2話『幸人の状態』
「……誰?」
「……な、何言ってんだ……?」
頭が固まって何を考えてるかわからない。ぐちゃぐちゃ、ぐるぐると思考を黒い何かが這い回る。考えたくもない、何か。
だが、幸人の面を被ったソレは、俺の思考を止めさせない。
「ごめん、俺の記憶、消えちゃったみたいでさ。俺は小鳥遊 幸人っていうらしいんだけど、もしかして俺の友達……なのか?」
「えと……ごめんな。俺もなにがなんだか分かってないんだ。良かったら、俺がどんな奴だったのか、教えてくれないか?」
元々幸人は演技や嘘が得意では無かった。しかもあいつはこんなタチの悪い冗談を言うような人間でもない。彼の言う冗談は、決して相手を傷つけないようにしていた。
疑う余地もなく、そして答えはそれ以外考えられない。
──幸人の記憶は、消えてしまったのだ。
俺は、気づくと弾かれたように病室から飛び出していた。怖かったのだ。話すのが、その事実を認めるのが。
認めるしか無いのに、それしか考えられないのに、俺はどうしても幸人だった『ソレ』を見るのが嫌だった。
そうしてただぼうっと屋上のベンチで座り込んでいた俺に、誰かが声をかけた。
「やぁ、幸人くんの友達かい?」
「……いいえ。友達なんかじゃありません」
俺は、訂正する。俺と幸人はそんな簡単でチャチな関係ではないと。
「俺は、幸人の親友です」
それを聞くと、白衣を着た彼はとても嬉しそうに笑った。
★★★
彼は名を佐越と言った。話を聞くに幸人の担当医の方らしい。歳は40代くらいだろうか、白髪混じりの黒髪と、年季の入った皺が彼の穏やかな笑みを際立たせた。
これはただの勘だが、この人は信用できると思った。オーラとでも言うのだろうか、彼の佇まいが、しっかり者で優しい人に見えたのだ。
彼は、隣のベンチに座っては淡々と話しかけた。
「幸人くんは、『解離性健忘』という症状が出ていると考えられている」
「……記憶喪失ってこと、ですよね」
「まぁ簡単に言えばそうだね。まぁ詳しく言うと、解離性健忘の『解離』とは、特定の心理や行動が、その意識から切り離されてしまう状態を言うんだ」
「……難しいんで、もっと簡単にお願いします」
俺は佐越さんに詳しい話を伺った。幸人は今どんな状況なのか、治る見立てはあるのか。ということを聞きたかったのだ。
「まぁ要するにショックやストレスのかかることから精神を守るための、無意識的防御機制の一つだね。最近の彼の行動で、何か様子のおかしいこととかはあったかい?」
「……心当たりがあります」
「そうか。なら何か彼に大きくストレスを与えたことがあって、それから彼自身を守るために起こったのかも知れないね」
幸人に大きくストレスを与えたこと。心当たりはある。が、分からない。
あいつが変わろうとしてやったことの行動? 変わろうとさせたことは何か? 彼がなんで無茶をしたのか。俺はまだ知らなかった。
彼は続ける。
「解離性健忘の主な特徴は、心的外傷や、強いストレスとなる出来事の記憶を思い出せなくなることだ。さっき君が言っていた『記憶喪失』と同意で良いだろう」
「……ただ、それではおかしな点が存在するんだ」
彼は、真剣そうにこちらを向いた。何故か心がざわつく。
「おかしな点……とは?」
「そうだね。基本的に解離性健忘で失う記憶は、『ストレスを与えた原因』のみなんだ。だけど幸人くんは、『全ての記憶』が無くなっている。それはもう、お母さんの顔すら思い出せないくらいに」
「……ってことは、『ストレスを与えた原因』が、ここ最近のことではないということですか?」
彼はおや? と、驚いた風に見せた。そして穏やかに笑いかけては、また難しい顔で話を続ける。
「……君は頭が良いね。ただ、この症状は、精神的な衝撃によって引き起こされると言われている。だから、ここ最近で何かがあったのは確かだとは思うんだけどね……」
「……そう、ですか」
彼は、悲しそうにより曇った表情をして、話を続ける。
「……実はもう一つ、おかしな点があるんだ」
「……?」
