【短編】詠み人知らずの式神譚詩
平原朔也はその朝、いつも通りの時間に起きて、いつも通り左手にだけ黒い手袋をはめて支度を終え、いつも通りに家を出て幼なじみの家へ向かった。
けれどそこで出会った一日ぶりの彼女は、いつも通りではなかった。
「し……のん……?」
立ち尽くす制服の肩からカバンがずれ落ち、見慣れた町並みと、風に舞うもみじが無機質なモノクロへと変色していく。
彼女の家の前には人だかりが出来ていた。そしてその中心には、警察のパトカーと救急車が一台。
「う 、 か ああああ きギ ―― あっぁ!」
拘束された獣のうなり声のような、じれったそうな叫びがあたりに響く。周りの野次馬たちは肩をすくめて、ひそひそ話をうち止めた。
見れば、三角屋根の白い新築の家から、担架に乗せられ――厚布で体をグルグル巻きに固定されたオレンジ色の髪をした女の子が、救急隊員の手で担ぎ出され、救急車に搬入されていく。
すぐ横には二人の警官が油断ならない様子で付き添っている。
女の子の瞳は真っ赤に充血し、必死に首を動かして担架の縛りを解こうと暴れ狂っていた。
ふいに、こちらと目が合う。
「さくや」
「紫音……!」
いつものトーンの紫音の声に笑顔を作った朔也だった、
だが。
「――血がね……血が欲しいの。
血が欲しい、あなたでも誰でも構わない!
人でも動物でもなんでもいい!
多くでも少しでもなんでもいいの――!
誰もわかってくれないの! ただ血が欲しいだけなのに……っ。
血が欲しいの……! 止められない――のどが渇いて焼き切れそうなの。
助けて、助けて朔也……!!」
「…………っ!」
まさに渇望と言える、凶暴で甲高い声色の前に、朔也はいびつな笑顔を凍り付かせたまま言葉を失った。
それから救急車の扉が閉められるまで、女の子から何かを呼びかけられ続けた朔也だったが、その中身まで耳を傾ける余裕はなかった。
いつまで立ちすくんだことだろう。
すでに野次馬は散り、警察も救急も撤収してしまっていた。
それでも朔也は、街路樹から足元のアスファルトに流れてくる枯れ葉の中、ただ一人で茫然と、時間の中に取り残されていた。
まるで本当に『吸血鬼』のようになってしまった彼女の目を思い出しながら。
ぎゅっと、左手袋の中で無力感を握り潰すことしかできなかった。
⬜︎⬛︎⬜︎⬛︎⬜︎
「なぁ、聞いたか? 二組の日比谷が『アレ』にかかったらしいぜ!」
「『アレ』? アレってどれだよ」
「バーカ。アレっつったらアレだよ、吸血鬼症候群!」
翌日の朝。
欠席した昨日に引き続き、ぼうっと机に頬杖をつきながら窓の外を眺めていた朔也の耳に、興味に弾む話し声が届いた。
黒に限りなく近いブラウン色の長い前髪を銀色のピンでとめ、紺色のブレザーを適度に着崩した少年だ。その左手には黒い手袋がはめられている。
「うえっ、マジかよ……。もう今月だけでうちの学校3人目じゃん。マジこええ」
「やっぱ関係あるのかな。あの『赤い蛍と白い天使』の噂」
「お前、またそれかよ。そういうオカルト話が本当に好きだよな。赤い蛍を引き連れて宙に浮く綺麗な天使だっけ? いるわけねーだろそんなもん」
「だってよー、その原因が分からないって言われてるビョーキになった人の家の近くで何回も目撃されてるんだぜ? 関係なくはないんじゃない?」
「俺はそういう都市伝説は別に信じないからなぁ。……つーかさ」
と、話し声の言下に、朔也は背中にその二人の視線が突き刺さるのを感じた。
「……その日比谷と毎朝登校してたんだよな、平原って」
「あぁ。昨日は休んでたけど、あいつは大丈夫なのかな? まさかいきなり牙を剥き出しにして噛みついてこねえだろうな……」
(くそっ、好き勝手言いやがって……!!)
朔也はだんっ、と机に手をついて立ち上がり、びっくりした様子の二人に近寄ると、
「あ~~~~~~~~~~んぐッ」
「――ぎゃあああ、いっってええ!」
おもいっきり口を開けて、片方の腕に制服の上から噛みついた。
「ほら、オレに牙なんてねぇし、血も吸えねえよ。興味本位で変な噂を流すなっての」
「…………っはぁぁぁぁぁぁぁぁぁーー! びっくりすんだろバカ!」
息を乱しながら噛みつかれた方は腕をさする。
「で、どうだったんだ? お前、昨日の朝に日比谷さんを見たんだろ?」
「……ああ。なんつーか……口じゃあ言えねえわ。ごめん」
「お、おう、そうか」
普段は明るい朔也の顔の陰を見て、二人は息を呑む。
朝礼の鐘が鳴ったのはそのあとすぐだった。
「おらー、席に着け。転校生を紹介するぞ」
担任が2年1組のドアを開けながら告げると、クラスのみんなはどよどよしながら席に着く。
朔也も席についてそちらを見ると、一風変わった小柄な女の子が担任の後に続いて入ってきた。
おおっ? と教室の男どもがざわめく。
「初めまして。皆城町十々梨と申します。父の仕事の都合で埼玉から引っ越してきました。よろしくお願いします」
横笛のように涼やかな声だった。
そして何より目を惹くのが、黒と銀が交互に折り重なった髪だ。狼の毛並みを彷彿とさせる色の長い髪を後頭部の大きなヘアピンでまとめている。
顔は……かなりかわいい。
(おい平原! あれ、めっちゃかわいくねえ!?)
(あ、ああ。かわいいな)
(やっべ、マジやべえ! 俺初日からアタックしちゃおっかなー!)
