~女子寮にて・後編~
明が初めて女子寮に入居したのは、入学式の二日前のことだった。
生徒全員がそろうのもその日であり、その夜には、寮への入所式兼、歓迎会が開かれた。
挨拶の口火を切ったのは、この女子寮の寮母だった。幾分ふっくらとした、上品な婦人である。
「皆さん、はじめまして。この女子寮へようこそ。私は寮母を勤めます、高市と申します。あらたな子供たちを歓迎します」
この学園では、寮母といっても、れっきとした教師の職にある。彼女は生徒と共に寮に寝泊りすることで、寮の監督を務めると共に、生徒が望めば勉学の相談にも乗るし、日常の悩み相談にも乗る。まさに、生徒たちの母親役といっていいだろう。
寮母である高市は次に、一人の生徒を紹介した。
「私はいつでもあなた方の相談を歓迎します。ただ、生徒同士での相談が必要になることもあるでしょう。その時は、この子を頼ってください。九条さん、お願いします」
高市に促され、堂々と新入生の前に進み出たのが、九条紅葉だった。
「新入生の皆、はじめまして。私は、九条紅葉。三年特級、監督生を努めているわ。今年は、私が女子寮の代表となるから、困ったことがあれば、何でも相談してきて。それと、規律を守るのも私の仕事だから、問題行動はなるべく起こさないでちょうだいね――お仕事、増えちゃうから。これから、どうぞよろしく」
冗談交じりの紅葉の挨拶に、緊張した場に少し笑いがこぼれる。
隣から、小声で紫が解説を入れてくれた。
「……監督生というのは、上級生の中から、優秀なごく一部の方が選ばれると聞いています。文字通り、下級生を監督し、規則に反する生徒がいれば罰則を与えることも――これはよほどの規律違反がなければありえないようですが――できるそうですわ。要は、生徒の中でも特権階級ですわね。組も特級ですし、寮代表も兼ねていらっしゃるとは、有能な方ですのね」
さらに紅葉は説明を続けた。
「入寮するにあたって、今回初めて親元を離れたという子がほとんどよね。神学院高等部のことも、分からないことが多いだろうし、不安なことも多いと思う。そういう子のためにも、この寮では、姉妹制度を導入しているの」
「姉妹制度?」
何人かの新入生が、初めて聞く単語に首を傾げたり、顔を見合わせたりする。
「姉妹制度というと、名前は聞きなれない感じだけど、要するに生徒同士一対一での個別対応のことよ。下級生一人に対し、上級生一人がその補助役としてつく。上級生は、下級生にこの学園や寮のことを教え、下級生は分からないことがあれば、その上級生に相談すればいいわ。それを姉妹制度と呼んでいるの」
「面白いですわね。なら、男子寮では『兄弟制度』になるのでしょうか」
「まあ、おそらくそうだろうな。とたんにむさ苦しい響きになるが……」
説明の合間に、こっそりと紫と会話をする。
「新入生のあなたたちにしてみれば、知らない上級生にいきなり質問はしにくいでしょう?初めから特定の先輩と組むことで、相談をしやすくする。それがこの制度の利点の一つね。――もちろん、相性もあるでしょうから、どうしてもこの『姉』は無理だと思ったら、私か寮母の高市さんに、遠慮なく言ってくれればいいわ。姉妹二人の話を聞いて、相手を変えるなり、より良い道を考えるから」
「九条先輩。一つ質問をいいだろうか」
説明のさなか、突然、挙手と共にはっきりと響いた声に、一同はぎょっとした。
視線が発言した明に集中する。
当の本人は何処吹く風である。紅葉はそのあまりにも堂々とした態度に目をぱちくりさせつつも、
「どうぞ」
と発言を許可した。
「お話中に失礼する。久遠時明だ。その姉妹制度だが、その制度の名に従えば、相棒となる先輩のことは姉と呼ぶべきなのだろうか?そして私は妹と呼ばれることになるのか?」
明が名乗った名前に、にわかに会場がざわつきはじめた。
