振り逃げ
乾いた打鍵音だけが部屋の中に定期的に流れている。半開きにした窓からは気まぐれに風が吹き込んできて、ブラインドの擦れる音が聞こえてくる。
打鍵のリズムでどれだけ順調かが分かるので、あてもなくキーボードを適当に打ち続ける。これだけでなんだか仕事をしている気分になってくるので不思議だ。要はサボっているだけなんだけれども、立場上それを周囲に見せるわけにはいかない。そういえば、いつからそんな気遣いを考え始めたのだろうか。
そのうち、カチリと扉の開く音が聞こえてくる。そっと開かれたドアの隙間から細い腕が伸びて手招きしている。周囲の打鍵音がやや鈍くなるが、僕は気にせずに画面に注目する。やがて気遣うような目線が突き刺さるのを感じて僕は諦めて席を立つ。
「じゃあ、休憩するか」
所々で大きなため息が聞こえてくる。淀んだ空気を換えるために、窓を大きく開けて扉のもとへ向かう。
「ようやく、仲間を呼ぶに成功しました」
「お前はマ○ハンドか」
「おかげでMP使い切っちゃいましたよ。どこかで回復しましょう」
返事の代わりに僕はため息をつく。そんなため息を同意と捉えたのか薬袋は何も言わずに先へ進む。エレベータで一階に降りて正面玄関から駅へと続く坂道を下る。
「そういえば、いつまであの講習は続くんですか?」
「飽きるまでじゃないのか。一応給料は貰ってるから損はしてないけど」
「設楽さんって割と放任主義な気がしますけど、教師に向いてるんですかね」
「自分でも向いてないと思ってる。一応教員免許は取ったけど、就職できるかは別の話だしな」
「ほう。まぁ愛想はよくないですからねぇ」
「愛想はともかく、教員採用の出願受付は終わってるから無理だな」
もし来年に教員になろうとするならば、前年の五月から六月には申込みをしなければならない。そもそも教員になろうなんて気持ちはなく、取れる講義を取っていたら条件を満たした部分が強い。この先の就職に何の役にも立たないだろうけど、一応取っているという状態だ。
「でも、今回の講習も教員免許があったから頼まれたのでは?」
「それはなさそうだな。持ってるのは中学のだし、今教えてるのは高校生だ」
「そうですか、でも持ってるのと持ってないのでは違いはあるでしょう」
「そうかもな」
これ以上話しても何も変わることはないので、話はそこで打ち切る。
「しかし、高校生って若いなと思った」
「発言が既におじさんですね。設楽さんも十分若いでしょうに」
「年齢的な部分はそうだけど、こう活き活きしてることとかがな」
「なるほど、精神年齢的な話をしているんですね」
精神年齢、若さのギャップかもしれない。
「私は見た目も若いですけどね」
それはたぶん自虐だろう。それに見た目が若いほうが得かといわれると微妙なところだ。金銭的な話をすれば子供料金で見れるとかあるけども。それは犯罪だから省くとして、あとは得になることがあるだろうか。
「放任主義の話に戻るけど、放任の対義語ってなんだろう」
「干渉ですかね」
「干渉か。薬袋は干渉されたほうがいいと思うか」
「干渉って言葉でとらえるならば、嫌なイメージが残りますね。でも私は褒められて伸びるタイプなので、干渉されたほうがいいですね。身長は伸びないですけど」
確かに干渉という言葉に纏う感覚的な嫌悪感はわからなくもない。干渉というよりも、おせっかいと言い換えたほうがいいか。それでも、まだ嫌なイメージは拭い切れない。
「他人に教えるって行為は割りとしてきたつもりだけど、多人数に対してはやってきたことなかったな」
「ほほう。確かに多人数に対する授業って、対多数に成立する授業になりますよね」
「そうだな、最大公約数を目指した指導になるな」
「まぁ、そうなりますね。だったら家庭教師とかどうです」
「家庭教師も嫌だな。他人の部屋に入るって行為が苦手だ」
「友達がいないのって、だいたい設楽さんの性格の問題な気がしてきました」
「それくらいだったら、個人指導塾のほうがいい気がするな」
「たしかに、そういった塾もありますねぇ」
だんだん話が逸れていったけど、塾の講師だって簡単になれるはずがない。それなりの結果が求められるし、割とコミュニケーション能力が問われそうな気がする。
