友達
からからと回る風車を眺めながら、田井中楓は汗を拭う。
先週から続いた雨からようやく抜け出して、今週はずっと晴れだったせいか思ったほど不快な汗ではなかった。それでもこの暑さはどうにも慣れない。
きっと大人になっても、慣れることはないだろうと思う。
友人と待ち合わせをして、すっぽかされてそのまま終点までたどり着いてしまった。
運が悪くも下りの電車だったので、なおきまりがわるい。
どうせなら上り電車に乗って、都会でぶらっとして帰ってくればよかったのに行きついた先はいつも電車の行先で目にする駅名だった。
車内を点検する駅員に起こされて、飛び降りたときは一瞬どこかに迷い込んだような錯覚を覚えた。
取りあえず私は駅の改札で乗り越し料金を払い、改札口の外へと一歩踏み出す。
駅前のロータリーには今でも機能しているのか判断付かないバス停と、寂れたタクシー乗り場がある。
タクシー乗り場に至っては、タクシーという文字は錆びついて読めず、かろうじてタクシーの車のマークで判断できるくらいだ。
日中ともあって、少しだけ遠くの田舎の景色を思い出した。
どうせここまで来たのだからと思い、私は当てもなく歩き始める。
辺りには人影もおらず、私はとりあえず改札の目の前の通りをまっすぐに歩く。
駅前の花屋で住民の一人をようやく確認する。
どうやら誰もいない世界に紛れ込んだということはなさそうで少し安心する。
だけど、そもそも駅員に起こされている時点で人っ子一人いないというわけではないのだ。
花屋の脇道を抜けると、すぐ住宅街へ入り込んだ。
左右見渡してもほとんどが一軒家で私の住む地区とは違い、アパートやマンションはあまり見かけない。
「だから空が広いのかな」
私はぽつりと呟く。
心なしか辺りの景色は私の住む地域よりも広く感じた。
少しだけ私の暮らす街とは違い、緊張感というか疎外感を感じる。
まるで来てはいけないところへ来てしまったかのように。
やがて右手に小さな竹林と、いかにもお化け屋敷のような木造の一軒家が見える。
私はそちらに目線を取られながら、まっすぐに進む。
そういえばこういった自然を眺めたのはいつ以来だろうか。
たぶん小学校や中学校の遠足の頃以来じゃないだろうか。
自分が普段から土の上を歩かないことに疑問を抱かなくなったのはいつからだろうか。
毎日舗装された道を歩き、靴底に泥をつけたのはいつごろだろうか。
やがて正面に大きな公園の入口が見える。
さらに奥には大きな樹木が等間隔にそびえたっている。
こんなに大きな公園があったのかと私は足を進める。
だけどもそこは違った。
「ここは、墓地か」
入口横の大理石だろうか、霊園と文字が刻まれていた。
辺りにはぽつぽつと花桶を持った人々が歩いている。
整然と並ばれた墓に私は少し戦慄してしまう。
「あれ、田井中さん?」
振り返ると、そこには一人の少女が私を見つめていた。
「あれ、薬袋さん?」
オウム返しのように私は彼女の名前を聞き返す。
「田井中さんも墓参りですか?」
「いや、私は」
私は何なんだろうか、ただの冷やかしか。
薬袋さんは不思議そうに首を傾げて、やがて得心を得たように私の顔を見つめる。
「では、ご一緒しませんか?」
「ぇ」
― 友達 ―
薬袋梢と初めて出会ったのは確か高校三年の夏の出来事だ。
当時彼女とは一回もクラスメイトにはならなかったけど、私と彼女は二人そろって背丈の低さが似通っていたので体育でよくペアを組まされた。
私の高校では隣のクラスと合同で体育をやっていて、三年生になって初めて薬袋梢と隣同士のクラスとなったのだ。
体育祭ともなると、男子は組体操、女子は創作ダンスを強いられることとなる。
私は運動神経も褒められた方ではなかったので、創作ダンスともなれば頭では次の動作を思い出しつつ踊るという無茶難題にほとほと困らされたものだった。
そこで少しのフリの違いから薬袋梢と激突し、二人揃って保健室に運ばれてしまったのだ。
そもそも私が薬袋梢を保健室送りにした形となった。