いつもの朔也ならここで「いや待てここは先にオレが」とノるところだが、あいにく生返事を返すくらいの元気しかない。
すると、転校生はため息を一つ合間に置いて続けた。
「あと、先に言っておきますが――私はここにいる誰とも仲良くする気はありません。極力話しかけないでください。それだけです」
ざわっ……。
流鏑馬のようにごく冷然と、無情に放たれた言葉。
その発言は転校生の歓迎ムードを冷めさせてあまりある破壊力を持っていた。
「お、おい皆城町……」
「先生、私の席は?」
「あ? あ、ああ……そこ、宮野の隣だ」
うろたえる教室の雰囲気と教師を置いて、皆城町十々莉と名乗った少女はスタスタとそちらに歩いていき、椅子を引いて静かに着席。
どうしようもなく重苦しい雰囲気と冷たい視線だけが教室に鎮座した。
(……うっわぁ。なーんだ、性格悪子ちゃんか。イチ抜ーけた)
朔也の隣はそう言って残念そうに頬杖をつく。
朔也は、その女の子の2つ左斜め後ろから背中を見つめた。
華奢な肩だ。まるでちょっとでも抱き付かれれば折れてしまう、花の茎のような印象を受ける。後頭部にはヘアピンでまとめられた黒銀髪のかたまり。
(なんか……)
薄気味悪い予感が走る。
(人間っぽくない気がする。そもそもなんでこんなアブナイ時期に転校なんてしてくるんだろ。まさか、吸血鬼事件と関係があるんじゃ――)
と、朔也は頭を振って変な直感を払った。
友好的でないからと言って人外扱いするなんてさすがに酷すぎる。
(あんまり関わり合いにはならない方がいいか……)
ため息ひと息。そう、そんなことはどうでもいい。
今悩むべきは、そんな偏屈な転校生のことなんかじゃないんだから。
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生物担当の髪がぼさぼさな中年の先生曰く、
「もうすぐ冬なのに蛍が出るかですって?
そうですね、中国や対馬にいるアキマドボタルは文字通り秋に出ます。西表島に住むイリオモテボタルに至っては冬に発光しますなぁ。ですが、日本の本土ではまずお目にかかれないでしょう。初夏に出るゲンジボタルが主流ですからねぇ。何よりここいらみたいな都市圏じゃあ蛍の一匹も分布してないでしょうね。え? 赤く光る蛍? うっすら赤くじゃなくて真っ赤? 聞いたことありません……アニメじゃあるまいし。そもそも蛍の発光物質はルシフェラーゼという酵素とATPが働くことで発光し――」
と、言うことらしいが。
「本当にアニメじゃねえよ。なんだよ吸血鬼って……」
2ヶ月くらい前から発生しだした、ここ、星領市での連続吸血鬼化事件。
中でもこの星領中学からは患者がすでに4人も出ている。
厳密に言うと本当に吸血鬼になってしまうわけではない。ただ単に血を飲みたいという欲求が抑えきれなくなってしまうという奇病だ。
患者には噛み付かれた痕跡も無ければ、脳波や精神鑑定にもその欲求以外の異常はないらしい。
原因不明。不吉なその4文字の毒牙に今回かかったのは親友だった。
今はおそらく患者専用の隔離施設に収容されているんだろう。噂だが、原因が分かるまで、ひとまず患者には血液製剤を飲ませて保護、観察を行うらしい。
紫音がそんなものをおいしそうに飲んでいる――それだけでも吐き気を覚える。
なんとか彼女を助けたい。あの救いようもなく血の色に染まってしまった目をなんとか救いたい。そんな気持ちが昨日から朔也の頭をがっちりと締め付けていた。……だが。
「――くそっ! そんなもんどうやって助けろってんだ!!」
男子トイレの鏡の中の自分に向かって問いた出す。答えは無い。
ただ無力に佇んで遠吠えを繰り返すだけの自分が、そこに映し出されていた。
手を洗うために手袋を取った左手を見つめて握り締める。
この左手を――この左手を持つ自分を救ってくれたのはあいつなのに、この左手も、この左手を持つ自分も、あいつを救う手立てがない。
どうしようもなくむなしい涙が頬をなぞって排水溝に吸われていった。
――そのときだ。
「あっ」
目の前の入り口ドアが開いたかと思うと、そこには、
「え……皆城町……さん?」
やってしまった、という表情のまま凍りついた転校生が立っていた。確認しておくとここは男子トイレである。
「う、ご、ごめんなさい! ちょっと考え事しちゃってて……間違えちゃった。ほんとごめんっ」
と、うろたえながらチェックのスカートを翻してそそくさと去ろうとする。原因は鏡を見て分かった。――泣いているからだ、自分が。
「あ、ちょっと待――」
反射的に朔也は十々莉に手を伸ばした。
手袋をはめていない左手を。
そして左手が十々莉の手を掴んだ、その瞬間だった。
『桔梗印の構成は6×6 を基準 とした清 ドーマン76に対しセーマン89、大きさの比率は90:1をベースとし、護身剣の精製を行うが、この時 鬼火を発生させて術式相殺しなければ、明神式護符で組成し 宿曜の方角 と禁忌の 位置を固定して空間封印、後に方違えの護符が有効であり、五行の三項 を連鎖発動させた2×23232×49の字にて衰日の 月の位置を把握し十二神将の 円環虚孔を作用させ式占八卦の東、西には朱雀、北はトウテツ、南には易、下は賀茂式 相互干渉 呪詛方程式を組成し、龍脈から流れ込む3の16乗数値で 大善の残した占事の基本構造は 形代二つを遣っての 夜叉級の邪鬼に対しては反転詠唱を用いた礼装 猟火の隠滅封、星領符 仕様上回数は89回の 2回の45回、上記以上の再修復を要する場合は2階層級以上の法師または3階層級以上の
〝陰陽師〟による修復を――――――――――』
聞き覚えのない単語の羅列が頭の中で爆発した。
「うあぁっ!」
思わず朔也は頭を押さえてスノコの上を後ずさり、トイレのスリッパを蹴散らしてタイルの上にしりもちをつく。
「いっててて……、っ! おい、皆城町、さんっ!?」
指で押さえた顔の隙間からそちらを見ると、トイレの入り口に十々莉が完全に意識を失って前のめりに倒れている。
「ほ、保健室にっ」
朔也はまだ軽くふらつく足に鞭を打ち、手袋をはめて十々莉の軽い身体を担ぎ上げ、おぶって保健室まで走り出す。
走っている最中に考えたことは、『小さい身体とはいえ軽すぎないか?』ということと。
『なぜ〝左手〟が彼女に反応したのだろう?』ということだった。
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「ん……」
十々莉が目を覚ますとそこは白い世界だった。
見上げる天井。自分が寝ているシーツ。横を見れば、開け放たれた窓から吹き込む風がベッドとベッドを仕切る薄手のカーテンをなびかせている。
その中で唯一、枕元の椅子に座る少年だけは違っていた。
「気が付いたか? よかったぁ……、あやうく人を殺したかと思った……」
