~白い少年~
「……ん?特級の組は、まだ学級活動中なのか?」
紫と一緒に帰ろうと思い、明は特級教室の手前まで来たのだが、その中にまだ生徒たちが残っている気配を感じ、足を止めた。
どうやら担任のものらしき声も、うっすらと漏れ聞こえてくる。
(あまり近くで待つのも、盗み聞くようで良くなかろう)
そう思い、教室から離れながら、たまたま近くを通りかかった女生徒に質問する。
特級と同じ階にいるということは、おそらく隣の教室の一級の生徒と思われた。
「すまない。知っていたら教えてくれないか。特級の学級活動はまだ終わっていないのだろうか。やけに長いようだが……」
話しかけられた女生徒は、明の顔を見て一瞬ぎょっとした後、頬を赤らめてややどぎまぎとしながら答えた。
「と……特級の組だけは、学級活動の後に、特別に適正試験をやるんだって。せ、生徒個人に合わせた、授業をするためだって、友達が……」
察するに、特級にいる友達から聞いた、と言いたいのだろう。
「そうか、ありがとう」
口元でやや笑みの形を作る程度の、わずかな笑顔で礼を言うと、明は歩き始める。
後に残された女生徒は、それだけの微笑みでも顔を真っ赤にし、逃げるように足早に去ってしまった。
そんな女生徒の反応には、明はもちろん気付かない。
無自覚の歩く女たらし(ただし性別:女)である。
「そんな事情なら、紫から連絡が来ているかもしれないな」
ここで待っていても仕方あるまいと、下駄箱に向かいながら、明は鞄から『文』を取り出した。
小さな和紙が綺麗に折りたたまれ、結ばれたものである。
人通りの邪魔にならないよう、通路の端で立ち止まると、明は『文』を開いた。
明が予想していた通り、紫の『香』がほのかに立ち上る。満月の静かな夜のような、瑞々しくも落ち着いた香りだ。
久遠時の人間は、香原料を自分好みに調合することで、それぞれが自分特有の香りを持っている。
『文』より香った『香』から、伝言の差出人が紫であることがうかがえた。
ついで、和紙に文字が浮かび上がる。
「明へ。私は帰りが遅くなります。先に寮へ戻っていてください。寮でまた会いましょう。紫」
紫からの言づけだった。
『文』は、その名の通り手紙の役割を果たす物だが、単なる手紙ではない。
術式が込められた神具である。
和紙には記された文字は永久ではなく、表示も消去も自由だ。現に明は、紫からの言づけを確認すると、それを消し、返信を込めた。
「分かった」
明らしい、端的な一文である。
そして『文』を元通りたたみ、上着の物入れへとしまう。これで、紫が持っている『文』へ明の返信が届いているはずだ。
(試験が終われば連絡が来るだろう)
そう思って、連絡が来れば気付くように、『文』は鞄には戻さなかった。
それから、学生寮へ帰るべく、歩みを再開した。
***
校庭に出ると、改めて美しい園庭が広がっている。
木々を吹き抜ける春風のさわやかさと、さまざまな花の香りが心地よかった。
明は散策するように歩を進めていた。
――が、その時。
ごうっ!
「っ!!」
突然、これまでにない突風が吹き、明の髪も服もバタバタと舞い上げられ、翻弄された。
反射的に、目を閉じる。
次に目を開けたとき、明は思わず声を上げた。
「!いけない!」
上着に仕舞っていた文が、先ほどの強風で物入れからこぼれ出て、吹き散らされてしまったのだ。
どのような偶然がはたらいたものか、それほど軽いものではないというのに、文はひらひらと空中を流される。
明は捕まえようと追いかけたが、しばらく風に漂った文は、よりによって校庭にある噴水の水の中へと落下してしまった。
「これは……、参ったな」
思わず明も、くしゃりと頭に手を当てる。
美麗な噴水である。中央に鎮座する、草花や鳥をモチーフにした彫像から、清らかな水がさらさらと流れ落ちている。
常日頃なら見惚れもしようが、今このときに限ってはその美しさもなにやら恨めしく見えた(噴水にとっては実に理不尽な逆恨みだ)。
なかなかに大きな噴水である。
円形に広く水をたたえており、文は中央近くに落ちてしまったので、噴水の外側からではどうしても手が届きそうにない。
文は別に特別高価であったり、貴重であったりするものではない。一般に広く使われている神具だ。だから別に新しいものを購入しても良いのだが、これまで紫とやり取りをしてきた文を手放すのは、気が進まない。
まして、神具は水にぬれたからといって障りのある物でもない。だから、取り戻しさえすれば元通り使えることが分かっているだけに、なおさら惜しかった。
しかし、あれを取るためには、どう考えても噴水の水の中に踏み入れるしかない。
「そんなことをしたら、間違いなく紫に叱られるな……」
濡れること自体は自分としてはどうでもよいのだが、紫の怒りはこわい。
(どうしたものか……)
少しの間思案に暮れていると、
「どうしたの?」
不意に、声をかけられ明は驚き、ぱっと振り向いた。
