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良薬

 どうしてこうなるまで放置しておいたのだろうか。

「それは、どうしてそうなるか理解していなかったからですよ」

 今や薬袋の慰めの言葉も慰めにはならない。僕は深く息をついて木目調の椅子に腰かける。机の上に置かれた資料には大量の訂正線とコメントが記載されている。間に挟まった付箋は途中からなくなっており、どうやら付箋を付ける作業すらも諦めてしまったようだ。

「確かに付箋する意味がないな」

「ほぼ全て赤字ですからね。さすがの赤ペン先生も腱鞘炎になりそうですね」

「どこかの赤ペン先生みたいに生徒は多くないからセーフだろ」

 と言いつつも本当の赤ペン先生は大量の生徒を持っているわけだから、実際問題腱鞘炎に悩まされているのだろうか。

「セーフかアウトかで言うとアウトなんじゃないですか」

「まぁアウトなんだが、これをセーフにするのが大学なんだよな」

 本当にセーフになるのか甚だ不安だけれども、卒業させるのが目的にすり替わっているので論文のクオリティに関してはあまり追及しないこととなっている。が、そもそも日本語として記載されていないことが問題ということはある。

「えっと、これ、日本人ですよね」

「そうだな。一応お前の先輩ってことになるな」

 大学における先輩と後輩なんてあるようでないものなんだけども、三、二つ上の学年の体たらくはあまり見せられたものではない。とは言いつつも他人はあくまで他人であって、先輩の評価が後輩である彼女に直接の影響を及ぼすことはないだろう。ただ間接的には影響はあるだろうけど。

「まるごとコピーするわけにはいかないから、比較的似ている論文とかをかき集めて縫合すると、こういう結果になるってことだな」

「どこかのチョコのお菓子のCMみたいに、ツンツンしていた女性がお菓子食べると優しくなるようなやつですね」

「そのネタ分かるやついるのか」

 例え方も微妙だし。

「でもパッチワークといって、違う柄を組み合わせると綺麗なこともありますよ」

「柄を選ぶセンスというか、縫合の技術がないんだな。これが。ところどころ解れてるというか」

 とにかく論文も比較的固い文章ではあるけれども、やはり微妙に個性は出てしまう。だからどうしても流れで読んでいくと、所々文章の切れ目で気になる部分が出てきてしまう。

「ま、異物混入ってやつですかね。料理で言うと余計なアレンジみたいな」

「アレンジ程度だったらいいんだけど、最初のベースが既に異物というか、遺物のパターンもあるんだよな」

 つまり、そもそも自分というものがなくて、他人の論文をベースに改稿しているパターンだ。この場合は明らかに整合性が取れていない文章の事が多い。

「なるほど、スーパーで惣菜を買ってきて、更に買ってきた惣菜でアレンジするということですね」

「料理に例えるとな。ただ料理だとおいしくなるかもしれないが、論文はほとんど失敗に終わる」

「例え話としては、さっきの個性の話が一番近いかな。文章って個性があるし、いきなり豹変すればそりゃ驚くし」

 行間を読むというか、ただ単純に文章の結びだったり結論の持って行き方が人それぞれ違うことが多い。でもその結論に持っていくための材料である部分が他人の物なので、うまく説明できなかったり、その材料では説明不足になることが多い。本当に理解している生徒ならば、その材料を把握して調理することはできるのだろうけど。そんな生徒はほとんどいないし、そういう生徒はしっかりと自分で材料を作っている。

