~女子寮にて・前編~
神学院高等部の寮は、その敷地内にある。
敷地内とはいっても、なにせその敷地自体が広いものだから、寮までは徒歩でなかなかの距離がある。
通学、と言うほどには遠くないが、構内移動、という印象ほどには近くない。そんな距離だ。
神学院は共学であるので、無論、学生寮は男子寮と女子寮の二つが存在する。
双寮は離れた場所に配置されており、その間は他の校舎や樹木に阻まれ、寮での生活はお互い目に入らぬようになっている。
その学生寮(もちろん女子寮だ)に、明は帰ってきていた。
校舎の豪華さには幾分劣るが、それでも寮も充分立派で、瀟洒な建物だった。
玄関をくぐり、下駄箱に向かい靴を脱ごうとしたところで、ふと思案に暮れる。
(どう考えても、このまま部屋に戻るわけにはいかないな……)
なにせ、革靴にも靴下にも、水気や砂がついたままだ。
なるべく綺麗に拭ってきたつもりだが、それでもおろしたてのそれらに比べれば、いささか小汚くなった印象はいなめない。
それにこのまま屋内に上がったのでは、床や部屋履きも汚してしまう。
(紫が帰ってくるまで、外で待つしかないか……?)
そんな風に考えていた、その時。
「どっ……!」
「ど?」
奇妙な音が聞こえ、明は思わず顔を上げた。
「どっ、……どどど、ど、ど……っ」
ここは工事現場ではない。
同様もあらわにした、か細い女の子の声である。
振り向いた明は、その声の主の名前をよんだ。
「萌黄」
驚いたように立ち尽くしていたのは、華奢な少女だった。
身長は中背だが、やや猫背なので実際より小さく見える。
あごの辺りまでのやや淡い黒髪は、前髪を少し長めに整えられており、うつむきがちな姿勢と相まって、彼女の表情を読み取りにくく、覆い隠していた。
「ど、どうし……した、の?それ、そんな……汚れて……」
「ああ」
萌黄と呼ばれた少女は、明の足元をみて、弱々しい声で言った。
「ちょっと、水場に入る必要があってな。それで、このざまだ」
「す、少し……、待って、て。すぐ、戻る……から」
萌黄はつっかえつっかえ喋ると、ぱっと身を翻し、どこかへ行ってしまった。
(――待てと言われたからには、待つべきだろう)
そう思い、明は壁にもたれてしばし瞑目した。
先ほど、走り去っていった少女――詩籐萌黄は、この女子寮において、明の隣室に在する女生徒である。
寮は個室制で、学年ごとに部屋のある階が分かれている。つまり、萌黄も明と同じ新入生だ。
入寮時の説明会で初顔合わせをして数日経つが、あのおびえたようなたどたどしい話し方はまったく変化をみせていない。
最初は自分を恐れているのかと思ったが、紫のような物腰の柔らかい人に対しても、同じような態度なので、どうやらこれは誰に対してもそうした喋り方のようだと納得した。
(一体、何をそんなに緊張しているのだろうな……?)
しばし物思いにふけっていると、パタパタと足音を立てて、萌黄が戻ってきた。
「こ……これ、を……」
そう言って、濡らした手ぬぐいと、ビニール袋を差し出してくる。
「足、拭いて……、ぬ、脱いだやつ、これに……」
どうやら、汚れた靴下は脱いでビニール袋に入れて、足を手ぬぐいで拭くように、ということらしい。
「ありがとう、萌黄。助かった」
事実困っていたから、明は素直に礼を言った。微笑してそれらを受け取る。
萌黄は明の顔を見ると、赤くなってうつむき、しどろもどろに何やらつぶやいた(大したことじゃないとかなんとか)後は、それきり黙りこんでしまった。
明は手早く処理をすると、ようやく部屋履きに履き替えることができた。
「これは、後で洗濯して返そう。すまなかったな」
そう萌黄に声をかけて明は部屋に戻ろうとしたのだが、なぜか萌黄は動こうとしない。
まだ、その場に立ったまま、なにやらちらちらと下駄箱に視線をやっている。
「?どうした。何かあるのか?」
そう聞くと、明らかに何か語ろうと口を開くものの、
「あ、の……」
それきり、言葉が止まってしまう。
そんな萌黄に、明はずばりと言い放った。
「萌黄、きみは何故もっとはっきりと喋らないんだ?」
ぐさっ!