保健の先生も主に外のテントに座っていたこともあり、保健室の中は私と薬袋梢の二人だけだった。
「いやぁ、ラッキーでした」
「ぇ」
薬袋梢は真っ白な細い足を投げ出しながら、呑気そうに話始めた。
「創作ダンスなんて、なにが創作なんでしょうかね」
「さ、さぁ」
このころの私は薬袋梢という人物を外見でしか知らなかったので、若干警戒ぎみに頷いている。
「ま、何はともあれ束の間の休日といったところですかね」
「あの、ごめんね」
「あぁ、ぶつかった件ですか? あれ、わざとぶつかったのでお気になさらず」
「ぇ」
フォローのつもりだろうか。
だけど確かに自分の足に躓いて薬袋梢にぶつかったのだ。
「確かに田井中さんがこけましたけど、これはチャンスとばかりに巻き込まれてみました」
「……」
本当にそうなのだろうか。
少なくとも薬袋梢の心を読むことはできないので、一応フォローとして受け止めておこう。
「ま、別に田井中さんがどう思われようとも、私が束の間の休憩をいただけたことは事実ですから」
そのまま薬袋梢は背中からベッドへと倒れ込む。
「なんだか、不思議な人だね、あなた」
「不思議?」
「言葉で説明するのは難しいけど、他の人とは違うような気がする」
「そりゃ、ドッペルゲンガーでもあるまいし、人は一人ですよ」
薬袋梢は仰向けに倒れたまま答える。
私は背もたれのない、真っ黒な丸椅子に座りながら外の景色を眺めていた。
真っ青な青空に、燦々と輝く太陽。
微かにグラウンドの砂埃が舞って、遠くの景色を微かに曇らせていた。
「また秋が来てほしいです」
「秋が好きなの?」
「そうですね、季節でいうと秋が一番好きかもしれません」
少しだけわかる気がする。
私はどちらかというと春が好きだけども、春と秋は感覚的に似ているような気がするのだ。
「秋は地味ですからね。特に大々的なイベントが執り行われるわけでもないですし」
「文化祭があるけど」
「あんなもんは、一日教室で時間潰せるのでむしろ好都合です」
確かに私の高校の文化祭は希望者がいろいろと舞台に出れる参加型のイベントなので、非参加の人間は割と見て回るだけで一日を過ごせる。
「そうだね」
「つまり、あまり人と密接に関わりあうイベントが苦手なんですよ」
「そうは見えないけど」
「そう見えないようにしているからです」
あっさりと薬袋梢は答える。
「こういった閉鎖的なコミュニティでは、社交的にいかねば生きていけないですからね」
さも当然とばかりに薬袋梢は口にする。
でも女子だから、男子だからとか関係なく、私たちの周りにはグループなんていう透明な楔のようなものがいつだって刺さっている。
だからそれ以上先には行けないし、お互いが楔から動ける範囲にしか行動できない。
だけど薬袋梢はきっと楔がささったふりをしているのだ。
本当は自由に動けるのにそうしない。
「薬袋さんは自由そうだね」
「何故そう思うのですか?」
「なんとなく、どこにも属していないというか」
「逆に聞きますが、田井中さんはどうして自由ではないのですか?」
鋭くその言葉は私の胸に届いた。
結局自問自答の相手を薬袋梢に差し替えているだけだ。
どうして、私は自由ではないのだろう。
その後、すぐさま保険の先生がやってきて、薬袋梢との会話はそこで途切れてしまった。
回想。
なんて、高校生時代の何気ない青春を思い出してみる。
先を歩く薬袋梢の姿はあれから寸分も変わっていないように見える。
姿形も。
これを言ってしまうと、本人に対して失礼だから口にはしないけれども。
でもなんだかその姿を見て安心している自分がいた。
「助かります、お墓の掃除って結構大変なので」
「いいの? 他人の私がやっちゃっても」
「死人に口なしですから、文句なんていわれませんよ」
にべもない言い方である。
「それにもう、失われたものですから」
薬袋梢の言葉は重い。
「だったら、失われたものなのにどうして悼むんだろう」
「ただの自己満足ですよ、そうしないと気が晴れないから」
