ポケットを探ると小銭があった。
「お、小銭あった。えーといくらだ…」
ポケットにあったのは小銭が750円。
…なんとかなるか、な。
帰りのバス代は250円かかる。
差し引きで500円あれば、まぁそこそこのものは食べられるだろう。
しかしだ、さてどこで食料を調達するか。
坂の下のコンビニか、それとも学校の売店か、はたまた。
俺は鞄から学校案内を取り出した。
売店を覗いてみるか。
そう思って俺は案内図を睨み付ける。
売店…売店、と、ん?
見ると本校舎と北校舎の間に『食堂』の2文字が見える。
へぇ、ここは食堂があるのか。公立にしちゃ珍しいな。
売店よりはうまい物にありつけるだろうと、俺は食堂に向かうことにした。
それにしてもこの学校は広い。
普通教室のある校舎は3つあり、1学年ごとに1校舎が割り当てられている。
もっともクラス数が7クラスまでなので、空いてる教室もそれなりにある。
昔はクラス数が今よりずっと多かったのだろう。
さらに体育館や武道館、食堂があり、職員室や事務室の入る本校舎と、特殊教室棟がある。
なによりややこしいのは各校舎を繋ぐ渡り廊下だ。
2階から出たと思えば3階に繋がったり、1階から出たと思えば2階に繋がっていたりする。
俺はうろうろと道に迷いながら、やっとの事で食堂までたどり着いた。
食堂は上級生ばかりで俺はちょっと気後れしたが、なんとか入り込んで昼飯にありついた。
それにしても安い。
今日のメニューはチーズハンバーグだったが、野菜のキャベツ山盛り、ご飯も大盛り味噌汁付きで300円とは、他で食べる気がしなくなる。
食べている間に午後のチャイムが鳴って、あれだけいた上級生は俺が食べ終わる頃にはいなくなっていた。
「さて、帰るか」
すっかり満足した俺は、遅まきながら家に帰ることにした。
教室に一旦戻って鞄をとった俺は、そのまま昇降口を出て学校を出た。
人気のない坂を下りながら、明日から通学はどうしようかと考えていた。
その夜、夕食を食べていると、母に聞かれた。
「伸彦、明日から授業でしょ?弁当どうする?」
「んー、どうしようか。俺はどっちでもいいけど」
「どっちでもって。あ、そうか、食堂あるんだっけ?」
「そうそう、食堂。で、どうしようかなーと。食堂で食べてた方が、母さんは楽だろ?」
「うーん、それはそうだけど割高よねぇ…」
「よし、決めた。お弁当作るわ」
「いいのかよ?」
「大丈夫大丈夫。時間も今までとそんなに変わらないし」
「それじゃお言葉に甘えて、よろしくお願いします」
「はいはい、まかせて」
§
翌日、俺は7時に目を覚ました。
リビングに下りると、料理の香りが漂ってくる。
母がキッチンにいた。
「おはようー」
「あ、伸彦おはよう。って、頭ボサボサじゃない。とりあえず顔洗っておいで」
「へーい」
俺は洗面所に向かう。
「うわ、今日はいつにも増してひどいな」
俺は顔を洗うと髪の寝癖と格闘を始めた。
とりあえず水とブローでなんとかしようとするが、今日は全然効き目がない。
しかたがないので、これは使いたくなかったがムースを取り出した。
ワックスまで行くと大変なので、なんとか収まってくれよと祈りつつ髪を寝かせていく。
なんとか片づけてダイニングまで戻ると、時計の針は7時半を指していた。
弁当はテーブルの上に置かれて、まだ蓋が開いたままだ。
朝食はトーストに目玉焼き、そして夏みかんがデンと置かれていた。
「伸彦、何飲む?牛乳?それともコーヒー?」
「あー、牛乳でいいわ」
うちの朝食は伝統的にパン食だ。
牛乳を片手にトーストをかじる。
夏みかんまで食べ終えると、時計は7時50分。
慌てて歯を磨き、もう一度自室に戻って着替えて降りてくる。
「母さん、今日は自転車で行ってみる」
「あ、そうなんだ。気をつけてね」
時計の針は8時ちょうど。
「じゃ、行ってきます」
俺はガレージから自転車を引っ張り出し、荷物を積んでこぎ始めた。
バス待ちの人が並ぶいつものバス停の脇を駆け抜けて、俺の自転車は快調に走る。
途中で脇道に入り、住宅街の中を駆け抜けると近道だ。
少しアップダウンがあるけど、大して苦にならずに走る。
学校の脇に出て、そこから正面のあの坂に回る。
かなりの勢いで坂に入ったつもりだったが、見る見るスピードが落ちていく。
最後は一歩一歩登るような感じになったが、なんとか登り切った。
自転車置き場に自転車を置いたところで、腕時計を見てみた。
8時20分。
これなら自転車の圧勝だった。
教室に上がると、今朝も入り口に男どもがたかってる。
俺は昨日と同じように人払いをすると、教室に入った。
既に日課になりかかってるな…そんなことを考えながら席に着く。
星垣さんの方を見ると、あれ、いない。
机の上には教科書とノートが出してあるから、登校はしているみたいだが…
と、彼女の席を見ながら考えていると、後ろから俺を呼ぶ声がする。
「…やし君。林君」
「え?、ああ、えーと?」
「間々充弘だ、覚えてくれな」
「ああ、で、何かな?間々君」
「林君が来るちょっと前に放送があってさ、うちのクラス委員はちょっと職員室まで来てくれって」
「ああ、それで星垣さんがいないのか」
「そうそう、彼女は先に行ったみたいだ」
「ありがとう。ちょっと俺も行ってくる」
俺は荷物を机の上に置いたまま職員室へと急いだ。
迷路のような渡り廊下を越えて職員室にたどり着くと、ちょうど彼女が職員室から出てくるところだった。
彼女はプリントの束を抱えている。
俺は運ぶのを手伝おうと彼女の側に歩み寄ると、彼女が不意にこちらを向いた。
2人の目が1本の線上に揃う。
俺は声を掛けた。
「プリント、持とうか?」
彼女の口元がゆるむ。
「あ、林君おはよう。いいよこれくらい」
そう言って彼女は歩き出す。
しかし俺としても、女の子に荷物を持たせて自分が手ぶらでいるわけにはいかない。
「女に荷物持たせて手ぶらで歩けないって」
「そういうの、気にするんだ?」
「いや、気にするとかってんじゃなくて、俺のポリシー」
「優しいんだ?」
「優しいと言うほどでもないんじゃないか」
「やっぱり、優しいと思うよ」
「…そうかな?…うーん、わかんねぇ」
「優しいよ…」
そこから言葉が続かないまま歩き続けた。
もうちょっとで教室というところまで来た。
【以下、未完】
2006年に執筆した分は以上になります。
改稿したのは、セクション記号を加えた事と無駄な改行の削除くらいで、他一カ所だけあまりにも表現が稚拙だった1行を削っています。
14年ぶりに読み返してみて思ったのは、「書き方が全然変わってないね」ということでした。