萌黄が何か大きな衝撃を受け、多大なダメージを食らった様子が見えた。
完全にうなだれ、その目はいまや涙ぐんでいる。もうこの場から逃げ出してしまいたい、そんな風に言っているようにも見えた。
その顔を覗き込むように目線を合わせ、明は語りかけた。
「何か話したいことがあるのだろう?」
明の視線が正面から萌黄をとらえ、はっとしたように萌黄は顔をあげた。
「多くの――伝えたい多くのことがあって、どれから伝えればよいか分からないのか?」
明の言葉に、萌黄は目を真ん丸にして、静止した。
それから、何度も縦に首を振った。
「伝えたいことも、どんな言葉で、どんな順序で話せばよいのか――。そう、考えているから、言葉を探しているから、だから反応が遅くなってしまうのか?それが自分でも分かるから、焦って喋ろうとして、そんな風に、つっかえてしまうのか?」
萌黄は、また泣きそうな――ただし、先ほどとは違う種類の――表情をしてこくりと大きく頷く。
「別に急がなくていい」
瓢箪から駒がでたような顔をして、萌黄は明を見つめた。
萌黄が誰かの目を真っ直ぐに見つめるのは、非常に珍しいことだった。
「言いたいことがたくさんあるのなら、そのうちの一つから、順番に言えばいい。――どう言えば言いかわからないのなら、好きなだけ言葉を探せばいい。それでも出てこないなら、上手い言葉がでてこないと、正直にそう伝えればいい。――私は、いつまででも待っているから」
明は淡々と言う。ただ単に思っていることを喋っている、自然な表情だ。
「別に一分一秒を争うような忙しい身柄ではない。萌黄の言いたいことを聞こう。萌黄の言葉で、話してくれ」
そう言って、本当に、楽な姿勢をとって、明は萌黄の言葉を待った。
萌黄が何度も、言葉を形にしようと口を開きかけるのを見ながら、のんびりと待った。
「革靴……」
「ん?」
ようやく出てきた言葉に、明は自分の外靴に目をやった。
「革靴は、濡れると、傷んでしまうの……。このままじゃ、だめだから、お手入れをしないと……」
その言葉に、改めて自分の靴を見やる。
確かに、濡れた脚で履いたせいで、革靴も幾分湿っていた。表面にも水滴がたれている。
「そうなのか。こういったことは、今まで紫にまかせっきりだったからな……。すまない、萌黄。よかったら、どうすればよいか教えてくれないか」
萌黄はびっくりしたような顔をした。いや、実際かなり驚いているようだ。
「……私が?」
「ああ」
「……私で、いい、の?」
「?萌黄が、いい」
今ここで教えてくれるのは萌黄しかいないから、という意味で明は言ったのだが、萌黄は何故かボンッと顔を上気させた。
「え、えとえと。そ、それじゃ……まずは……」
あたふたと萌黄が意味不明な動きをしていると、
「――もー!もうもうもう!鞭からの飴だなんて~。萌黄ちゃんじゃなくっても慌てちゃうわよ~。ほんっと明ちゃんってばたらしなんだからー!」
しっとりとした艶のある女性の声と共に、明の背中に柔らかく温かいものが、もふっと圧し掛かってきた。同時に、後ろから首に両腕を軽く回される。
明に、その豊満な体を惜しげもなく押し付け、後ろから抱き着いてきた女性に対して、
「菫『姉』さん」
明は動じる様子もなく、平然と名前を呼んだ。
その反応は、菫と呼ばれた女性にはどうやら不満だったらしい。
「あらー。いきなり抱きついたっていうのに、その反応?もう少し驚いてくれてもいいのに」
おっとりと柔らかい口調で、声にも外見にも女性らしさのあふれた、実に落ち着いた色気のある女生徒だった。年の頃は十七、八歳だろうか。ふわふわした長い髪をゆったりと垂らしている。
「気配は感じていたからな。相変わらず菫姉さんは、柔らかくて良い匂いがして、気持ち良いな」
「……久遠時。その発言、中年親父がいったら完全にセクハラで訴えられるわよ。――菫も!『妹』分とはいえ、下級生に過剰なスキンシップをするんじゃないの!」
その菫の隣から、さらに別の女性の、威勢が良い声とともに、手刀が飛んできた。菫の頭に直撃する。
「いたっ!……紅葉~。いいじゃない、ちょっとくらい。こーんなに綺麗な『妹』なんだもの。かわいがったって」
言って菫は、見せ付けるようにさらに明の首に腕を絡めて頬を寄せる。
菫に手刀を食らわせた、紅葉と呼ばれた女性は、真っ直ぐな黒髪を、後頭部の高い位置でくくり、きりりと表情を引き締めている。いかにも人をまとめる立場に似合いそうな勤勉さと誠実さを感じさせる、指導者然とした女生徒だった。
菫に抱きつかれたままなるべく顔をその女生徒――紅葉――に向け、明は言う。
「九条先輩。私は触られることに問題はない。菫姉さんを叱らないでほしい。――それと、私の発言は何か問題があったか?」
九条紅葉は、疲れたように眉間に手をあててほぐした。
「久遠時。女性に対するほめ言葉は、露骨に言うものではないわ。なるべく表現をぼかして、さらにいえば、対象は好意を持った相手に限定するべきね。その方が誤解を招かないから」
「そうなのか。分かった。ご助言、感謝する」
九条の換言に、明はあっさりと頷く。
その様子を見て、九条はため息をつき、菫は楽しそうに笑った。
「久遠時……。初対面から変わらない印象なんだけど、あなたって本当に、問題児なんだか優等生なんだかさっぱり分からないわね」
腕を組み、しみじみという九条に、明は首をかしげて返す。
「どちらでもない、普通の生徒ではないだろうか?」
これには九条と菫、さらには状況に対処できず、あわあわしていた萌黄までもが、声をそろえて、
「「「それだけはないわ(です)」」」
と言ったのだった。