なるべく目立たねば良いが……と思っていた紫は、いきなり全員の前で自己紹介をかました(憤懣でやや言葉が乱れている)明に、彼女を目立たせまいとする無駄を悟った。
一瞬驚いた表情を見せた九条だが、さすがにすぐにそれを引き締め、質問に答えた。
「久遠時。この学園は、誰かに何かを強制するようなことはしないわ。だから、呼び方はあなたが自由に決めればいい。――ただ、『姉』『妹』と呼ぶことで、誰が誰の相方か、わかりやすくなるというのは、利点よ。友達が困っていたとき、その子の『姉』を知っていれば、さり気なく力になることもできるでしょう?だから、そう呼び合うことが多いのは確かね」
「なるほど、理解した。お答え、感謝する」
「――他に、なにか質問のある子はいる?」
声は上がらなかった。質問があったとしても、明の後に発言することに気が引けたのかもしれない。
「そう。また後でも聞きたいことが出てきたら、いつでも質問してちょうだい。――それじゃ、早速だけど、あなたたちの『姉』を紹介するわ」
そう言って、新入生一人ひとりに対する『姉』役が読み上げられた。
新入生につくのは、二年生である。そして二年生には、三年生が『姉』役としてつく。
それが普通だった。――通常なら。
「……じゃあ最後に、久遠時明と、久遠時紫」
「ああ」
「はい」
二人は同時に返事をする。
幾分複雑な表情をしながら、九条は二人の『姉』を読み上げた。
「久遠時明、『姉』――三年特級、皇菫」
「はあい」
間延びした声が、返事をする。菫が前に出て、まじまじと明を見つめた。
「あら、まあ~、なんて綺麗な子!あなたの『姉』になれて、嬉しいわ」
菫が差し出した手に、明はしっかりと握手で応えた。
「こちらこそ、よろしく。菫『姉』さん」
どうやら明は姉妹制度の趣旨に習い、菫を姉と呼ぶことにしたようだ。
どよめいたのは、周りの新入生である。三年生の――しかも特級の生徒が、一年生の姉になるとはほとんど例がない。
ましてや、続いての言葉には、皆が驚愕したものだ。
「久遠時紫。――あなたの『姉』は、私が担当します。これから、よろしくね」
「はい。紅葉姉さま」
小さな悲鳴があがる。
「監督生が――一年生の姉!?」
新入生のみならず、二年生も動揺しているあたり、非常に珍しいことらしい。
と同時に。
「やっぱり……」
「……久遠時が……。特別……」
ひそひそと、あまり好意的ではない陰口がささやかれ始めた。
紫は、この学園に入学した時点で、良くも悪くも注目を集めることは覚悟していた。
しかし、これは予想以上の特別扱いだ。こんな最初から、あまり反発を集めるのは望ましくない――。そんな風に、紫が懸念し始めた時。
「菫姉さん。あなたが私の姉となったのは、私が久遠時姓を持っていることが影響しているか?」
ど直球の質問をぶつけたのは、当事者である明だった。
噂をしていた周囲の人間ですら、唖然とした。
笑顔が基本形の菫さえも、瞬間、作り笑いではない素の表情を見せた。
「さらに言えば、私の三試の成績が壊滅的に低かったから――ある程度の能力のある『姉』をつけなければ指導に有効でないと判断した。紫の場合は、逆だな。久遠時の名を持ち、能力も優秀な紫には、生半可な者はつけられない。逆につぶされてしまうかもしれない。ならばいっそ、監督生である自分がつこう。そんなところか。ふむ。久遠時の指導役など、責任重大でやりたがらない者も多いだろう。あるいは単に人脈作りで近づくものもあるかもしれない。お二人は、自分が立候補することで、私たちに充分な教育と庇護を与えてくれると同時に、混乱を回避することで他の生徒をも守ったのだな。ご配慮に、感謝申し上げる」
しん、と会場内は静まり返った。
さも当然のように語っているが、これは明の単なる推測である。何の確証もない。
しかしそれは、紅葉と菫の意図をかなり正確に察していた。
「ふ……、ふふっ!」