朔也はふぅぅぅと張り詰めていた緊張を吐き出してパイプ椅子にぐったりともたれかかる。十々莉は不思議そうな顔で首だけを朔也の方へ動かした。
「あ……れ? 私、なんで」
「さ、さぁ? あんた男子トイレのドアを間違って開けただろ? そのショックで貧血でも起こしたんじゃないのか?」
白々しい声色で朔也がそっぽを向きながら言うが、十々莉はそれを見逃さなかった。眉間にしわを寄せ、
「――嘘。あなた、私に何かしたでしょ」
「何おっかないこと言ってんだよ。あんな一瞬で何ができるっていうんだ」
「……〝読んだ〟」
その単語に朔也は肩を震わせた。
「一瞬で私の"中身"を読んだ……そうでしょ?」
十々莉がベッドから起き上がる。朔也は怖くなって椅子から立ち上がり、急いで逃げようとした――が。
カーテンに触れた途端、高圧電流がスパークするような音と一緒に朔也の右手に激痛が走った。
「痛っ!! なんだこれ!?」
「逃げようとしても無駄よ。その左手、なんで手袋してるの?」
左手と言われて、朔也は左手をかばうように後ろ手に回す。どうするべきか。
目の前にいるのは得体の知れない化け物かもしれない。引いては今回の元凶の可能性もある。
意を決し、朔也はふてぶてしい笑みを浮かべて、言った。
「……あんたこそ一体何者だよ。『陰陽師』か何かか?」
さっき〝読んだ〟内容の中で一番引っかかった単語を上げる。
今度は十々莉が反応を示した。ただでさえ鋭い眼を鷹のように吊り上げる。
「ESP、サイコメトリーか何かかしら? けれどあれは物や人や環境から残留思念を読み取るもののはず。情報そのものを盗んで自分の頭に『焼き付ける』なんて能力、聞いたことがないけれど」
「……あいにくだけど、オレにもこの左手のことは説明しかねるんでね。ただ、オレはこれを読解って呼んでる。じゃあオレも一つ質問するぞ」
十々莉は鋭い睥睨のまま肯定の無言を保つ。
朔也は深呼吸を一つうち、
「オ、オレのこの読解は素手で『本』に触ったときにしか反応しない。つまり〝人間〟に反応した試しはないんだよ。――あんたは何者だ? 〝人間〟か? それと今回の吸血鬼騒ぎ……あんたは関係してるのか!?」
「質問が二つになってるわよ」
「答えろっ!!」
自分でもびっくりするくらい腹の底から声が出る。肌がピリピリと粟立ち、横でなびいているはずのカーテンの音が朔也の耳から消えていた。
必死の形相を浮かべる朔也を横目に数秒置いたあと、十々莉は目を瞑ってため息を吐いた。まるで検討違いだった、とでも言うように。
「……前半はノー。後半は、半分イエスってとこかしら」
「どういうことだ……?」
十々莉は深くベッドに身体を沈めて、
「まず前半から。私は陰陽師なんかじゃない。昔の陰陽師に造られた『式盤の守護神』……つまり、あなたたちで言うところの〝式神〟ってやつね」
「式神……だぁ? そんな話が……」
「別に信じなくてもいいわよ。質問されたから答えてるだけ、信頼は求めてないから」
式神というと、陰陽師が使役する使い魔のようなアレだろうか。詳しくは知らない朔也でもイメージは付く。
「後半。多分、あなたが思っているらしい事件の元凶は私じゃない。けれど決して無関係じゃない。私は、この街の『守護』を任じられた式神なの」
「……本当に守護神ってことか?」
「平たく言えばね。この街でなんらかの有害な魔力、霊力、呪力その他の特殊磁場の発生を感知すると自動的に封印が解かれるようになっていたわけ」
「昔に作られた割にはペラペラとよくしゃべるじゃねーか」
「そりゃね。常に『概念吸収』のアンテナを立ててるから。今時の式神はトレンドに乗り遅れないように、ヤングでナウでホットな情報を採取するので忙しいのよ」
「ビミョーに乗り遅れてないか……それ」
なんだかそんなに構えるのも馬鹿馬鹿しくなり、朔也は再びパイプ椅子に腰を下ろした。
しかし、これが式神と言われても。
まったくもって普通の、ベッドで丸まっているかわいい女の子にしか見えない。けれどこの左手が読み取った内容――あれは確かに『本』ないし『紙』から読み取った感触があった。
式神というと紙で作られている印象がある。おそらくそれに準ずる身体をしているのだろう。そして、十々莉が言っていることが本当なら、朔也にとってこれだけ心強い話はない。
「……だったら頼む。俺の幼なじみが――この左手のことを気味悪がらずに『素敵だね』って言ってくれたたった一人の女の子が、今苦しんでるんだ。どうしても助けてやりたい。お願いだ、一緒に原因を探ってくれ!」
「当たり前でしょ!」
てっきり、少しは拒否されるかと思ったばかりにその大声には驚いた。
目をぱちくりさせる朔也を上目遣いで見ながら、十々莉は口元まで布団を引っ張り、顔を赤くしていた。
「責任、とってよね。その……私の中身を勝手に読んじゃったんだから」
「……えっ、それって……、そんなに恥ずかしいこと?」
瞬間、朔也の顔に枕がめり込んだ。
「体中を中から読まれてるのよ!?
恥ずかしいに決まってるでしょうがっ、馬鹿――――!!」
複雑な式神事情の心境がよく理解できない朔也だった。
⬜︎⬛︎⬜︎⬛︎⬜︎
自称式神だという少女と放課後の行動を一緒にして3日が経った頃。
朔也と十々莉は例の『天使』の目撃情報があったという、とある雑居ビル裏の路地へと向かって歩道を歩いていた。
「くしゅん」
「……おい。大丈夫か? さっきからくしゃみばっかしてるぞ」
ずびびぃ、と洟をすする音が後ろのピンク色の傘の下から聞こえてくる。
時刻は18時。天候は雨。日の少し短くなった10月の空は、厚い墨色の積雲に遮られて、高層ビルの立ち並ぶ星領市に鬱屈とした翳りを落としていた。
帰宅ラッシュで車線も歩道も車と人でごった返す中、しとしとと雨まで降ってきている。歩道には道行く人たちの色とりどりの傘が花のように咲き乱れていた。
「ずずっ。んん、大丈夫ぅぅ」
「お前、なんかいつもと大分違うな。体調悪いのか?」
「う~ん。私ってほらぁ、紙で出来てるじゃない。湿気が多くても別に身体に異常はないんだけどぉ~……気分がなんかふやけちゃうのよねぇぇ~」
声にいつもの張りが無い。朔也は自分の肩ほどまでしかない十々莉を振り返ると、自分の着ていた黒いファー付きのコートをたたんで差し出した。
「ほら。少しはマシになるだろ」
「……あ、ありがと」
意外にもすんなりとそれを受け取って羽織る。ここ2、3日の付き合いで分かったことだが、クラスでの第一声とは大きく異なり、性格は意外と素直らしい。
着終えると、十々莉は黒銀の長い前髪の下からジト目で朔也を見上げた。
「…………」
「な、なんだよ」
「女の子にモテないからって、式神のポイントなんか稼いでどうする気よ」
「うっせぇ! 100円ライターで燃やしてやろうか!?」
むしろ本気で戦ったら消し炭にされるのは朔也の方であろうことはさておき、朔也はひとつ思い出したことを訊いてみた。
