雪月
人の目は、信仰は、いつだって光ある方へ向く。
その代わりにできた影になど、誰も目を向けることはない。
ならば誰が、影たるあの方のことを知りえるだろう。
* * *
時は年の暮れも押し迫った師走。
人の世も神の世も、この時期が1年で最も慌ただしい。
冬真っ只中の江戸の空には灰色の雲が鎮座し、雪が絶えることなく降り続いていた。
街には人が溢れかえり、皆新年を清らかに迎えるべく白い息を冷え切った空へ吐き出しながら、降り積もる雪で足を鈍らせ時に転びつつ、此処彼処で休む暇なく走り回っている。
そんな人々の頭上を、慎重且つ慣れた足取りで飛び走る一人の少年の姿があった。
真っ白な世界には良く映える上から下まで暗い色彩で統一された服、というよりむしろ繋ぎ合わせた布に近い着物を身に纏い、所々破れかけた布の間から覗く手足は白くまたすらりと細い。
真っ黒な長い前髪は少年の目を隠し、頭と首に巻いた布きれで更に覆われているため表情は読み取ることが出来ないが、身長や体系から13、4歳程度だと知れた。
真冬にはそぐわぬ恰好をしているにも関わらず、そんなことは意にも返さない様子で少年は高下駄で屋根を蹴っていく。
その恰好と軽やかな身のこなしは何処か烏を思わせた。
やがて住宅の密集する地区を過ぎると足場となる屋根もまばらになってきたため、一旦屋根から降り今度は地面を蹴った。幾分減った人混みの合間を、足の運びを衰えさせることはせずに駆け抜ける。
江戸の街は、中央の江戸城を中心として武家屋敷の並ぶ地区、多くの店や長屋が立ち並び最も多く人の集まる商業地区、そして農村地区が同心円状に広がる構造になっている。
それぞれの地区の間には川が巡らされており、同じ江戸でも橋を渡るごとにその情景は大きく変わる。
正面に現れた商業地区と農村地区を繋ぐ木製の橋を渡りきると、少年の視界には華やかな江戸の街並ではなく、今や一面白一色の世界へと移り変わった田畑と山が連なる景色が広がった。
最早どこが田畑で道で山なのか、見分けるのは困難なほどに降り積もった雪の中。
しかし少年は迷うことなくその橋の延長線上に続く雪に埋もれた道に足を踏み入れた。
両側を田んぼで囲まれたその道は、そのまま山の麓へと続いており、走り出して間もなく、真っ白な紙のごとき景色の中に墨を溢したような影が一つ、現れた。
影に近づきその姿がようやく鮮明になるにつれ、それがやがて人の形をしていることが知れた。
肩まで伸びた真っ黒な髪。胸元には紫色の4枚の札を下げ、身に着けている灰色の衣服は少年と同様所々でほつれている。
口元が黒い布で覆われているために、顔はほとんど見ることはできない。
山の麓に佇む古びた木の鳥居に力なく身を預け、しばらく動いていなかったのかその頭や服には雪がうっすらと積もっている。
その姿は、今にも景色の中に溶けて消えてしまいそうなほどに霞んでも見えた。
「告曜様!」
その存在に気が付くや否や、少年は叫ぶと更に足を速めた。荒々しく蹴散らされた雪が足元で舞う。
不安と焦りの色を宿したその声は辺りに響くことなく雪に吸い込まれていったが、その人には届いたらしい。項垂れていた頭が僅かに持ち上がり、黒の瞳が彼を捉えた。
「おかえりなさい、宵月」
顔を覆う布の下で、告曜は囁くような小さな声で少年の名を呼んだ。
少年-宵月は告曜の傍に駆け寄ってしゃがみ込むと、懐から手にすっぽりと収まる程の小さな巾着を取り出した。
「・・薬を、預かってきました。・・これを飲んで、少し休みましょう」
しかし告曜は、差し出された巾着を手にしたものの中身を確認することなく袖の中にしまい込むと、鳥居に手を付きながらゆっくりと立ち上がった。
一瞬、宵月は何か言おうと口を開きかけたが、すぐに口を真一文字に閉ざして黙ったまま立ち上がり告曜を支えた。長身の割に、告曜の体は驚く程軽い。
そしてふと視線を落とした宵月は、告曜が座っていた場所に無数に散らばり、そのまま告曜の足元へと続いている赤い点に気が付いた。
