第5話 譲れない思い
空は俯いたまま返事をしない。
「また来るよ。」
俺はそう言って病室を後にした。
病院を出ると外はすでに暗くなっていた。
空の病室はカーテンがかかっていて全く気付かなかった。
あとは母ちゃんがここから歩いて行けるホテルにいるはずだから、そこまで行くだけである。
しかし、足が動かない。
「・・・ちょっと散歩でもするかな。」
俺はホテルと逆方向に足を進めた。
俺の傍を小さな子供を連れた若い夫婦が通り過ぎていく。
病院の近くだし、退院したんだろうか、遊んだ帰りだろうか、とても晴れやかな顔をしていた。
俺の傍を仲睦まじそうな老夫婦が通り過ぎていく。
近くのスーパーからの帰りだろうか、食材の入った袋を二人で持っていた。
俺の傍を若いカップルが通り過ぎていく。
デートの帰りだろうか、今日の思い出を話しながら手をつないで歩いていた。
広場に着いた。
噴水を中心に円形に椅子が並べられており、休憩所のような役割だろうか。
子供が一人ベンチに座っていた。
その子はしばらくしてぱっと顔を上げたかと思うと走り出した。
その先にはその子のお母さんらしき人がいて手を引かれて帰って行った。
俺はいつも音羽と一緒にいた。
音羽はいつも俺に笑いかけてくれていた。
俺と空が喧嘩しているといつも仲裁してくれていた。
音羽は俺のことが大好きだった。
俺は音羽のことが大好きだった。
今は隣に音羽がいない。
もう隣に音羽はいない。
幸せそうにしている人達を見ると、腹が立つ。
笑っている人を見るとイライラする。
この気持ちはなんなんだろう。
むしゃくしゃした気持ちのまま、帰路につく。
ホテルに着いて、母ちゃんの部屋の前まで行き、ノックしようとした。
そこでふと気づいた。
中から鼻をすする音と、呻くような声が聞こえてくる。
泣いているのか。
ドアをノックすると、中から目と鼻を赤く腫らした母ちゃんが出てきた。
「おかえり。」
「・・・ただいま。」
部屋に入り、ドアを閉める。
「遅かったわね。」
「別に・・・。」
「そう。」
そういうと母ちゃんは俺をゆっくりと抱きしめた。
「つらい時はね、泣いたらいいのよ。 あなたはなんでも我慢しようとするから。」
そう言って母ちゃんは俺の頭を優しくなでる。
15歳にもなってそれはすごく恥ずかしいはずなのに、振りほどこうという気にならない。
そして、ようやく自分の今の気持ちに気が付いた。
温かな水滴が俺の頬を伝った。
俺は、今、悲しいんだ。
◆
「今日からお世話になります。よろしくお願いします。」
あれから2週間がたった。
「あら~空ちゃん! 礼儀正しくどうも~。 でもそんな硬くならないでいいのよ~。 もうここはあなたの家なんだから!」
「いえ、お世話になる以上、そういう訳にはいかないので。 それと、私は『音羽』ですので、お間違いなく。」
予想以上にうまくいった手術で、麻痺などの後遺症もなく回復した空。
あの時俺が話した通り、空はうちに住むことになった。
親がいなくなって親族に引き取られるところ、俺たちが無理を言って空を引き留めた。
「それより、空、お前体なんともないのかよ。」
「大丈夫だよ。 それよりも、たっくん、私は『音羽』って言ってるでしょ?」
空はぎこちない笑顔を俺に向けてくる。
「ああ・・・そうだな。」
俺はそんな空に何も言えなかった。
違う。
音羽はそんな風には笑わない。
空はそんな風には笑わない。
でも、空の気持ちを考えると、俺が空にしてやれることは何もなかった。
空はもともと空いていて物置として使われていた、俺の隣の部屋に住むことになった。
俺の家は二階建てで、二階が寝室となっている。
俺の部屋も二階にあるので、昨日までのところで隣の部屋を片付けて、空の荷物を運びこんだ。
元の空の家はまだ残っており、いつでも入れるようになっている。
思い出をなくしてしまわないために。
「それよりも、空。 お前、学校ってどうするんだ?」
空も音羽も、この春から俺と一緒に県立響蘭高校に通うことになていた。
「だから、音羽って呼べって・・・。 そのまま通うつもりだよ。」
「それって、やっぱり音羽として・・・・か?」
「・・・・そうだよ。」
手術の結果、空は死んだことになっている。
学校へ行くなら当然、書類上生きている音羽として、ということになるだろう。
空は暗い表情をしながら続けた。
「私は、音羽として生きる。 日比野 空は、もう死んだんだよ。」
その言葉を聞いた瞬間俺は自分を抑えられなかった。
座っていた椅子から立ち上がり大声を出す。
「お前、本気で言ってんのか!? お前は空だ! 音羽じゃない! 死んだのは音羽だ! 空じゃない!」
「私は本気。 大丈夫だから。 落ち着いて、たっくん?」
「っ・・・・!」
俺は拳を握りながらも、椅子に座りなおす。
「じゃあ、まだ荷物の整理があるから。」
そう言って空は二階の自分の部屋に戻っていった。
その日は夕飯まで空が部屋から出てくることはなかった。