であるならば、彼女もまた自己満足なんだろうか。
「だれかが死んで、それが自分に原因があることでも、死んでしまったら許してもらうことなんてできないんですから。それでもなお、誰かが謝れるためにお墓が作られるのです」
周囲の墓石の並びは区画ごとに分けられていて、それぞれの区画の間には大きな砂利道がひかれている。
「なんて、嘘ですけどね」
嘘なのか。
でもそれは妙に説得力のある話だった。
「どちらにしろ自分の墓を自分で作ることはできませんから」
今を生きる人の為に墓地は作られることは理屈として適っているように思える。
「たとえば野球の選手だって、亡くなった後に殿堂入りしたりしていますけど、どうしてでしょうね」
どうしてだろう。
私は野球について詳しくはないけども、死んでから評価されていった芸術家の話なら聞いたことがある。
でもそれはもう本人には届かない。
薬袋梢がたどり着いた墓石には、彼女の名字ではなかった。
私は取りあえず無言で雑巾で墓石をきれいにするところから始める。
「このお墓で眠る人は、薬袋さんにとってどんな人だったの」
「そうですね、一言で説明するのは難しいですね」
薬袋梢は周囲の落ち葉を箒で集めながら、少しだけ思案した表情を浮かべる。
「強いて言うならば、友達未満、他人以上でしょうか」
その言葉に私はどう反応を示せばいいのだろう。
「・・・まぁ、友達なんて区切りも曖昧で、息でも吐けば消えてしまいそうなくらいの関係でした」
だけども薬袋梢はここを訪れている。
「でもまぁ、ふと思い出してここを訪れてみただけです。自分は忘れていないって確認作業の為に」
「忘れていないって?」
「取るに足らないただの自己満足です」
取るに足らない自己満足。
だけども、彼女はこの墓で眠る人を大切に思っていたのは間違いない。
そう思ってもらえるのは幸せなことだ。
「でも、」
と、言いかけて私は口を慌てて噤む。
薬袋さんは少しだけこちらに目線をよこしたけど、元の作業へと戻っていった。
でも、伝わらなければ意味はない。そう、生きているうちに伝えなければ。
だから薬袋梢はここを訪れたかもしれない。
彼、もしくは彼女に大切だって伝え損ねた気持ちを持続するために。
一つの後悔なのかもしれない。
「薬袋さん、覚えてる?」
私は彼女に問いかける。
「体育祭の練習の時、どうして自由じゃないんだって聞いたこと」
「覚えてますよ。田井中さんとはその会話が接点でしたからね」
「きっと私はこれからも自由じゃないし、不自由だって思う。誰かを嫌いになったり、嫌いになられたり、自分がコントロールできない感情に振り回されていっちゃうと思う」
だけどそれでいいのだ。
「あの頃の私は自由が幸せと思ってたけど、きっとそうじゃないような気がする」
誰かのことを好きになったり、好きになられたり、他人の感情や自分の感情に振り回されていくことも幸せになる一部なのかもしれない。
「そうですか」
薬袋梢は目を瞑り、そう答えた。
今日だって、友人の用事をすっぽかされて不幸せだ。
だけども、ここで薬袋梢と再開できたことは幸せだろうか、それとも不幸せだろうか。
薬袋梢はどう思っているだろう。
「ね、墓参りを手伝った代わりに、午後は私に付き合ってよ」
少しだけ驚いた薬袋梢の顔をみて、私は少しだけ心が躍るのを感じている。
「構わないですよ、幸い解消のない彼氏からの連絡はないですし」
「えっ、薬袋さん彼氏いるの? 写真見せて!」
「後で、です」
少しだけ動揺している薬袋梢の様子を見て、私は幸せになる。
こうやってからかえることで、あぁ、友達だなと思える。
そういえば、体育祭のあの日の創作ダンスの出来を薬袋梢から聞いていなかった。
うまく踊れていただろうか。またぶつかりそうになっていなかっただろうか。
でも聞きかけて、私はきれいになった墓石を見てそれを取りやめる。
今聞くようなことじゃない。
それに友達なんだから、何でも聞かないといけないようなもんじゃないだろう?