菫が楽しそうに吹き出す。
紅葉は驚いた。それは、いつも笑顔でいる菫の、珍しい『本当の』笑いだった。
「明ちゃん!あなたって――面白い!」
そして、むぎゅーっと明を抱きしめる。とはいっても、明の背が高いためにどちらかというと『抱きつく』といったような格好ではあったが。
ぴくり、と、紫が若干慌てたように身動きした。幼馴染への過剰な接触に、やや動揺したようだった。
それを察し、紅葉は紫の方に手を置き、
「ごめんなさい。スキンシップが多いのは菫の癖のようなものだから……。馴れ馴れしくて申し訳ないけれど、多めに見てやってくれないかしら」
紫は、動揺を簡単に察されたことを恥じ、平静にもどったあと、紅葉に礼を言った。
明の立て板に水の説明により、久遠時だけ特別扱いをしているというような批判は、収束したようだった。
その後は予定通り、歓迎会は賑やかに行われ、みんな料理に舌鼓を打っている。
その喧騒から、少し距離をとり、壁にもたれて紅葉はつぶやいた。
「まったくもう……びっくり箱のような子ね」
その横で、菫が応える。
「いいじゃない。私、とっても気に入ったわ」
「……菫ならそういうと思った。でも、今回はたまたま良い結果に転んだからよかったけど、あの性格は少しばかり問題ね。……指導するのは、大変そうだけど?」
苦笑して問いかける紅葉に、菫は、
「かまわないわ。私、変わった子は大好きだもの」
と、きらきらした瞳で笑い返したのだった。
***
「本当に……。入寮初日からやらかしてくれたものだわ」
二日前を思い出し、苦笑した紅葉に、明は首を傾げ、菫は紅葉が何を思い出しているのかを理解して、面白そうに微笑んだ。萌黄は一人、せっせと明の革靴のお手入れを始めている(当の明は菫に抱きつかれているので身動きがとれない)。
「自覚がないのは本人ばかり――か。これからの『姉妹』生活が楽しみね!明ちゃん」
菫が明に頬をすり寄せた瞬間。
「――あら、あら。まあ」
ぞくり。
瞬間、その場の誰もが、絶対零度の吹雪に襲われ、凍りついた。
「玄関先で賑やかにお話をされているのはどなたかと思えば――明?あなたは、こんな寮の入り口で素足になどなって……どうしたのですか?ずいぶんはしたない格好ですわね。――それに、おろしたての、奮発した、ぴかぴかだった革靴が、まさかと思いますが、濡れているように見えるのは気のせいでしょうか?」
にこやかに、紫が笑う。
「あ、ああ――試験とやらは終わったのか、おかえり」
とっさに取り繕おうと明が言うが、
「ええ、終わりました。それで、萌黄さん一人が、その革靴のお手入れをしてくださっているのはどうして?」
ばっさりと、逸らした話は一刀両断にたたっ切られた。
「当の明は、菫先輩との親交を深めるのに、ずいぶん忙しそうですわね。まあ、まさか監督生の紅葉姉さままで、こんな光景を笑ってみていらっしゃるなんて――」
すばらしく整った美しい紫の笑顔。
その笑顔が怖い。
「明。今すぐ部屋に戻ってお着替えなさい」
「あ、ああ」
ぴょん、と菫から飛び離れて脱兎のごとく立ち去る明。
「萌黄さん。うちの明がとんだご迷惑をかけましたわね……ごめんなさい」
「い……、いえ!全然……。く、久遠持さん、あ、明さんはとても、優しくて……それで」
一生懸命喋る萌黄には、慈愛にあふれた微笑をみせ、そして――
「そちらのお二人の、お姉さま方。クリーナーにクリームにスプレー……、革靴のお手入れの道具をお持ちでしたら、少しばかりかしていただけると、私、妹として大変うれしいのですけれど――」
似ても似つかぬ獰猛な笑顔を、紅葉と菫に向け、紫はあくまでしとやかにお願いした。
――無論、二人の『姉』は、『妹』の要請に、喜んで(?)応えたという。
厳粛に、賑やかに、驚きと、偶然に、様々な出会いと、出来事を経て、明と紫の、神学院登校初日は、こんな風に更けたのだった。