「そういえば、夏季講習なんですよね。付属の高校なんで望めばそのまま大学に入学できますよね」
「今日いる生徒は難関大学を目指している生徒たちだ。うちの大学には入らないような頭のいいやつばっかりだ」
「あの、私たちの大学も悪くはないとは思いますけど」
「そうかもしれないけど、ただ難関大学に輩出したという事実のほうが学校的には名前を売れるんだろう」
「経営的な話なんですね」
ただ夏季講習を大学の生徒から選出するあたり、手抜きの気がしなくもない。学校の教師はどうしたのだろうか。
「私立学校なんてものは、そんなもんだろう」
「いや、そうではないと思いますけど」
呆れ顔で薬袋は答える。半分冗談だとしてもお金の問題はもちろん存在する。少子化の問題で定員割れを起こしたという記事を何度か目にした覚えもある。
「ま、正直に言うと元々頭がいいから、教えるのが楽で助かる」
「そうなんですか」
「難関大学を目指しているだけあって、頭の回転は速いからな。ある程度説明すると理解してもらえるし」
「あぁ、なるほど、分かる気がします。分からない人の気持ちって、なかなか頭のいい人には伝わらないんですよねぇ。たぶんお互いがお互いを理解できてないといがみ合ってるパターンですね」
「よく相手の同じ土俵に上がるって言葉があるけど、その土俵が見つからないってことだな」
「闘う場所がないんでしょうね。そもそも同じ競技をしているかも不明です」
薬袋も半ば呆れたような口調だ。
「ただそういった異種格闘技のような戦いに挟まれると大変なんですよね」
「分からなくもない。お互いの事情を聞いても、お互いの言ってることが全然違うパターンだな」
「ドッジボールで例えると、何も関係のない私が内野にいる気分ですね」
「言葉をぶつけてるのは内野に対してってことか」
悪くない例えだ。そして内野がボールをキャッチして投げ返してくれるのを待っている。
「言葉のドッジボールとはよく言ったものです」
「キャッチボールをしような」
「キャッチボールでも一緒ですよ。言うならば相手は百五十キロ強のナックル投手ですよ、取れっこありません」
薬袋の説明は揚げ足取りに違いが言っていることは理解できる。そうしてボールを投げた結果、取りきれずにそのうちボールが無くなってしまう。
「設楽さんはボールは取ってくれますけど、投げ返さないタイプですよね」
「たまには投げ返すけどな」
「全部投げ返してくださいよ。あれですよ、ラインの既読スルーと同じですよ。そう思うと既読って機能って偉大な発明だと思うんですよね」
「偉大ではないと思うけど。むしろ余計な機能だ」
あの機能があるせいで、メールでやってた既読スルーが使えなくなってる。
「むしろ、ラインではなくメールでやって頂きたいレベルだ」
「駄目です。絶対既読スルーしますよね」
「そういえば、スマホにライン入れたの薬袋だったな」
「携帯管理も妻の役目です。浮気調査の一環です」
「聞いているのは、そこじゃないんだけど」
というかスマホのパスワードがどこから漏れたのかが気になるくらいだ。
「調査の結果、設楽さんってホント女っ気がないというか、むしろライバルは男ですね」
「言っている意味がよく分からない」
「分からなくて結構です。ただ現代人としてメールやラインの返信くらいはしてくださいよ」
「必要があればな」
「私の愛のメッセージは不要ということでしょうか」
実際にはそんな愛のメッセージなんてないのだけども、返事を返さなくても薬袋は行動に移すので返事をする必要がないということだ。断る場合だけ返事が欲しいという旨の内容がほとんどだ。
「設楽さんって断るのも面倒だって思ってますよね。誘うというよりも、実行する体で不都合あるときは連絡下さいってしておけば、ほとんどオッケーですし」
「そうだな、断る言い訳を考えるほうが面倒だし」
「その言い方だと不承不承で付き合ってると言っているようなものですよ」
「そうとも取れるな」
「そうとしか取れないんですが」
平手で肩を叩かれる。
「あれ、というか薬袋は何故ここに」
