7話『絶望の淵に』
「君ってさ、もしかして幸人の恋人だったり……する?」
「…………へ?」
先程まで考えていた想像とは余りにも食い違うその言葉に驚愕を覚える。
尋ねた幸人の態度もどこかそわそわとしていて喋り方もどこか早口であった。まだ少し顔が赤く、何より目が合わない。もしかしたら緊張しているのだろうか……。
「え、えっと、私と幸人はそんな、恋人みたいな関係じゃないけど……どうして?」
「え? あ、それはアレだよ、ええと……そう! すっげー可愛い子が来てくれたから、そうだったら良いなぁ。みたいな、そう、そういうこと!」
「……へ、そそ、そうなんだ……!?」
記憶を失ってるとはいえ幸人の姿で可愛いだなんてそんなことを言われては、やはりドキドキするし、とても嬉しい。顔が赤くなってるのを感じる。あー、もう、恥ずかしい……。
「だ、だから幸人との気持ちとは関係ないからな!? 俺のアレだから、想像だから!」
「……幸人、って、ええと。あなたは幸人じゃないの?」
「そうだよ。俺は、幸人じゃない」
ドクン、と心が揺れた気がした。俺、という一人称と聞き慣れない口調。幸人の顔と、幸人そのままの姿で、まるで双子のような別人感。……彼に幸人ではない、と言われれば、それは納得してしまった。
「って、俺が勝手にそう思ってるだけなんだけどさ」
彼は頬をかいてはぐらかした。少し笑って見せたが、それすらも幸人の笑い方とはかけ離れているもので。
まるで幸人の中に別の誰かの魂が入り込んだのではないか。などと想像してしまう。
「そう思ったのはどうして?」
「あぁ、と。その前に改めて自己紹介しようぜ。俺は君とは初対面だからさ。俺の名前は小鳥遊 幸人。君は?」
「あー、そうだよね、ごめんね? 私の名前は、天野 沙耶。前の幸人からは『さやちゃん』って呼ばれてたかな」
そう、自己紹介をしただけであった。
────瞬間。
「…………」
「……え、どうしたの? 私変なこと言った?」
幸人は見たことのないような表情で私を見た。
『恐怖』いや、そんな生半可なものではない。恐怖を通り越した『絶望』。この世のものではないモノを見たような。そんな表情を浮かべて、彼は目を見開いて、睨みつけた。
「……なんなんだよ。怖い……。俺が、俺じゃなくなっていくような……。頭が……痛い……」
「大丈夫!?」
彼は両手で頭を押さえてうずくまる。心配して近寄ろうとすると、突然ばっと左手を私の前に向けて制止した。近寄るな! と、そう言ってるように。そんな手すら震えていて、今度は顔色が悪くなっているのを感じる。
幸人の様子がおかしいのは誰がどう見ても明らかであった。後頭部を押さえ込んでは痛みを堪えるようにまぶたをぎゅっと閉じて。首筋も汗ばんで、私を止める手も少しずつ指が閉じてゆく。
手のひらを力なくベッドの上にトスンと置いた。
「……え、あ、うん。……うん」
彼は、恐怖の対象から目を背けて、震えるように言葉を発した。虐められてる子が、いじめっ子に話すような、ビクビクと怯えた様子で。
明らかな拒絶であった。私のことを気遣って言葉遣いを優しくしてるのが逆に心の距離を感じる。
幸人とはかけ離れた彼の表情の中で、最後の虚しい作り笑いだけが『あの日』の笑顔を連想させて。それがどうしようもなく私の心を痛めつけた。
私は病室を後にした。行先のあてもなくただとぼとぼ歩く。そのまま胸が苦しくなって、病院のベンチに座った。
想像は、していた。想像の中でもそんなレベルではなかった。こんななら、会わないほうが良かった。会うべきでは無かった。
ひたすらに苦しい。ぎゅううと喉が焼けるように締め付けられる。そうして涙は勝手にこぼれた。もうそれを止める力も無かった。ただただ、心が痛かった。
あの日の作り笑顔。ふるふると小さく震えていた手。……何が、支えになりたい、だ。私が彼を傷つけたではないか。傷つけた? 私が何をした。私はただ少し話しただけだ。でも、過去の私なら。
……彼が思い出したのは、どこ?
……彼が思い出したのは、何?
……彼は、誰?
