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壊れ物

 どうしてこんなになるまで放ってしまったのだろうか。

 私は段ボールの蓋を閉じて、ガムテープでしっかりと留める。

 周りには三段に重ねられた段ボールと、それ以上に残った雑貨の数々が置かれていた。

 少しだけ開かれた窓からはオレンジ色の陽光が差し込んで、少し離れた大通りからの喧噪がうっすらと聞こえてきた。

 四年も暮らしていると、それなりに物は増えてしまうのだろう。

 ここへやってきたときなんて、片手で数えられるくらいの段ボールの数だったのに。

 それだけの量が今の私の四年間に積もってきたのだろうか。物だけで測れば、そうなってしまう。

 それが多いのか少ないのかは全く判断できないけれども。私はもう一箱段ボールに物を詰め込むと、一息ついた。額には薄らと汗をかいていて、自分が空腹だったことを自覚した。

 そういえば作業に夢中になって、昼食は摂っていなかった。

 私は子供のころから何かに夢中になると周りが見えなくなる癖があった。周りどころか自分すら見失っていたような気がする。それはまるで、ひどく曖昧で不透明な自分の存在を夢中になることでうまく何か具現化できないか試行錯誤しているかのようだった。言葉で表せば不安が一番適しているだろうか。誰かが聞けば、軽い嘲笑ものの悩みかもしれないけれども、今の私はその不安という思いで蝕まれていた。

 自分の存在理由を探してしまう。

 ここから出ることに何の意味があるのだろうか。

 ここに残ることで何の意味が生まれるのだろうか。

 何かを理由にしなくちゃ、自分をうまく保てないのが分かる。


 乾いたベルの音に気が付いたのは、少し後だった。

 自分の部屋で鳴ったのだから、それは自分の家のベルに決まっていた。

 そういえばこのベルの音を聞いたのはいつ以来だろう。それだけ私の家に来訪者はいなかったのだろう。

「はい」

 数か月ぶりに触れる受話器と声。

「薬袋ですけど」

 彼女の声もいつもに増して機械的に聞こえた。

 そういえば、彼女は電話が嫌いだったか。

「引っ越し祝いに」

 ドアを開けると、彼女の両手には白い箱と、コンビニの袋がある。

 白い箱の方はケーキだろうか。

「引っ越し祝いって、この場合逆でしょ」

「そうかもしれませんね」

 にこりともせずに薬袋梢は白い箱を少しだけ前に押し出した。

 どうやら受け取ってくれということだろう。

「入って、今から休憩しようと考えていたから」

 私は梢を招き入れ、クッションへ座った。

 白い箱を開けると中にはシュークリームが入っていた。

 食器棚から二つ皿を取り出して、それぞれに一つ置いた。

「四個も買ってきてくれたんだ」

「えぇ、他の方もいらっしゃったらと思ったので」

 複数買ったので私の家に入ろうと考えていたわけではないのだろう。

 おそらく渡したら帰る気でいたのかもしれない。

 梢にはそういう距離感のようなものを持っていた。

「他の人なんて来ないよ。来たのは梢だけだよ」

「そうですか、まぁ、女性が少ない学科ですからね」

 私と梢がいた学科は全体で六十名いて、女性はわずか四名だった。

 もちろんその中に、私と梢が含まれた。

「明日引っ越しをすると聞いてますけど、かなり残っていますね」

 シュークリームを食べながら、梢は周囲を見渡した。

 シュークリームを乗せた陶磁器の皿に、アイスコーヒーの入った紙コップはひどくアンバランスのように思えた。

「紙皿も買ってくればよかったですね」

 大して、後悔の表情も見せずに梢は言った。

「いいよ、そこまで」

 そこまでしてもらう義理なんてない。そもそも義理ってどういうことだろうか。

 まるで私たちは友達だよねと、ひどく不透明な境界条件を確認するような滑稽な考えだ。

「でもまぁ、食器も終わってないところを見ると、こいつは役に立つかもしれません」

 梢がコンビニの袋から取り出したのは、赤と白のテープだった。表面には赤字の英語で何か書かれていて、割れたワイングラスのロゴが描かれている。

「割れ物注意のテープです」

 そういえば、どこかで見たことがあると思った。空港の荷物カウンターだろうか。

「お札みたいなのはよく見るけど、テープはあまり見ないなぁ」

「そうですか、私はテープのイメージが強いですが」

 薬袋の小さな口にこのシュークリームは大きすぎたようだ。途中から諦めたのか、ちぎって食べている。

 私たち二人がシュークリームを食べきったころには斜光の色はずいぶんと薄暗くなってしまった。

「さて、実は小一時間ほど時間が空いてまして、良ければ手伝いますよ」


 せっかく割れ物注意のテープを買ってきてもらったので梢には食器をお願いすることにした。

 先ほどまでシュークリームを乗せていた皿も直ぐに洗って、新聞紙に包んで丁寧に入れていく。

 そういっても、所詮は一人暮らしなので大した量ではない。

 偶に来る友人用の皿とコップが一、二枚あるくらいで、本当は捨ててしまってもいいようなものだった。

「いまだに実感が沸かないもんだね」

 私はハードカバーの本を段ボールの底に敷き詰めながら呟いた。

「引っ越しがですか?」

「そうだね。もう決まっていたことなのに」

 つい最近まですっかりと忘れていた。

 いや、忘れていたわけではなく、忘れようと努力をしていたのだろうか。

「結局、四年間なんだったんだろうと」

「四年間は四年間ですよ」

 梢はあっさりと答えた。冗談でも批判でも指摘でもなく、当たり前のように。

「私もこの四年間を何か言葉で言い表せることはできませんよ。良いことも悪いことも色々ありましたけどね」

 両手を使って少しだけ先程のテープを投げる。

 赤と白の壊れ物のテープ。

「このテープを貼れば、皆さん壊れ物だと分かりますね」

 梢は優しく段ボールの蓋を閉じて、テープを両手一杯に広げる。

 白と赤のテープは先ほどまで私が荷造りした段ボールよりもかなり目立って見える。

「でも、貼らなければ分かりません。例えばその箱の中に壊れ物があるかもしれません」

「そうね」

「でもどちらにしても壊れますよ、それも。いつかは」

 梢は両端の浮いた部分もテープで留めていく。

 そして、最後に一切れのテープを千切った。

「さてと、私はそろそろお暇しますね。結局一箱しか手伝えませんでしたね」

「いや、十分助かったよ」

 それは本心だった。

「ま、今生の別れではないので、これを」

 梢は立ち上がり、私へと近づいてくる。

「ほい」

「ほい?」

 べたっと、粘着質な音が私の右頬から聞こえてくる。

「貴方もまた壊れ物ですよ。身体壊さないように頑張ってください」

 そのまま彼女はトートバックを持って、玄関へと向かっていった。

「ではでは」

 このご時世にこんな別れの言葉はないだろう。

 だけども何故だか私は言葉が出なかった。

 扉の閉まる音が聞こえて、しばらくしてから私の口元が少しづつ歪むのが分かった。

 この感情はなんだろう。

「痛た…」

 頬に貼られたテープを剥がす。

 その痛さに涙が零れる。

 思いのほか、しっかりと貼り付けられていたらしい。

 テープにはしっかりとFragile(フラジール)の文字。

 ぽっきりと割れたワイングラスが少しだけ滑稽に見えた。


 涙はまだ止まらない。

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