「つーかお前……なんでウチの学校に入学してきたんだよ。フリーの方が探索はスムーズに行くんじゃないか?」
「今までで倒れた8人中、4人が星領中学生だったからそうしただけよ。まぁ、無駄足だったみたいだけど」
「なるほど。――あ、もう一つ。あの時なんでお前は倒れちまったんだ?」
「あの時ぃ?」
「〝読んだ〟時だよ」
ああ、あれね、と言いつつ、鼻水をすすって鼻下をこする。ちょっと赤くなってきている。
「あんた、その左手を使うと疲れるでしょ? 頭に数万文字がほぼ同時に入ってくるわけだし」
「まぁ……クラクラするな」
「それと同じで〝読まれる方〟もそれ相応に疲れるの。本に喩えるならこう、全部のページを乱暴にバラララーー、ってされるみたいにね。走馬灯みたいな感じ、かな」
「ふぅん。そりゃまぁ、本にお前みたいな意識があったらの話だよな――ってオイ! 人のコートの裾で鼻水を拭うな!! ティッシュを使えーーッ!!」
とどめに「へっくし!」と鼻水をコートに爆散させた十々莉だった。
⬜︎⬛︎⬜︎⬛︎⬜︎
「う~ん、やっぱり『質』から言って陰陽師じゃないわねぇ……西洋の魔術師って感じかしら。分からないぃぃぃ」
頭を落ち着き無くかき乱しつつ、さっきから同じ路地をぐるぐると回る十々莉に朔也は目を細めた。
「魔術師って……本格的にアニメじゃねえか……」
と、その呟きに十々莉は足を止めて朔也を睨む。
「確かに一般人からしたらアニメみたいな話をしてるんだろうけどさ――あんたのその左手も、私から見たら相当アニメしてるよ?」
ぴくりと、傘を持つ手とは反対にポケットに突っ込んでいた黒い左手を揺らした。
「なんでだよ。お前らの世界からしたらこんなもんどうってことないだろ」
「大アリよ。私は確かに式神で10×10層、合計1万枚前後の陰陽術式を書いた護符から身体が造られているけど、そのすべてが外部に漏れ出さないために複雑な非言語暗号で構成されているの。あなたはそれを読んだ――つまり、あなたの左手の前ではどんな高度な暗号も、この世から消えてしまった言語でさえも〝遮断〟の意味を為さない。絶対的に、そこに記された『情報』だけを汲み取ることができるの。世界中の考古学者がこぞって欲しがる左手よ。読解というよりむしろ、模倣や侵食に近いわ」
「はいはい。オレはそんな大層なものに人生を苦しめられてきたわけ、だ」
ほぼ自動的に、手に取った本すべての内容を一瞬で把握してしまう異能。
生まれつき備わっていたこの力のおかげで、読書とはほぼ無縁の人生を送ってきた。いつしか周りから気味悪がられはじめ、敬遠され、「ひどい火傷を負った」と嘘をついて手袋を付け始めたのは小学5年生の頃だ。
当初はとある天然文学少女に怒られたものだ。「そんな素敵な手を持ってるのに、なんで使うのをやめちゃうの!?」と。
(紫音……、くそっ)
苛立ちが左手の指を締めさせる。意図しないうちに、奥歯が軋んだ音を上げた。
「大切な人なのね」
はっと顔を上げると、十々莉が口の端を少し持ち上げてこちらを見ている。
そして、
「朔也。やっぱりあんたは私と動くのをやめた方がいい」
「は……なんでだ?」
その問いの答えを返さないまま、十々莉は路地を後にしようとする。
「お、おい」
「私と関わってると、あなたも危険に巻き込む可能性が高い。特に、今分かった海外の魔術師なんかとの術戦の記録なんて私にはないから、不測の事態が起こるかもしれない。ああ、安心して。私が消し炭にされたら〝機関〟の陰陽師がそれを察知して援護に来るから。どのみちその子は帰ってくるわ」
「おいっ、待っ……」
と、追おうとしたが足が縫い付けられてしまったように一歩も動かない。上半身だけをひねって後ろを向くと、後ろに伸びる自分の影に、紙でできた白い針が突き立てられていた。
「考えて見なさい」
十々莉は振り返らないまま言う。
「もしその子が帰ってきた時、あんたがそこにいなかったら。
あんたは――今の自分と同じ苦しみを彼女にも味あわせる気なの?」
「……っ!」
朔也は言葉を失った。
たしかにその通りかもしれない。
今の自分のこのつらさを紫音に負わせてしまうかもしれない。いや、違う。温厚なあいつのことだ。多分、自分以上に気負ったりしてしまうだろう。ましてや自分を助けようとしてたことなんて知ったら……。
「はい、返す」
と、十々莉は来ていたコートをたたんで朔也に差し出す。
しぶしぶ受け取った矢先、朔也は叫んだ。
「ふ……っざけんなよっ!! 自分からオレを巻き込んどいて、やっぱりお役御免だなんてひでえ話を勝手に1人で進めてんじゃねえぞ!! おかしいだろ! 最後まで付き合わせ――」
「――何が悪いか分かってないようだからハッキリ言っとくけど」
有無を言わせぬ語気で十々莉は振り返ると、
「あなたが弱いからいけないのよ?」
動かしようも無い現実を告げた。
「…………な」
今度こそ朔也は打ちのめされた。それは、それだけは返しようも無い事実だ。
どれだけ粋がったところで自分は――目の前にいる、自分の肩ほどまでの背丈しかない小さな非現実にさえ届かない。及びもしない。一人で紫音を助けられるほどの力は、ない。
自分にあるのは、ただ本を一瞬で読む程度の力。それだけだ。
もう、左手を握り締める力も出なかった。
「でも、嬉しかったよ」
わずかな同情を含んだ声。
「人間じゃない、ただの迎撃の兵器の私に優しくしてくれて嬉しかった。全部終わったら、眠る前にもう一度くらいあんたに会いにくるかも。その時は――笑って許してね」
それだけ告げて、ピンクの傘をさした少女の姿はごくごく自然と、街角に消えた。
「人間じゃねえって……」
朔也は雨足が強まる路地の中で、返されたコートをただ握り締め、
「こんなに熱が残ってるコートを着てたやつが人間じゃないって……信じられるわけないだろっ!!」
⬜︎⬛︎⬜︎⬛︎⬜︎
結局、あれから一時間近くその場を動くことができなかった。
朔也の影を縫っていた十々莉の紙製針が雨でダメになるまでそれほどの時間がかかったということもあるが、色々と考えがまとまるまでにも同じくらいの時間がかかった。
(……別にあいつがオレと離れたからってやることは変わらない)
雨上がり、19時の暗い街。
傘をたたんで手に提げて、朔也は1人で次に心当たりのある場所へと向かっていた。
紫音の家だ。前日は紫音と一緒に家まで帰ったのだ。ということは〝何か〟があったのは自分と紫音が別れて紫音が家に帰るまでの道の途中か、家自体。
ならばその『赤い蛍』やら『天使』やら、ひいては『魔術師』とやらが紫音の家の近くに痕跡を残した可能性はある。
(あいつが悲しむだの、オレが弱いだの、つまらねえごたくを並べるのはナシだ)
十々莉のそんな言葉を頼って引き下がるのは逃げる口実に過ぎない、と自分に言い聞かせるが、しかし。
(――でも、どっちも正しい。どうすりゃいいんだよ。畜生!)