「・・・・」
長い髪の下に隠れた宵月の表情が険しいものへと変わっていく。
その点の正体が、告曜の負う「厄」による出血だということを、宵月は十二分にわかっていた。
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年の暮れに、大祓という行事が神社や民間において大々的に行われる。
水無月と師走の2回に分け、半年で負った罪や穢れを祓う祭祀のことだ。
特に新年を迎える前の師走の大祓は、神社にとっては重要な意味を持つ。
「清浄」を「絶対」とする神々にとって、罪や穢れを残したまま年を越すことは許されないからだ。
けれど半年間少しずつ積もった罪穢れは、雪のように勝手に溶け、水となって流れるが如く簡単に祓い落せるものではない。
その穢れを祓うという行為には、代わりにその厄を誰かが引き受けるという代償が必要になる。
それらの代償を一手に担うのが、「厄」を司る禍津日直昆神たる告曜の役目。
各地で行われる大祓に赴き、その行事で祓われた厄を一手に引き受ける。
それが師走の時期での彼の仕事だ。
大祓で払われた厄は傷となり病となり告曜の体を容赦なく傷つけ蝕む。普段から調子の良くない体は、この時期はまさに満身創痍だと言ってもいい。
けれどそれが当たり前のことであるかのように、彼が己の体が傷ついていくことを顧みることはない。
これはあまりに酷だと、宵月はいつも思わずにはいられなかった。
「・・やっぱり・・休みましょう、告曜様」
告曜の足元を見つめたまま呟いたその言葉に、告曜は小さく首を横に振った。
「・・早く次に向かわないと、全ての厄は、祓えない」
「でも・・っ!」
「・・大丈夫だから」
縋るような宵月の視線に対し、返す告曜の眼差しは海の底を思わせる程に静かで、穏やかなものだった。
けれど目の下には濃いクマがはっきりと浮かび、僅かに覗く肌は血色がなく蒼白い。
そのどこが大丈夫なのか、宵月には理解できなかった。
包帯で覆われた足も今や血まみれで、立つことさえやっとだというのに。
そこまでして、どうして主はこんな役目を負い続けるのだろう?
どうして主だけがこんな痛みを負わなければならないのだろう?
そんな主に神仕であるはずの自分はどうして何もできないのだろう?
疑問や悲しさ、悔しさやもどかしさが織り交ざり、胸をじりじりと締め付ける。
その感情はやがて胸から喉へと這い上がり、自制も効かずに口から零れ落ちた。
「・・っどうして、人の為に、告曜様がここまで傷付く必要があるんですか?人は誰も、告曜様の役目を知らないんですよ・・!?」
「・・余のことは、お前が知っていてくれるだろう・・?」
告曜はゆっくりとした仕草で宵月の頭に降り積もった雪を払いながら、つと視線を江戸の街へと向けた。
しんしんと降り積もる雪の中に埋もれていく街は、けれどその寒さに閉ざされたような静けさはない。新年を迎えるべく忙しなく動く人達の活気で満ち溢れている。
そんな江戸を眺める彼の瞳は、そこに住まう人々を目前に1人1人思い浮かべ、愛おしむような優しい光を宿していた。
「・・余は人の為に、それしかしてやれない」
黙り込んだ宵月を横目に、告曜は僅かに微笑んだ。
「・・人は、余の役目を知らなくていい。・・知らずに、幸せで在ればいい」
神は人を慈しみ、守る。
人は神を信仰し、祀る。
それがこの世界における神と人との関係だ。
けれど彼は知っている。
自分には厄を負うことでしか、人を守ることも、慈しむこともできないということを。
そして人は誰も、そんな自分のことを信仰することも、祀ることもないということを。
「・・皆が幸せで在るなら、余はそれで構わない」
今にも雪に埋もれて消え失せてしまいそうな程儚いその言葉に、一切の揺るぎはない。
宵月の体に積もった雪を全て払ったのを確認すると、告曜は無言で足を江戸へと向けた。
宵月も慌ててその後を追う。
白く染まる世界の中。
2つの黒い影は雪に紛れ、やがて景色の中にへと溶け込んだ。