明の斜め後ろに、一人の少年が立っている。明と同じ年頃だろう。
いかに考え事をしていたとはいえ、これほど近づくまで気付かなかった自分を、明は意外に思った。普段はもう少し気配に敏感なはずなのだが。
そして、少年の姿を目にして、明は再度驚いた。
透き通らんばかりの、見事な白髪である。陽の光を受けて、新雪のように煌いている。
男性にしてはやや長く、耳が隠れる程度まで髪を伸ばしているが、少年のやわらかい容貌にはそれがよく似合っていた。
色白の肌の中で、柘榴石のような真紅の瞳が印象的に光っている。
色の抜けたような、一種異様な風貌だった。
それを見て、明は言う。
「珍妙な色彩だが、えらく美しいな、少年。高貴なうさぎみたいだ」
聞いた少年は、目を丸くして、それから吹き出して笑った。
「ははっ!なに、それ。うさぎって……!うさぎに貴いだの卑しいだのがあるの?」
「知らん。なんとなく言ってみただけだ」
「ははは!」
腹を抱えて笑いころげる。
しばらくして、笑いすぎてにじんだ涙を指でぬぐいながら、少年は言った。
「はー……、おかしい。外見について、会った瞬間こんなにはっきり言われたのは初めてだよ。しかも美しいなんて、珍しい評価だな。変わってるね、きみ」
「そうだな、変わっているとはよく言われる」
「あっさり認めちゃうし!」
少年はまた笑う。
笑ってばかりの少年に、困ったように明は話しかけた。
「私の言うことは、そんなに変か?――あのな、少年。私に何か用があったのではないのか?
急に近くに立っているものだから、驚いたぞ」
そういうと、ようやく笑いを収めて、少年は思い出したように言った。
「はー……、おかしかった。あ、そうそう。そうだった。いやー、なんだかきみが困っていたみたいだったから、何かあったのかなと思って」
「あ、いかん。そうだった」
意外な少年の出現に気を取られて忘れていたが、問題は文だ。
再度噴水に向き直ると、やはり先ほどと変わらず、文は手の届かないあたりに浮いたままだった。
明はため息をつく。
「やはり、取りに行くしかないか」
少年は明の視線をたどり、文に目をとめると、得心したように頷いた。
「あそこに浮いてる文、きみの?」
「ああ」
「あれを落としちゃったから、困ってたんだね」
「その通りだ」
「僕が取ってきてあげようか」
「――なに?」
さらりと言った少年に、明は目をまたたいて振り返った。
少年はにこにこしながら明を見ている。
「あれ、ないと困るんでしょ?だから、僕が代わりに取ってきてあげようか?って言ってるんだよ」
突然の申し出に、明は首を傾げて戸惑った。
「いや、初対面の君にそんなことをしてもらうわけにはいかない」
「取ってきてあげたら――代わりに何くれる?」
少年の返答に、明からぱたりと表情が消えた。
少年はいたずらっぽく笑っている。
「きみの大切なものを取り戻してあげたら――、代わりに、きみは僕に何をしてくれるのかな?」
明の反応をうかがうように、くすくすと笑いながら言う。
それを聞いて、明は。
おもむろに靴を脱いだ。
そのまま、靴下も脱ぐ。すらりとした美しい脚が半分以上見える。
「え、ちょっ――」
突然の行動に驚く少年を尻目に、明は、水をすくって軽く足を流し清めると――
ばしゃん!
――ためらいなく、噴水に乗り込んでいった。
そのまま、膝まで水につかって、スカートのすそを濡らさないよう大胆にも持ち上げながら、ばしゃばしゃと噴水を歩く。
そうして文を拾いあげると、平然とした顔で水をかき分けつつ戻ると、ざばっと水から上がり、地面へと降り立った。
噴水の神へ、汚したことを詫びる文言を口早に唱えて祈ると、明は鞄からハンカチを取り出し、濡れた脚を拭く。
そして言った。
「あのな、少年」
「――あ。な、何?」
あまりに素早い行動に、あっけに取られて見ていた白い少年は、話を振られて慌てて返事をする。
「私はな、人の善意は、むやみやたらに断るべきではない、と考えている。時と場合によっては、ありがたく受けるほうが、その人に敬意と謝意を示すことになると思うからだ。だが――」
大雑把に脚を拭くと、やや水気が残るのも気にせず靴下を履きなおし、明は少年に向き直った。
「誰かの行動に対し、対価として報酬を支払うなら、それは労働だ」
少年の目を見て、笑みをひらめかせた。
「私は、同じ学園で学ぶ同輩に、理由もなく労働をさせるくらいなら、泥であろうと自分がかぶった方がましだ」
そう言って足裏の汚れを払い(石畳なのでさほど汚れてはいない)靴を履きなおすと、
「それではな。縁があったらまた会おう」
そう言って、颯爽と明は去っていった。
「……。かぁっこいー」
残された少年は、その潔さっぷりに、思わずつぶやいた。
そしてまた、楽しそうに笑う。
「面白い女の子だったな。縁があったら――か。ぜひ、そうあって欲しいものだね」
それから、神学院高等部の制服を着た白い少年も、踵を返し、自らの帰途についた。