「普通、『全ての記憶を失う』という状態は、とても危険な状態だ。通常なら話せないどころか、一人で動くことすら出来なくなると言われている。……最悪の場合、植物状態になってもおかしくない。だから、今の幸人くんの存在は、奇跡と言っても過言ではないんだ」
「…………と言うと」
この話の『おかしな点』はプラスの方向に働いた。幸人が一歩も動けなくなってしまうなんて、考えるだけでも、嫌である。
だが、話はここで終わりではない。それならこんなに佐越さんが辛そうであるわけがないのだ。きっと彼の言いたいことは、ここから始まる。
「……つまり、今の幸人くんは非常に不安定な状況にある。いつ、そうなってもおかしくないという状態にあるということを、忘れないでくれ」
「…………」
そんなこと、聞きたくなかった。最悪の想像が、現実になるかも知れない。幸人の笑顔も、怒った顔も。何もかも全てがもう消えてしまうかも知れないのだ。
……ぽろぽろと涙がこぼれた。
罪は、何回でも償える。何度でもやり直す事だってできる。挫けて心が折れてしまっても、時間がかかってしまっても、必ず立ち直る事ができる。何度だって立ち上がれる。
────だけど。
だけど。それをすることが出来るのは生きている人間だけなのだ。死んでしまっては、もうどうする事もできない。
笑顔を見ることも。
声を聞くことも。
同じ世界にいることすら許されないのだ。
もうこの世から旅立ってしまった、彼女のように。
ドス黒い何かが脳を這い回るのを感じる。喉が圧迫され、涙と鼻水が止まらない。
佐越さんはそんな俺の頭をそっと撫でた。
「君は、本当に彼のことが好きなんだね」
なんて言って。優しくされると、もっと泣いてしまう。そんな言葉を貰うくらいならもっと残酷なことを言ってくれる方がいい。
無理やり目をこすって。鼻水をすする。
「ぐすっ。当たり前じゃないですか。親友なんですから」
「はは、そうだったね。……なら、今の幸人くんとは、話してみたのかい?」
……そういえば、俺は病室から飛び出してしまったので、今の幸人とは話していない。でも、今の幸人は幸人ではない。幸人という外見をした『誰か』である。もう俺の知らない誰か。……誰か?
……本当にそうなのか?
「僕の勝手な妄想なんだけどね、聞いてくれるかい?」
彼は、穏やかにこちらを見た。
「不安定な状態。だからこそ何が起こるかわからない。そして今の幸人くんはただの『別人』とは思えないんだ。きっと何かしら幸人くんに関係があるに違いない」
「……つまり、僕らの想像以上に、彼の記憶が戻るのは簡単かも知れないってことだ」
その言葉を聞いて、ベンチから飛び上がった。
「本当ですか!?」
……そうだ。まだ全てが終わった訳じゃあない。まだ、幸人は生きている。記憶だって戻るかも知れないのだ。
俺は何をクヨクヨしていたのだろう。『あいつ』と幸人を勝手に重ねているなんて、それこそ幸人にもあいつにも失礼なものだ。謝らないとなぁ。
彼は、笑って続けた。
「前の幸人くんのことを追いかけるんじゃなくてさ、今の幸人くんを好きになってみようよ」
「きっと、今の幸人くんを受け入れてあげられるのも、前の幸人くんを救ってあげられるのも、親友の君だけだと思うからさ」
彼は、コーヒーを飲みきってはゴミ箱にカランと入れた。
「……さて、君はどうするんだい? 僕はもう少し休憩したら幸人くんの病室の面会時間の終了をお知らせしないといけないんだけどなぁ」
「お、俺、ちょっと幸人と話してきます!」
彼は軽くおどけてそう言うと、がばっと焦って立ち上がった俺を見て楽しそうに笑った。
階段に向けて走ろうとした途中で、ハッと思い出して立ち止まる。
「佐越さん、本当にありがとうございました! 俺、頑張ります!」
「はは。君は本当に賢い子だね。ほら、行っといで」
「……はいっ! 行ってきますっ!」
俺はまた彼のいる病室へと走り出した。
……今度は、今の幸人を好きになるために。
今の幸人くんはどうなったのでしょう。
良ければ感想欄で当ててみて下さい。
(感想欲しいマン)