「言いたいことは分かります。つまり国道を走っていたはずが、いつの間にか歩道を走ってたみたいな」

「それはすでに道路交通法違反だ」

 でも薬袋の表現は正しい。論文でも文章でも道筋というものが大体見えるはずなのだが、簡単に言うとワープしている。特に前後の文章につながりがない。

「で、教授が投げ出して設楽さんの出番ですか」

「こういうの苦手なんだけどな」

「そうでしょうか、案外設楽さんって表面上の取り繕いってうまいのでなんとかなるんじゃないですか」

「その台詞は褒めてるようで褒めてないし、そもそも書いた本人を更生しようという気はないのか」

「更生するよりも、文章の更正をした方が早いのでは」

 薬袋の言葉にはそれなりの説得力はあった。どうせここで書いた論文が次に生かされることなんてそうそうないのだ。特に大学院にでも行くような生徒でない限りは。

「ま、正直更正した方が早いのは確かなんだけど」

「なんだけど、なんでしょう」

「更正するくらいだったら、もうこのまま通すのと同じなんだ」

「同じ―――ですか」

 薬袋は僕の手元にある論文をのぞき込む。だけどもそこにはあまり答えはない。

「つまり、言い換えれば論文の出来はあまり関係がないと」

「そういうと少し語弊があるけど、近いところではある」

「ふーむ、つまり嫌がらせということですね」

「若干脚色された答えだけども、ほとんど正解だな。苦労してもらう必要があるってことだ」

「そこに論文の出来は関係ないと」

「関係ないわけじゃないけど。結局のところ苦労して書いた部分に関しては筋が通ってるからな」

 これには論文の内容の正確性は求めていない。単純に試行を重ねた結果を自分の意見として書ききることが大事である。

「卒業してしまえば他人なんだろうけど、就職先はまた違うんだよな」

「あ、そういうことですか。早い話がここで苦労しておくとある程度は会社で苦労せずに済むということですか」

「というよりも、苦労するだろうけどストレス耐性は高くなっているというだけの話だ」

「生々しいですねぇ」

 別に学業に限った話でもなく、スポーツ選手とかがプロではなく大手の会社に就職するのは、そういった側面を見ているからだろう。

 そもそも僕自身が就職していないのに、そういった未体験の内容を経験談のように話すこと自体がお門違いなわけではあるのだろうけど。でも、それなりに使い古された言葉は、使い古されるだけの実績はあるということだ。

