4話『悪い知らせ』
さやちゃん視点です
幸人の居ない学校は、まるで世界から色が失われたように退屈に感じられた。脳内で白、黒、グレーに変換された世界は、どうしようもないくらいに淡々と時間を刻み続けた。
だから、先生から『幸人の意識が戻った』という知らせを受けた時、眼を見開いた。……だが、同時に殺意が湧いた。
「昨日の夕方にな、突然目を覚ましたらしいよ。良かったよねぇ本当に」
「……先生? なら、なんで昨日言ってくれなかったんですか……?」
伊藤先生は、キョトンと変な顔をした。
「え、言ってなかったっけ?」
「聞いてません」
「……? あっ、そうだ! 片桐に言ったからそれで満足しちゃったんだぁ。ごめんね、天野さんにも言わなきゃだったよね」
「そういう大事な連絡は絶対に私に言ってください!」
「は、はいっ!」
キツめに言っておいた。許されない。目を覚ました幸人に一番に会いたかったのは私だったのに。心が不安定な時こそ幸人の側にいてあげたかったのに。
……それをよりにもよって片桐くんに負けるなんて。絶対に許されない。
私は難しそうな顔をしてる片桐くんに話しかけた。言っておくがかなり不機嫌である。
「片桐くん、なんで幸人のお見舞いに行くって言ってくれなかったの?」
「……ん? え、一緒に行きたかったのか? それは予想外。悪いな、一人でつっ走っちゃったわ」
「ちーがーう! そうじゃなくて、何で私に教えてくれなかったの? ってこと!」
私は不快な勘違いをした彼に訂正を加える。
彼は眉をひそめて頭にハテナを浮かべた。うん? と小さく唸ったのが聞こえた。
「逆に天野さんが幸人のお見舞いに行くとき、わざわざ俺に言う? ってかSNS交換してたっけ?」
「え、あ。そういえば……そうだね」
ドが付くほどの正論である。連絡方法も無ければ、そこまで頻繁に連絡する程の仲でもない。私は少し焦っていたのだろう。悪いのは彼では無く、伊藤先生なのだ。
「分かった。じゃあLINE追加しよう? これからそういう緊急の連絡は聞き逃したくないしさ」
「あぁ、そういう事なら喜んで」
「……って待てよ。これって非常にまずいんじゃ?」
「え、何が?」
ケータイを取り出してLINEをお互いに追加し終わったくらいに彼はパッと周りを確認し始めた。そういえば教室がザワついている気がする。……どうしてだろうか。
「とりあえず続きは昼休みに話そう。人目が付かなそうな……そうだな、文化棟の屋上で集合しよう」
「え、あ、うん」
彼は、そそくさとその場を離れた。いや、相当なダッシュである。
その後すぐに教室の男子は彼を追いかけて波となって走り出した。鬼の形相である。
彼はかなり汗だくになって次の授業を迎えていた。かなり走り回ったのだろう。……鬼ごっこでもしていたのだろうか、男子は本当に元気だなぁ。
☆☆
文化棟の屋上、『入ってはいけません』という張り紙に見ないふりをして上がった。私にあるまじき行動である。上がるとそこには先に片桐くんが座っていた。また難しそうな顔で空を眺めている。……何かあったのだろうか。
「お待たせ。ごめんね、結構待った?」
「全然待ってないよ。って、何これデート? いやーん嬉しい〜」
「キモいですので勘違いするのやめてください」
「敬語で心の距離を表現するのやめない?」
彼はそうとぼけて笑った。しかし、その表情はやはり固いままである。
……彼の表情を見るに、昨日の幸人の様子に何かがあった事なんてすぐに分かった。
焦った私は話を急かす。
「……幸人に何かあったんだよね。教えてくれない?」
「……分かった」
彼はゆっくりと息を吸い、そしてそれを吐き出した。真剣な眼差しで私の瞳を貫く。
『覚悟はいいか?』なんて、尋ねられた気がした。ゴクリと唾を飲み込んで視線に応える。とうの昔に覚悟は決めてきた。
彼は淡々と話し出した。
「良い知らせと悪い知らせがある。どっちから聞きたい?」
「じゃあ、悪い知らせから」
彼はよし。と頷いた。
そして一拍置いて、口を開く。
「幸人の記憶は、全部消えちまった。俺のことも、お前のことも。なんなら自分のことも何も覚えていない」
絶句した。何も言葉が出てこなかった。冗談ではなく、頭が真っ白に塗りつぶされるのを感じる。計り知れない衝撃。それは到底、受け入れられるようなものではない。簡単に信じろというのも、難しいものだ。
そうして、私は考えた。もし、もし私が昨日、彼に会っていたならば。そんな状態の彼を目の当たりにしたならば。
私は、昨日会いに行かなくて良かったかも知れない。なんて思ってしまった。
そんな状態の彼を見てしまったら、私はきっと、……いや、想像もつかない。私はどうするだろう。固まってしまうのだろうか。泣き出してしまうのだろうか。最善策すら見当たらない。
「じゃあ幸人はさ、片桐くんに会って、何て言ったの?」
「……誰? だってさ。笑っちゃうだろ?」
彼は自嘲するように笑った。全くもって笑えない。笑えるはずもない。
「それで、あなたは?」
「……逃げたよ。逃げ出した。認めたくなくて、認めるしかなくて。悔しくて、悲しくて。……どうすりゃ良かったのかな。俺は」
彼は、悔しそうに嘆く。きっと、壮絶な思いをしただろう。さっきの難しい顔も納得がいく。……考えたくなくても、きっと頭の中でぐるぐると回り続けるだろう。どうすれば、どうすれば。って。
「……じゃあ、良い知らせは?」
「悪いけど、まだ悪い知らせは終わってない。幸人の状態についてしっかり話したいんだ。間違いが起こってからじゃ、もう取り返しがつかない」
「……そっか」
彼は、悔しそうなその顔を両手で強く叩いた。パチン! と音が鳴る。そうして切り替えて、また淡々と話した。
「幸人は今、すっげぇ不安定な状態らしい。全ての記憶を失うってのは、本当なら喋ることすらままならないくらいの事なんだ」
……彼は続ける。正直もうこれ以上聞きたくなかった。それでも幸人の状態を知りたかったのだ。
「……いつ、何がきっかけで……もっと悪くなってもおかしくないってさ。むしろ今の状態の方が奇跡に近いらしい」
「そんなのって……! 嫌だよ……」
「……ここまでが悪い知らせだ。一旦休憩しようぜ。俺、ちょっと休み時間のアレで疲れちゃったからさ」
彼は心配そうに私の表情を伺っては、話を中断した。きっとそれは相当酷いものだったのだろう。嘘まで吐かせて気を遣わせてしまった。
彼はペットボトルのお茶を強引に喉に流し込んだ。気づけば私も喉がカラカラだったので、ゆっくりとお茶を飲む。お茶はいつもより苦かった。
そうして彼は、ぼうっと空を見上げた。幸人のことを考えているのだろう。そして、これからの自分のことを考えているのだろう。
私はまだ、ゆっくりと事実を咀嚼していた。飲み込めない、身体が受けつけないその真実を噛み砕いて、理解して、受け入れるために。
────未来へと進むために。
ゆーたんの気遣いに泣きそうになる