住宅の壁が迷路のように前後左右に展開している道路の上、転がっていた空き缶を思い切り蹴り飛ばす。がらんどうな音を立てながら空き缶は壁に跳ね返って壁際に転がった。
それからも色々と考えながら紫音の家を目指したが。
異様な気配を感じ、朔也は弾いたように沈んでいた顔を上げた。
「なんだ……、これ」
この住宅地、普通に歩けば5分くらいで抜けられる場所だ。
一体さっきから何十分歩いている?
しかも、
「あれって、さっき蹴った缶だよな……」
見覚えのある壁の色。その下には見覚えのある窪みのできた空き缶。
背筋を冷たい手で撫でられた気がした。
急いで辺りを見回す。確かに学校からの帰路に使う道に間違いはない。
しかし、もう19時。夜の7時を回っていて辺りは真っ暗だ。なのに、〝どの家〟の窓にも明かりが灯っていない。
今、朔也の視界を確保しているのは傍らの電柱の小さな蛍光灯だけだった。
「おいおい、マジかよこれ!」
暗澹と静まる家の群れは、閑静を通り越して不気味の域だ。
と、その時だった。
ふわり、ふわりと。
見通す夜の向こうに。
〝明滅する赤い小さな光〟が、空中に漂っているのが見えたのだ。
「……っ!」
瞬間、朔也は手から傘を放り投げ、駆け出していた。
〝赤い蛍〟――!!
ただの都市伝説か見極めなければいけない。
その一心で光がふらふらと消えていった角を曲がると、そこは。
「なっ、んだ、こりゃ……!」
家がちょうど一軒建つような、草の生い茂る空き地があった。
そこを中心におびただしい数の赤い小さな光が蛍のように明滅しながら飛び回っており、空き地の真ん中には――
それを従えるかのように悠然と、白い人間が淡い光をまといながら立っていた。
幻想的な風景だ。まるで心奪われるかのような。合わせてどこかから、ツンと脳髄をしびれさせる甘い香りが流れてきた。
ぼうっと頭の中がかすむ。そこで頭を振って、そこに立つ人間を直視できたのは、他ならぬ〝朔也〟だったからだろう。
朔也は身構えながら空き地に向かってゆっくりと、路面の砂利を踏みしめた。
「天使様、なんて柄じゃねえな……アンタ」
ぴくり、と白い人間が反応する。そしてその長い金髪に隠れた口元に、凶暴な笑みを宿した。
「――ほう。僕の姿を見て『躁宴の香』にかからなかったのは、君がこの街で初めてだよ。失礼だねえ。一体、初対面の僕にどれだけの〝敵意〟を持ってるっていうんだい?」
よくよく見れば、その男は天使などではなかった。
教会の外套に近い形状をしていた服は、白い豪奢なコートと結婚式で使うような白銀のスラックス。朔也よりもわずかに背が高く、絹糸を金に染め上げたかのような鮮やかで長いブランドが、夜気を含んだ風に揺られていた。
長い手足に、着ている服にも劣らない病的な白さを醸す顔の色。
蒼い瞳はどこか魔的な――深海の底で眠っている宝石を人間の目に当てはめたかのような不自然ささえうかがわせる色をしていた。
ふいに、朔也のすぐそばに例の『蛍』のひとつがふらふらと近づいてくる。
引っ掴んで握り締め、手を開く。するとそこにあったのは、
「紙切れか……? これ」
アルファベッドで『F』とだけ書かれた、指先ほどの大きさの『紙』だった。
「お前……一体」
「僕かい? 僕はねぇ
魔術師、或いは騎士だ」
「うお!?」
峻烈な突風が朔也を吹き抜けていったのはその瞬間だった。
思わず両手で顔を塞ぐ。そして収まったのを確認して前を向き直るが――そこに魔術師の姿は無く、
「魔術結社、と俗世では言うらしい」
「っ! 後ろかっ」
声がした背後を慌てて振り返ると。
「そう。後ろだね」
さらにその〝背後〟に魔術師の気配が立っていた。
――格が違う。遊んでやがる……!
朔也はそのまま冷や汗で額を湿らせながら硬直する。
「僕はその一つ、終結騎士団という一派の一員なんだ。ウチはもうあらかた他の裏組織というのも吸収し終えてだね、そろそろ日本へも食指を伸ばさなきゃって感じなんだけど……どうも日本には厄介な現地民どもが巣食っているんだ」
「……まさか、それが」
「そう。陰陽師っていう実に鬱陶しい連中がさ」
ニィッ、と口元を歪める気配がした。
「それとこの街と、なんの関係があるっていうんだよ……! この街には陰陽師なんていないんだろ? 用がないならさっさと出て行きやがれ……!!」
「ふぅむ。愚かなほど無知だね、少年」
魔術師は踵を返し、蛍――否、ルーンの護符が思い思いに浮遊する空き地へと歩む。
「ここ、星領という地は日本中の龍脈、つまり『気』の通り道が結集している、隠れたパワースポットなんだよ。あ、ちなみにパワースポットって和製英語なんだけどね。ここの気を狂わせれば日本中にわずかながら歪みが生じる。その混乱に乗じてこの国の裏を攻め落とす、というわけさ。まぁ、僕の独断なんだがね。どうにも組織の中には同志がいなかった」
意気揚々と語る様は、朔也の持っている『魔術師』のイメージとはかけ離れている。
「ああごめん。僕ばかりしゃべっても退屈だろうからさ、一つ聞くけど……」
と、魔術師は肩越しに殺意と好奇を込めた視線をこちらに据えた。
「キミこそ一体、何者なワケ? なんであの〝現世最強〟なんて肩書きの、作者不詳の式神の横に並んで立っていたのか、非常に興味があるんだけど」
十々莉の別れ際の笑顔が浮かぶ。
(あいつが……現世最強!? しかも作者不詳って……)
なにやら計り知れないスケールの話だ。