片桐くんの話を思い出した。
『いつ、何がきっかけでもっと悪くなってもおかしくない』
『本当なら喋ることもままならないくらい』
私は、何かを察した。
『キッカケ』。私がそれになるかも知れない。……私が会う事で、話す事で彼が悪化したのならば。私と話すことが、彼にとっての『キッカケ』なのならば。
「じゃあ、私……どうすればいいの?」
────泣きながら誰かに、尋ねた。
☆☆☆☆
「……君、大丈夫かい?」
「……大丈夫です。放っておいて下さい」
下を向いたまま答えた。泣き顔なんて見られたくないし、誰かも分からないのだ。
「僕の担当してた患者さんはね、大丈夫って言う時が一番大丈夫じゃなかったんだ。……ひねくれ者でね、いつもは痛い痛いと大げさに騒ぐ癖にさ。本当に大丈夫じゃないときは、決まって大丈夫だと笑うんだよ。本当に大丈夫なのかなって信じちゃうくらいにね」
「…………」
「……まぁ、君はその子じゃないからね。でも、今の君も見てられないよ。そう、だね。今担当してる子はね、記憶を失ってしまっているんだ」
ぴくっと反応してしまった。何も言わない。
「彼はね、大丈夫。と言うときは本当に大丈夫なんだ。逆に驚くくらいに大丈夫なんだよ」
「……どういうことですか」
「深くは言えないんだけどね。その子は学校に行きたいらしいんだ。理由はよく分からないけど、その執着っぷりには何か怖いものを感じたよ。だって、めちゃくちゃ辛いリハビリも全部欠かさずやって、検査も無事にオールクリアだ。……記憶が一つも無いはずなのに、体調面ではもう普通の人と変わらないよ」
「……」
幸人が、学校に行きたがっていた。
「でも僕はね、絶対に許可を出さないつもりだったよ。だってそれはあまりにも危険すぎる。彼に記憶を失わせた『何か』がまた彼にショックを与えた時に、君はどうなるか分からない。って、言ってるんだけどね。……彼、やめないんだ。絶対に諦めない。ついに決意が折れそうになったよ。危なかった」
それは、片桐くんの言っていた『キッカケ』の話だろうか?
「……だって、彼。おかしいんだ。
『あいつには、多分すっげー大切な人がいるんだ。だから、その人に会わなきゃ、心配させちゃうから』
……だってさ。……そんな、不明瞭でよくわからない理由のために。そんな人に会うために彼は努力を止めないんだよ」
「…………」
「……僕はね、彼を見習おうと思ったよ。何か強く求めるものがある時の人間は、強い。……何より、絶対に負けないんだ。どんな障害があっても立ち向かう力を持っている。……記憶が無くても、彼には心があった。だから、記憶がないなんて関係ないんだ。そんなバカなことを気にしているのは僕だけだったんだ」
「……じゃあ、幸人は」
「……へ、僕、彼の名前いったっけ?」
スルーする。
「幸人は、その人に会ったらどうなるんですか?」
「……多分彼は『何か』を思い出すと思ってる。でもね、それはきっと、大切なことだ。だって記憶がなくても大切だって分かる事なんだよ? じゃあ、それ以上に大切なことなんて無いだろう」
その医師は、笑った。
「彼は、大丈夫だ。だって、彼が大丈夫だって言ったのだから」
「……ッ」
私はまた泣いてしまった。
「あぁ、申し訳ない。泣かせる気は無かったんだ。……でもね、これだけは聞いて欲しい。彼のことを想ってとった行動に間違いなんて無いと思う。それが彼にとって毒であろうと、彼は大丈夫だよ。だって彼が大丈夫だって言ったんだから。だから君が背負う必要はない。だから、もう一度だけ、会ってみないかい?」
「でも、私は……ぐすっ、私は……」
「彼にも色々と飲み込む時間が必要だ。だからね、少しだけ時間が欲しいんだと思うよ。良かったらまた来て欲しい。それで彼の様子を見て、僕はまた彼の学校に通う許可を出すことにするよ」
……救われた、そんな気がした。不思議と心が安らぐ。私は彼をとても傷つけたというのに、それすらも許された錯覚に陥る。……涙はまだ止まらないが、先程とは理由は違う。
もう一度だけ勇気を出してみよう、なんて。
決意を満たした。
私はもう大丈夫だ。
だって、彼が大丈夫だって言ったのだから。
大好きな幸人が、そう言ったのだから。
佐越さん人としてはいい人だけど医者としてはダメですよね。
もし良ければ『キッカケ』
また、幸人の絶望の理由も予想してみて下さい