「それこそ今さらですねぇ。会いに来たんですよ、愛の力で」
「別に愛の力はなくても会えると思うけど」
「ま、ぶっちゃけ言うと友人と遊んでました。ただ急遽予定が入ったとかで」
「ふーん」
敢えて何も言わないが、嘘である確率が高いと勝手に想像している。自惚れるつもりはないのだけども、仮に気を使われることへの対策だったとしたら、気付かないふりをした方がいいのだろう。それに間違えているのであれば、それでもいい。どちらにしろ損はないのだから。
「それで既読の話ですけど、既読で返信ないってことは肯定と捉えることもできますよね。そういう意味では既読って機能自体がある意味回答の手段として成り立ってるとは思いませんか」
「メールだと本当に読んだかどうか分からないからな。ただ肯定と受け止めるかどうかは状況次第のような気がするけど」
「そこは結局送った相手次第じゃないんですかね。私も人によって解釈は使い分けますよ」
それもそうだ、全部が全部同じ理論を適応できるわけはない。
「で、何となく駅に向かっているわけだけど、薬袋はこれから帰るのか」
「んーどうしましょうかね。設楽さんに会うというデイリーミッションはクリアしたわけですし」
「それ、土日は割と失敗しているミッションだよな」
「電話かラインすればオッケーとしていますので」
今日もラインすればよかったのではないかとも思ったけども、それは黙っていることにする。そういえば携帯電話といえば、音通不信になる友人が一人いるけれども結局修理したのだろうか。それこそ、既読スルーにすらならない状態だ。
「せっかく駅まで送って頂いたので今日は帰ります」
「特に当てもなく歩いた結果だから、送ったつもりはないんだけどな」
「そこは、便乗すべきですよ。言わなくてもワカルってやつですよ」
「それ、本当に都合のいい言葉だよな。お互いの解釈に任せっきりってことだし、どっかの芸人のコントみたいにすれ違いにならなきゃいいけど」
「すれ違いにならない程度に、ってことですよ。既読スルーだって一緒ですよ、言わなくてもワカルってやつです。ま、本気で分かんないときはありますけど」
それもまた使い分けの話になるわけで、少なくとも僕と薬袋の間では成立している―――なんて、それも僕が言わなくて、勝手に解釈しているだけかもしれないけど。だけど、そんな解釈は案外悪くないものだと思いっている。
「別にラインに限った話じゃないですよ。今日の会話だってかなり既読スルーされましたし」
「そんなにしていないつもりだったけど」
「している意識はあるんですね。ま、私だって既読スルーはありますよ」
「スルーされた記憶はあまりないけど」
「会話についてはスルーしていないですけど、設楽さんの心の声は既読スルーしたりしますよ」
「心の声を読まないでほしい」
本当に全て読まれているのであれば、それこそ会話なんて必要ないのではないだろうか。
いや、それはあくまで一方通行で薬袋の気持ちは分からない。そこだけは会話する必要があるだろう。
「例えば、友人と遊んだという話は嘘で、本当に会いに来たと思っているところとか」
「―――恐ろしいな、お前」
「いえ、二割ぐらいはカマかけたんですけどね!」
「比率逆だよね」
八割は確信していたという計算になっている。
「ではまた! 続きは明日の朝刊で!」
そういって薬袋は駅の改札を小走りで走り、奥の階段に消えて行った。
「いや、既読スルーしてるじゃん」
比率についての回答はなく、それに明日は日曜日で薬袋に会う予定もない。そもそも続きってなんだ。
僕は諦めて駅前のコンビニで珈琲を買って進学コースの生徒たちが待つ教室へと戻る。割と長めの休憩を与えたことになるが、ノルマみたいなものはないので特に気にしない。
教室に戻るとほとんどの生徒は既に勉強や、携帯電話とにらめっこしている。
「お待たせ、続きから始めるか」
「先生、質問いいですか」
「どうぞ」
「さっきの人は彼女ですか」
「――――じゃあ、問題集の答えあわせからいこう」
どっとわく教室を背に、僕はホワイトボードに問題集の答えを書き始める。
既読スルーはやはり重要だ。