こいつといいあいつといい、いい加減にしてもらいたい。
そう、別にどこの転校生が式神だろうと、目の前の男が魔術師だろうと。
はっきり言って知ったことじゃない。
しまいには日本を攻略しようとしてる組織だとか、さっきまで一緒に居た女の子が現世最強だとか。
もうそういうのはいい。自分を除いて、他所でやってもらうことにしよう。
本題に入らせてもらう。
手袋の下で汗ばんだ左手を――強く握った。
「ごちゃごちゃとやかましいんだよ、てめぇ……! オレが何者かって? ――何者でもねえよ。ただの通行人Aだ」
朔也は振り返る。
その目には、黒く鋭い光が灯っていた。
「でもなぁ……このまま通行人Aのまま終わる気はねえ」
「はぁ?」
「てめえをぶっ倒して、
ケリをつけて、
ただの〝一般人A〟に戻ってやるって言ってるんだよ!!」
ブラウンの髪が風を切る。
そして乾坤一擲、右の拳を投じるように魔術師の頭部に向かって振り出す、
が。
「Ciel―Sierra」
わずか一言。白い魔術師がそう呟いただけで、闇に沈んだ住宅街の路地に台風クラスの風が駆け抜けた。
朔也の身体がぶわりと舞い、10メートル吹き飛んで電柱に身体をぶつける。
「ぎっぁ……!!」
「心配しなくてもさぁ、充分キミは誰でもない、ただの〝一般人A〟だよ。だからそんな普通なキミが何故あの式神と組んで僕に殴りかかってくるのか解せない。何か僕が恨まれるようなことをしたかね?」
「……5日前……!」
もろに打ち付けた左腕を押さえてうずくまりつつ、朔也が白い人間を見据える。
「5日前、オレンジ髪の女を吸血鬼にしたのはてめえだろ……!?」
「……はて、5日前……、ああっ、あれね。あの子か、」
「――彼女か。おいしい唇だったよ、とても」
下卑た舌なめずりが聞こえた。
「野郎ォ………ッッ!」
刹那、左腕の痛みが消し飛んだ。
もう一度魔術師に肉薄し、もう一度愚直にストレートともフックとも取れないパンチを繰り出す。
今度は風を呼ぶこともなく、魔術師はそれを首をひねって交わした。
空を切った拳につられて身体が前のめりに転がる。砂の味が口の中に入り、頬に擦り傷ができる感触があった。
「……まぁ落ち着けよ。あの術、『ドラキュラの接吻』は知っての通り、簡易的な吸血衝動を高めるだけの術だ。しかし僕を倒したところで決して解けるものではない。僕がしっかりと解呪の手順を踏まなければ、この先、ああなってしまった人たちがどうなるかは僕にも想像がつかない。そこで交渉だ」
魔術師は余裕の笑みを浮かべ、倒れた朔也の頭元に屈んだ。
「取引をしよう、少年。そもそもあの術も、厄介な式神をおびき出す巻き餌でしかなかった。事が済んだら解いてから去るつもりだったよ。立つ鳥跡を濁さずの精神さ。
――手を組まないか?
キミが言って、あの式神をおびき出すんだ。
別に裏の権力抗争なんて誰が実権を握ろうが、キミには死ぬまで関係のないことだ。実生活にも支障はない。協力すれば明日にでもキミの大切な人は帰ってくる。お互いスマートな取引、相互利益で終幕を飾ろうじゃないか!」
鷹揚な響きで魔術師は諭す。天使というよりもむしろ、悪魔のような甘言で。
(紫音が……帰ってくる)
朔也は地を舐めながら逡巡する。
紫音が帰って来ればそれでいい。こいつの言うとおり、関わるどころか単語の意味を聞くのもめんどくさくなるような裏世界の事情なんて知ったこっちゃないんだ。なら、さっさとあいつに嘘をついてこいつに売れば、そうすれば――
(そうすれば……、〝あいつ〟はどうなる?)
この魔術師とやらに殺されるのだろうか。そもそも人間じゃない。壊される、という方が正しい。
けれど、だけど。
紫音があんな目をするのと同じように、
今度はあの式神――いや、〝十々莉〟が苦しむのなんてまっぴらごめんだ。
そんなことをしてまで紫音を救えたとしても、オレは一生、その罪悪感に縛られながら生きていかなきゃいけない。
他にどんな汚名をかぶろうがどうでもいい、でも!
(あいつは式神としての誇りを持って動いてる。
自分を創ったヤツが分からなくても、自分が何者なのか本当は分からなくても。
ならオレも、
自分が誰でもなかろうと、
〝人〟を貫かなきゃ嘘だ――!!)
「答えは出たかな、吸血鬼少女の騎士くん」
「ああ……」
朧な返事をしながら左手をぶら下げて立ち上がる。右手で頬の傷を拭い、朔也は目を見開いた。
「オレにはどっちか一方を取ることなんてできねえ……。ただ一つ、言えることがあるとしたら――」
「てめえは何万回ぶん殴っても殴りたらねえド外道ってことだ!!!!!!」
「――――その通りだ!」
と、その声と同時に。
どこかからパリィイン、とガラスの塊が割れ落ちたような音が響き、上から魔術師に向けて例の白い紙針が3本ほど飛来する。
魔術師が「ちっ」と舌打ちをしながらコートの裾を払うと、何か鉄の壁に金属がぶつかったような音がして針が弾け飛んだ。
そして、朔也の後方に何かが静かに着地する音が聞こえた。
「私の目も100年近くの夢の見過ぎで悪くなってたみたい。こんな勇者さんを弱者呼ばわりするなんて、情けないわ」
「……十々莉っ!」
上半身だけをひねってそちらを向くと、見慣れた制服に身を包んだ黒銀の髪の彼女が電柱の上に降り立っていた。
凛と天高く咲く月を背に立ち、足元に赤い蛍を従えている様はまるで伝奇小説の挿絵の一場面のように妖艶で、不気味で――何より、綺麗だった。