「将来的にすべてロボットが何から何までやってくる世界が来れば、私たちは仕事しなくていいんでしょうかねぇ」

「それは、お前が死ぬまでには無理だと思うけどな」

「どうでしょうかね。仕事をしなくても済む環境と、医療が発達して数百年生きられる世界。どっちが先でしょうか」

「それ、長生きしても働く期間が増えるわけだから、先にお手伝いロボットから先に進めてほしいな」

「確かに長生きしても仕事も続けなければならないのであれば、苦しいかもしれないですね」

 仕事がイコール苦しいかどうかは別問題として、でも働くということは必要になってくるのだろう。

「でも、設楽さんが最近相手してくれない理由が分かりましたよ」

「そういえば、三日ぶりくらいだったか」

「設楽さんの時間はウチナータイムですか。丸々一週間会ってないですよ」

「あれ、そうだっけか。最近土日も関係なくやってたから、日付の感覚なかった」

「設楽さんは無理ってラインスタンプ使いすぎなんですよ」

 そういえば、ことあるごとに薬袋からの誘いは断っていたような気がする。

「かわいいスタンプ使えば許されるってもんじゃないんですよ」

 確かに最近までは文章で送っていたのだが、断る理由を書くのも面倒になってスタンプ一つで回答できる手軽さで最近はスタンプでしか回答していなかった。

「設楽さんにとってスタンプは決済印と同じですね。承認か、却下しかスタンプ使わないんじゃないですか」

「確かに、それ以外のスタンプって使うことないな」

 そもそもラインをするような相手も限られているのだけれども。

「そろそろ薬切れと思って馳せ参じたわけですよ」

「薬切れ?」

「私という成分が必要じゃないですか」

「あ、間に合ってます」

「即答ですか。薬袋って書くくらいですから、癒されるかなと」

「というか、薬にもいろいろあるだろ。お前はむしろ麻薬だ」

「あら、いいじゃないですか麻薬。存分に私に依存してください」

 皮肉を皮肉と捉えないあたりが薬袋らしい。というか、先にこちらの回答を先回りして読み切った上で返事を準備しているとしか思えないフシすらある。

「それ幻覚見ている状態だろうから、本当にお前はそれでいいのか」

 薬袋を薬に例えるとしたら、難しい。そもそも動物に例えるのと訳が違うぞ。

「ハイになってる設楽さんは気になりますね。でも、そこら辺の薬に負ける気はしませんよ」

「薬と戦ってどうする」

「少なくとも、〇ファリンよりも優しさは上です」

 しつこさも上だけどね。さすがに言葉にはしなかったけど。ある意味、効きはよさそうだ。

「だってバファ〇ンは優しさ半分しかないんですよ。半分のくせして優しいって言ってるあたりがまだ驕りがありますよ。DVと一緒ですよ!」

 DVと一緒にするな。

「いや、仮に100パーセントにしたら、ある意味ハッピーになる危ない薬と化すだろ」

 というか、それただのラムネだろ。そもそも薬の成分に優しさなどないから、理系的には比率を求めていること自体がおかしいという結論になるのだけど。それを指摘するのは野暮といったところか。

「というわけで、行きましょう。大晦日、空いてますよね」

 どこへ、というのはあまりに馬鹿馬鹿しいので聞かないとして、あまり行こうとは思わない。

「バイトでも入れるかな」

「さすがにこのタイミングで入れることはできないのでは。というか断る口実の為にバイト入れるのはやめましょうよ」

 さすがに呆れ顔の薬袋。

「ま、別に薬袋と行きたくないわけじゃなくて。人混みがなぁ」

「それについては同感ですけど。私なんて、埋もれる自信があります」

 想像がするのはかなり容易な光景だ。

「そもそもクリスマスも同じような理由で断ってるじゃないですか。そろそろ泣きますよ」

「泣き落としはやめろ。というか予告して泣くものじゃないだろ」

 完全に薬袋の術中に嵌っているといってもいい。というか、薬袋が研究室に来てからというもの校正は既にできない状態になっている。今やっている作業も実際には年始の講義までにやればいいので、別に今終わらせる必要はないという点では慌ててはいないけれども。

 すでに乾ききった赤ペンにキャップをして、確認した範囲までの部分で後で分かるように付箋を張り付ける。

 おしゃれの欠片もないシンプルな壁時計を見ると、時刻は既に六時を回っている。まだ遅い時間ではないが院生でもない薬袋を長居させるわけにもいかないだろう。

「とりあえず、クリスマスの埋め合わせは今日やるよ」

 あれだけ誘われている中で断った部分が若干後ろめたさもあるので、ここは埋め合わせしておくことにする。

「駄目です。設楽さん、今日の埋め合わせで正月は脱走しようとしてますね」

「お前はエスパーかよ。というか、バ〇ァリンより優しいんじゃなかったのかよ」

 呆れつつもパソコンの電源を切る。

「それとこれとは別です」

 にこりと満面の笑みを浮かべる薬袋。笑ってるけど、絶対に笑っていない。

「分かった。ただ大晦日は私服にして、靴もいつものだったら行くよ」

「私のプリチーな着物姿を見たくないと?」

 馬子にも衣装と言いかけたが、特に何も言い返さずに、筆記用具を鞄にしまった。

「というか、プリチーって死語だろ。久しぶりに聞きすぎて言葉が頭に入っていかなかったわ」

「そうでしょうか。ま、分かりました、私服で行きます」

「そうしてくれ。着物なんて着て来たら、その場で解散だ」

「音楽性の違いからですかね」

「いちいち言わなくても分かるだろう」

「知ってます。そこを言わせるのが私の使命ですから」

 もはや言葉にせずとも理解しているとは思っている。ただ単純に歩幅や、混雑しているときに一緒に回るにはかなり不向きな格好だ。無用なトラブルを避けるためにお願いしているのだけれども。

 あまりに理解されすぎているのも問題かもしれない。

「なんか、頭痛がしてきたわ…」

「バファ〇ン飲みます?」

「そこは譲るのかよ」

「頭痛に効くのはバファリ〇ですからね。私は優しさで勝ってますから」

 にこりと薬袋は笑った。

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