「……初めまして。十二神将の後継器、十二星将の第壱十号・十々莉」
「そんな仰々しい挨拶はどうでもいいの。今すぐにここから立ち去りなさい。あなたはさっさと気付くべきよ。あなたが踏んでいるその土、その意味を。そこは〝私〟の許可を得ずに立っていい場所じゃないの」
音さえしないが、轟、と十々莉の『気』が高まっていくのが朔也には分かった。
これが式神――今言われて初めて納得できる。人間に出せる〝威圧感〟じゃない。
と、魔術師もそれを直感したのか、すぐさま動いた。
「Ciel...」
「させない」
瞬間、二閃。十々莉の手から放たれた呪符が弾丸のように炎の尾を引いて夜気を引き裂いて魔術師に滑空した。
「Sierra!!」
と、爆風が巻き起こるとともに、炎の矢を魔術師は空に飛んで回避。
そしてさっきとは違い、極限まで凝縮された大気の刃が十々莉に襲いかかり。
十々莉の右半身が、ざっくりと裂けた。
「……っ!!」
朔也が目を見開く。
右腕と右肩とわき腹が一緒になった不気味な塊が路面に転がる。しかし、血は流れていない。
「二度も警告はしないわ。ケガをしたくなかったら早くそのまま空に帰りなさい」
十々莉はそのまま滞空している魔術師を見上げて言う。
すると、斬り飛んだ身体が微細な〝紙〟に変化し、ふたたび十々莉の身体に結集していく。5秒数えるときには元の身体に戻っていた。
「さすがだねえ。でもあいにくだが帰りはしないよ。――キミこそ僕にいかにも帰ってもらいたそうだね。ま、そんな一般人をかかえてちゃあキミも分が悪いのかな?」
ニィ、と白い歯をむき出しに魔術師が嗤う。十々莉は無言で空を睨んだ。
そこから少しの間の凄まじい術戦闘を朔也は覚えていない。
風が薙ぎ、電撃が迸り、炎が渦巻いて氷が爆ぜた。
ただ、火を見るより明らかだったのは、十々莉が必死に逃げ惑う自分をフォローしながら戦っていたことだ。
それが顕著に出たのは、魔術師の撒いた炎に十々莉が飲み込まれたときだ。
――自分を突き飛ばして、身代わりになって。
「十々莉っ!!」
「心配いらないわ……十層脱呪ッ」
唱える間に、全身が焼け焦げた十々莉の身体の表面が〝脱皮〟した。
何百枚という数の焼けた護符が辺りに散乱する。しかし、一回り小さくなった十々莉の身体には、まだ焼けた箇所が残っていた。
「炎の名は溶鉱の浄化炎。侵食虚数を盛り込んだ毒炎だ。さすがに炎には弱いと見える。数値は僕のオリジナルブレンドでね。既存の解呪じゃあ拭いきれないと思うけど」
「ちぃっ」
と、懐から取り出した護符を地面に投げつける。
煙玉でも炸裂させたように白煙が上がり、濃霧のごとく一面が一瞬で覆われた。
「あらら……もう建て直しに入るのか。あっちの魔術師と違ってプライドが高くないっていうのはこういうときに厄介だよね。でも、」
霧に飲まれながら、空から見下ろす魔術師は笑みを浮かべた。
「今のでチェックメイトだ」
⬜︎⬛︎⬜︎⬛︎⬜︎
「はぁっ……はぁ……」
肩で息をする十々莉を壁際に座らせ、朔也は無力感を噛み締めていた。
「わりぃ……謝っても謝りきれねえ、オレがこんなとこにいるばっかりに」
「……いえ。私も悪いの。封印が解けてまだ5日目……全盛期の4割くらいしか力が出てないから」
「なっ、万全じゃないならそう言えよ! 馬鹿じゃねえか!?」
「私だって、私だってまだ交戦は避けたかったわよ! でも――」
「でも?」
「あんたが……あんなこと言うから。いてもたっても、いられ、なくて」
「あんなこと?」
「……その、どっちか一方を取るなんて、ってやつ」
「あ、」
なるほど分かった。
要するに、『十々莉を売るなんてできない』という自分の言動に感極まった勢いで参戦してしまったらしい。
どこまで、本当にこいつはどこまで、
「――どこまで〝お人好し〟な式神だよ、お前は」
「当たり前じゃない。私の親は〝人〟だもの……」
そうだ。やっぱりこいつは〝人間〟だ。ただの式神――迎撃の兵器なんかじゃない。人のためを考えたり、自分の感情でミスをする、普通な人間なんだ。
白煙の中、朔也は笑った。
十々莉も、笑った。
〝2人〟やっと分かり合えたかのように。
「ケリをつけるわ」
そしていつもの憮然とした響きの声で言いながら、式神は立ち上がる。
「切り札はある。星領走地式……大御神の牢。この街自体を方陣として使う、私だけの最後の術」
「……おい。お前は大丈夫なのかよ。今そんなもん使って」
朔也が心配するのも当たり前だった。今なお、さっき食らった炎の黒こげが、十々莉のわき腹の辺りから全身に広がりつつある。長く伸びた一筋が十々莉の右ほおまで登ってきていた。
「どうなるか分からない。でも、これ以上『脱呪』したら霊力が足りなくなる。侵食も早いから時間もないわ。塵も残さない!」
「待てよ! それじゃあ困る! 吸血鬼の魔術はあいつしか解き方を知らないんだ! なんとかお前も、あいつも死なないようにセーブはできないのか!?」
「……無理ね。起動させてしまえばあとは自動的に私の霊力を吸い上げて発動するわ。でも、これしか方法が……」
くっ、と十々莉は歯を噛んだ。朔也には分かっている。十々莉は自分に、紫音が帰って来てからのことを説いてくれた。
苦渋の決断に他ならない。
(……くそっ。そんなのアリかよ! どっちも選べないって言った矢先にオレはどっちも失っちまうのかよ!)
――そんなの絶対に嫌だ。でも、
何もない。何もできない。
読解だけが取り柄の一般人には何もしようがない。歯がゆさのあまり、左の拳を握り締め、電柱に叩きつけようとした、その時。
昼間の十々莉の言葉と、自分の左手が重なった。
「なぁ……お前、昼に言ったあれって本当か?」
「なにが?」
「お前の身体の護符は非言語なんちゃらっていうクソ難解な暗号で出来てて、オレの左手はその暗号を関係なしに読み込んだ、ってやつだ」
「何よいまさら……嘘ついてどうするのよ」
言下に朔也は笑った。
そして、
「オレの予想が正しければイケるはずだ。いや、絶対やってやる――! 十々莉、耳かせ。んで、先に謝っとくぞ。
この計画、お前じゃなくてオレが最高にかっこいい主人公になるプランだ」
⬜︎⬛︎⬜︎⬛︎⬜︎
「……作戦タイムは終了かな?」
勝利を確信し、魔術師は浮遊をやめていた。
足元に置かれたドライアイス程度まで煙が晴れた住宅街の一角。
そこにはすでに、ほぼ全身にまで黒い侵食が回った十々莉が立っていた。
朔也の姿はない。
「少年を逃がしたか。妥当な判断だが……勝負、アリじゃないか? そんなに回ってたらご自慢の結界方陣も使えないだろう?」
「いいえ。それでもあなたに勝つ方法はある」
「勝つ、ねえ。僕をぶっ殺したら、キミは外敵を退けた英雄であると同時に、8人の民を見放した暴君だ。ナンセンスだろう? いい加減やられてくれ」
「愚問ッ!」
覇気を込め、黒い手を払って3枚の霊符を地面に叩きつける。
紫電の尾が魔術師に奔り、取り付こうとするが、
「ずいぶん弱ってるな。クシャスラの反発だけで弾ける」
魔術師の言うとおり、纏っていた炎に当たっただけで3つの雷は行き場を失って消滅した。
そのときだ。
「――――おおおおおおおぉぉぉぉおぉぉおおおッ!!」
塀の角から飛び出し、魔術師のすぐ後ろから朔也が猛然と肉薄する。
鉄拳が握られた左手には手袋はない。
「何っ!?」
⬜︎⬛︎⬜︎⬛︎⬜︎
その作戦を聞かされた十々莉は唖然とした。今まで気付かなかったのが不思議だったからだ。
「確かに危険だけど、それしかなさそうね。けど、それこそあなたは大丈夫なの!? 下手をしたら脳が壊れて廃人になりかねないわよ!?」
「心配すんなって。こちとら、小さい頃から勉強は全部これでまかなってるんだ。いまさら他人の人生一個分くらい〝読んだ〟ところでどうにもなりゃしねえよ」
「本気なのね……。分かった。援護するわ」
「ああ。できる。やってやるさ……! あらゆる言語、あらゆる暗号を無視して『情報』だけを読み取れる左手なら――」
「たぶん〝電気信号〟っていう暗号で構成されてる人間の頭の中も読み取れるはずだ。読み方の感覚を変えてやってみる!」
⬜︎⬛︎⬜︎⬛︎⬜︎
「言ったろうが! てめえをぶん殴らなきゃ気が済まねえってなァ――――!!」
完全に意表を衝かれ、目を見開く魔術師――に見えたが。
見開いた目はあまりにしょうもない寸劇に付き合わされたことに対する怒りに染まっていた。
「…………糞があああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
業ッ!! と傍らの焔が唸り、
「――うわぁあああああああ!!」
瞬く間に朔也の身体は炎に包まれ、ぶすぶすと焼けすえた臭いを放って真っ黒になる。火達磨とは、まさにそのことを言うのだろう。
「はっ、は、ははははっはははっは! 何かと思えば一矢報いるための悪あがきかい!? やっべぇ、マジ笑うわ!! あっははははは――!?」
と、魔術師はその〝臭い〟に凍りつく。
それは人体が焼ける臭いではなく、
〝紙〟が焼ける臭いだったからだ。
「はっ!?」
後ろを振り返ると、そこには焼け落ちた紙の――十々莉が朔也を似せて使役した〝式神〟の残滓。
そしてその背後には、塀の上から下界の獲物を狙う鷹のごとく目を尖らせる朔也の姿。
「わりぃな。前言撤回するわ」
「あっ、かっ!! クっ、浄化炎ッ!!!!」
「1万回殴る代わりに――てめえの頭ん中、1万回分〝読ませて〟もらうぞッ!」
塀を足で弾いて飛びかかり左手を伸ばす。
炎熱の防壁が展開されるが、広がりが遅い。
朔也の左手に痛みが走る。火傷というレベルではない。皮膚が溶けている。
「っるぁあああああああああああああああ!!」
熱くなっていく手とは裏腹に背筋に冷や汗が噴き出していく。いち早く身体は頭以上に異変に気が付いているらしい。
けれど伸ばす手は曲げない。貫き、ひたすらに貫き、そして――
貫いた。
「がァっ! は、なせッ! 何をする気だ!!」
「――読まれる方も相当疲れるらしいな。
いいぜ、飽きても飽きても付き合ってやるよ。
お前の1万回分の人生にッッ!!!!」
瞬間、2人の頭の中に、
単純に換算して、22万年分の人間の記憶が炸裂した。
⬜︎⬛︎⬜︎⬛︎⬜︎
「という夢を見たのさ」
2年1組で話を聞いていた3人は、朔也の最後の一言でほっとした。
さながら琴線が切れるかのごとく一同は止めていた息を吐いた。
「~~~~~っはぁぁぁぁ!! 夢かよー! リアル……でもないけど、妙にリアリティある話だから入り込んじまったぜ!」
「お前、小説家の才能とかあるんじゃね? いやでも、そんな話を読むやついないか。今時ファンタジーだってそんなベタしねえわ!」
は、はは、はははーと一同は軽い笑いを放った。
「そりゃそうだろ。考えてみろ、魔術師(22・独身)の1万回、22万年分の記憶なんて読んだら頭ぶっこわれるっての!」
笑う朔也。そりゃそうかーと笑う3人。
その中には、控えめに笑うオレンジ色の髪をした少女の姿もあった。
⬜︎⬛︎⬜︎⬛︎⬜︎
「……ねえ。なんで話すの」
「いや……ギャグとしては一級品かと思いまして。でも、最後にちゃんと夢オチってつけたし、いいだろ別に!」
「いいわけないでしょーが馬鹿!」
屋上に荒ぶ秋風に、ごちん、と人間の頭が殴られる音が乗った。
――結局。
朔也が魔術師――本名はアンガロスという名前だったらしい――から抜き取った吸血鬼化の解呪方法は、街中に刻まれた666個のルーン文字の除去だった。
手間がかかるかと思いきや〝機関〟から派遣されてやってきた他の陰陽師の協力もあり、2日ですべて完了した。
驚くことに、その陰陽師たちの中には朔也と同じ年齢の者もいた。芦屋――なんとかという名前の狐のような少年だったが、これはどうでもいいことだ。
「で、なんであんたは無事なのよ。22万年も読んだんでしょ? 頭が100回以上爆発してもおかしくないし、〝読まれる〟方だったあっちも集中治療室行きだったのに」
「はぁ? ばっかやろう。いい加減なオレがそんなに律儀に『全部』読んでやるわけねーだろ。飛ばし読んだだけだ」
「えっ……全部『記録』するのがあんたの左手じゃないの」
「人間に限っては別らしいな。『生体』は全部を自動的に、とはいかないらしい。常に情報の書き換えが行われるし、根本的に記憶っていうのも『記録』より数段、曖昧なもんだし」
「なるほどね……」
「……つーかさ」
頭を掻きながら屋上の柵に寄りかかる。
見据えるのは目の前の、黒銀の少女。
「なんでお前、帰らないわけ? これが終わったら眠るって言ってただろ」
「……よくよく考えてみたら100年も寝てて、もう封印してくれる人もいないの。私を作った人も誰か分からないし術法も不明。お手上げ」
「なら家に帰って暇ぶっこいてろよニート式神。なんで学校に来るんだ」
「い、いいじゃない別にっ。それに、あんたのその左手……もし、その能力が更に〝進化〟すれば、私自身から欠落した『作者』の記憶も辿れるかもしれないしね」
「ふーん」
「ななっ、何よ」
「いや、そういう素直じゃねえとこもさ、」
「本当にただの〝人間〟らしいなって、そう思っただけだ」
詠み人知らずの式神と、読む少年の物語は、一旦これで幕を下ろすこととなる。